説教「わたしの弁護者」

2020年5月10日、六浦谷間の集会
「復活節第5主日

 

説教、「わたしの弁護者」 鈴木伸治牧師
聖書、エゼキエル書36章25-32節

   ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節
   ヨハネによる福音書15章18-27節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・438「わがまくらべに」
   (説教後)讃美歌54年版・499「御霊よ、降りて」


前週はゴールデンウィークであり、お休みが続きました。と言っても、今は新型コロナウィルス感染予防のため非常事態宣言が出されており、外出は自粛するように求められています。特に、ゴールデンウィークはどこも人の混雑が予想されるのですが、今年はできるだけ外出はしないように呼びかけられています。従って、いつもは混雑する観光地は閑散としていましたし、帰省するための電車も空席が目立つということでした。農村地帯では、今は田植えの時期であり、都会に出ている子供たちが帰省して田植えを手伝うのですが、それもできなくなっているのです。農村の人たちは高齢者が多く、若者が少ないのです。いろいろな場所で困難な状況が続いています。外出自粛で家で過ごす人々が多くなっていますが、それなりに生活の工夫をしながら過ごしているようです。今はオンラインの社会ですから、人との接触がなくでもネットによって語り合い、喜びあうことも出来ています。学校も幼稚園も休みになっていますので、それぞれの対策が行われています。伊勢原幼稚園も先生たちがYouTubeで話しかけたり、体操をしたりして、子どもたちを励ましています。一方、幼稚園の管理として理事、園長、主任がzoomというオンラインでテレビ会議をしています。私は自宅待機で外出を自粛していますので、いわゆるテレワークをしながら過ごしているのです。自粛で外出を控える中でも、それなりに歩みが導かれているということです。
 5月は私にとりましても祝福の歩みとなっています。本日は「母の日」として、覚えつつ礼拝をささげています。また、本日の5月10日は私の誕生日であり、家族からお祝いされています。いつも私自身の証しをさせていただいていますので、またか、ということになりますが、時期的なこともあり、お話しさせていただきます。誕生日を迎えると81歳になります。小学校3年生の途中から日曜学校に通い始めましたので、70年以上の教会生活をしていることになります。私が日曜学校に通い始めるのは、私の母の導きであります。
 1945年、昭和20年に日本は戦争していましたが、敗戦を宣言しました。私はその翌年、1946年に小学校1年生になりました。戦争のどさくさが続いていました。その敗戦後に兄が亡くなるのです。戦争中は学童疎開と言い、小学生は安全な場所に集団疎開をさせられたのです。松田の方面と聞いています。敗戦となって疎開先から帰ってきましたが、兄は栄養失調であり、肺炎となり亡くなったのです。小学校3年生でした。その後わたしの、母は戦争の疲れもあり、身体をそこねて入院するようになりました。横浜南共済病院です。その病院を今でも毎日見つめながら散歩しているのですから、私は毎日信仰の出発点を示されているのです。母が入院していると、ある日のこと、見知らぬ子ども達が病室に入ってきたのです。そして、お花を差し出しながら、おそらく、「早く良くなってください」と言われたのでしょう。後で知ることですが、その日は6月の第二日曜日、教会では「子どもの日・花の日」の行事を行っています。近くの教会の日曜学校の子ども達が花をもってお見舞いしてくれたのです。その頃も、既に「花の日」の行事が行われていたのでした。子ども達が花を持参して教会に出席し、その花をもって病院を訪問するのです。
 見知らぬ子ども達からお花を贈られた母は、亡くした子ども、私の兄くらいの子ども達からお見舞いされ、感動しつつお花をいただいたようです。その後、どのくらい入院していたか定かではありませんが、退院いたしますと、私を連れてその教会の日曜学校に出席したのです。母は花の日の御礼を述べ、今後はこの子が出席しますから、よろしくお願いします、と挨拶したようです。それからは日曜日になると、朝も9時前から日曜学校に送り出されるようになりました。母は自分は教会には出席しませんが、子供には人様に喜ばれる人になって欲しいとの願いを持ったのでした。4年生、5年生、6年生と毎年精勤賞をいただくほど、ほとんど休むことなく日曜学校に出席しながら成長致しました。そして、中学生になりまして、二人の姉たちが出席している清水ヶ丘教会に出席するようになるのです。高校3年生の時に洗礼を受けました。23歳の時、神学校に入ったのです。42年間の牧師をしてから隠退して今日を歩んでいるのですが、原点は母の導きでありました。その出発点の横浜南共済病院を見ながら散歩しているのですが、いつも出発点を示されているのです。牧師は人々を天国へとお導きする職務であり、母が私に対して「人様に喜んでもらうため」として日曜学校に連れて行った大きな証を示されています。私の証しは聖霊のお導きであると示されています。そして、本日は「わたしの弁護者」が私を今日までお導きくださっていると示されているのです。

 旧約聖書の示しをいただきましょう。エゼキエル書はエゼキエルという預言者が書いています。彼はもともと祭司の務めを持つ者でありました。ユダの国がバビロンに攻められ、多くの人々がバビロンの捕われ人になりました。エゼキエルもバビロンに連れて行かれました。それを捕囚と言っていますが、捕囚となって5年目に、エゼキエルは預言者としての召命を受け、神様のお心を人々に伝える者へと導かれたのでした。従って、エゼキエルの預言は捕われの境遇でありますが、その中で力強く神様の示しを語ったのであります。エゼキエルの預言は神様の裁きと回復について述べることに特色があります。神様の裁きは、人々が真に神様のご臨在を知るためでありました。ユダの国に対し、あるいは諸国の国に対し、神様は裁きを行うことを述べた後で、「こうして、お前はわたしが主であることを知るようになる」と述べるのであります。この言葉は「神認識句」と言われます。神様を真に知るために裁きが行われるということです。エゼキエル書には「神認識句」が54箇所もあります。エゼキエル書は聖なる神様を証しているのです。真に神様を示されるときに、そこにこそ真の回復が与えられることを示しているのであります。
 今朝の聖書、エゼキエル書36章は「イスラエルの山々に向かって」回復が預言されています。イスラエルの山々は偶像礼拝が盛んになりました。それに対する神様の裁きがありました。今や、山々は回復され、神様のご栄光を現す山々になることを示しています。それが15節までです。そして、16節からは人々の回復であります。私たちの今朝の聖書は25節以下32節です。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる」と示しています。聖書の人々は、何よりも聖なる神様を汚したのであります。それは捕われ人となり、神様の都とさえ言われるエルサレムの滅亡へと至らしめたからであります。そのため、汚れている聖書の人々は清くならなければなりません。自分で清くなることはできません。神様が人々を清めるのであります。そして、清められた人々に「新しい心を与え、新しい霊を置く」のであります。それにより神様のお心をもって歩むようになると示しているのであります。
 「水を振りかける」ということ、カトリック教会ではミサの中で行われます。バルセロナカトリック教会の棕櫚の主日ミサに列席しました。最初は教会の庭に集まり、そこで祈りの儀式が行われ、神父さんが皆さんに少しずつ水を振りかけていました。皆さんは清められて礼拝堂に入って行くのでした。
 偶像の神々に心を向け、人間の力にすがっていた今までの歩みがあります。それらが汚れた姿でありますが、今や「水を振りかけられて」清められ、新しい心、霊を与えられて、まさに回復を与えられて生きるようになるのです。人間が偶像に依存することは根本的な姿でもあります。偶像は自分の欲望を満足させるものです。それは人間の始まりからありました。創世記に人間が造られ、神様はその人間をエデンの園に住まわせました。それがアダムさんとエバさんです。神様は、彼らに園のどの木からも果物を取って食べなさいと言われ、しかし園の中央の木からは取って食べてはならないと戒めを与えました。彼らはその戒めを守りつつ園で過ごしていました。ところが、ある日、蛇か現れ、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」というのです。神様は、どの木からも食べて良いと言ったのであり、一つだけ、園の中央の木からは食べてはならないと言ったのであります。彼らは蛇の言ったことが気になり、改めて戒められている中央の木を見るのでした。彼らがその木を見ると、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」のであります。彼らは思わず木の実を食べてしまいました。おいしそうであること、目をひきつけていること、賢くなるとの思いが食べてしまうことになりました。これは人間の根本的な欲望であり、聖書は原罪としています。人間はこの原罪がある故に、祝福の歩みができないことになります。絶えず自己満足に生きようとしているのです。そして、自己の欲望を満足してくれる偶像へと心を向けていくのです。偶像は自分の欲望の姿であります。実に旧約聖書の歴史は偶像礼拝の歴史でもあります。それに対して、神様は裁きを与え、また回復を与え、忍耐をもって導いておられるのであります。

 主イエス・キリストはお弟子さん達に懇々と示しを与えています。イエス様は十字架にお架かりになる前、お弟子さん達に別れの説教をいたしました。いわゆる決別説教というものであります。決別説教はヨハネによる福音書14章、15章、16章の三章にわたっています。イエス様は復活して天に昇られるのでありますが、この世に残されるお弟子さん達の不安を取り除き、弁護者である聖霊の到来によって、豊かな平安が与えられることを約束しているのであります。決別説教の最後で、16章33節、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と示され、お弟子さん達を励ましています。
今朝の聖書もお弟子さん達を励ましています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」と聖霊の導きを示したのでありました。15章18節からは「迫害の予告」とされています。イエス様ご自身も当時の指導者達の迫害を受けていました。その迫害が、結局は十字架へと最悪の結果になっていくのでした。金曜日に十字架で死に、埋葬されますが三日目に復活されます。そして40日間、復活を証します。そして、天に昇られました。それからのお弟子さん達の不安の日々をイエス様は充分心得ていました。この18節以下では、お弟子さん達がイエス様を信じて生きるあまり、人々からの迫害は明らかなことであり、それはお弟子さん達ではなくイエス様を憎んでいるからであることを示します。しかし、神様がくださる弁護者、真理の霊により力強く生きることを示しているのであります。この弁護者は新しい活動を弟子達に導くというのではなく、主イエス・キリストのこの世における救いの全容を明らかにするものでありました。まさに真理の霊であります。弁護者を与えられることにより、お弟子さん達はイエス様の教え、その業が神様のご栄光を現すものであることを知ることになるのであります。だから、確信をもってイエス様の証をしていくことになるのであります。
このヨハネによる福音書は、イエス様が時の社会の指導者、ユダヤ人、群衆と論争が展開されています。私たちはこの論争を見るとき、私たちもなかなか分かりにくいのです。それはお弟子さん達も同じでありました。イエス様と共にいて、イエス様がいろいろな人々と論争をしていますが、お弟子さん達も分かりにくいことでありました。実際、6章60節以下で、弟子達がイエス様のお話しにつぶやき、多くの弟子達がイエス様から離れたと記されています。ここでの弟子達は12人のお弟子さんはなく、イエス様の教えを喜んで受け入れた人々であります。そういう中で、12人のお弟子さんはイエス様のお話、示しが良く分からなくてもイエス様に従っていたのです。そのお弟子さん達に弁護者が遣わされるというのです。真理の霊であります。真理の霊をいただいたお弟子さん達は、イエス様のお話されたこと、証されたこと、すべてが生き生きと示されるのです。そして、主イエス・キリストの救いの証を力強く人々に宣べ伝えていく者へと導かれるのであります。

 神様からの弁護者、真理の霊は私たちに与えられています。真理の霊は、主イエス・キリストが真の救い主、十字架の贖いが私を力強く導くものであることを示してくれます。このことを説明する一つの例としてステンドグラスがあります。ステンドグラスは外から見ると、ぼやっとして何がなんだか分かりません。しかし、このステンドグラスを内側から見ると、まさに生き生きと示されるのです。ステンドグラスが光を受けて、描かれている絵の意味をはっきりと示しているのです。キリスト教について外側から見ようとすると、なんだかよく分からないことが実情です。しかし、内側に入ってイエス様を見つめることによって、イエス様の教え、十字架の意味が生き生きと私に迫ってくるのです。
 聖霊は今の私達の歩みを導いてくださっています。聖書は「わたしの弁護者」と示しています。いかなる状況を歩みましょうとも、私には「弁護者」がおられて導いてくださっています。弁護者である聖霊は、長い年月を通して導いてくださっているのです。聖霊の導きに委ねて歩むことです。今朝は聖霊のお導きを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。真理の霊を与えて下さり感謝します。弁護者である聖霊のお導きによって歩ませてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

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