説教「神様からのご委託」

2020年5月3日、六浦谷間の集会
「復活節第4主日

 

説教、「神様からのご委託」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書62章1-5節

   ヨハネの黙示録3章14-22節
   ヨハネによる福音書21章15-25節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・155「空はうららに」
   (説教後)讃美歌54年版・243「ああ主のひとみ」

 


 5月が始まりました。もはや初夏であり、桜の花や桃の花、そしていろいろな木に咲く花等を喜んで鑑賞していましたが、花も終わりになり、それぞれの木は新緑の葉が生え始めています。花びらが落ちた後は、初々しい葉を鑑賞するようになっています。日本の国は季節の移ろいを常に喜ぶことができるのです。昔、小説家の川端康成さんがノーベル賞をいただき、受賞の際、講演をしましたが、「美しい日本の四季」と題してお話しをしたと言うことでした。私達はこの美しい自然の移ろいを神様のお恵みとして受け止めています。しかし、今は新型コロナウィルス感染予防のため、美しい花の芽が切り取られています。たくさんの花が咲くと多くの見物客が訪れ、人が混雑することになります。人との接触をできるだけ抑えられていますので、人が集まるような場所はなくすようにしているのです。従って、今年は桜のお花見はできませんでした。桜を見ながら、宴会を開くことも禁じられたのでした。今は人々はひたすら家の中にいなければなりません。しかし、職務上、人との話等が必要です。そのためテレビ電話で話し合うことが多くなっています。勤めている幼稚園でも、今は幼稚園を休園しているので、今後どのように対処するか理事の皆さんと話し合いました。それもテレビ電話で、集まっての話し合いではなく、それぞれの場所から話し合ったのでした。テレビ電話と言えば、我が家ではネット礼拝をしています。スペインに住む羊子や相模原に住む星子、海老名におります優が、日曜日の夕刻6時に画面を通して一緒に礼拝するのでした。新型コロナウィルス感染予防がなければ、テレビで話し合ったり、仕事をすることも少なかったと思いますが、今は重要な存在になっています。しかし、このような状況の中でも、真に人間の絆、触れ合いが生まれるかということです。人間は、共に歩むことが大切なのです。日本ではあまりしませんが、外国では人が出会うと握手したり、ハグしたり、触れ合いを喜びあいます。日本ではそのような風習は発展しませんでしたが、やはりお互いにお辞儀をしては話し合うこと、そういう触れ合いで互いに元気が与えられるのです。
 教会では、今は多くの教会が礼拝、ミサを中止にしています。礼拝は各自において家でささげて欲しいということなのです。しかし、礼拝は共に声を合わせて賛美をささげ、お祈りを共にし、み言葉を共に聞くことで喜びが与えられ力となるのです。人と人とが共に触れ合うことで喜びが与えられるのです。それが今は人と触れ合うことが禁じられており、できるだけ外出しないことが求められているのです。神様は人が共に歩むことを求めておられるのです。共に歩むことで、一人一人に力が与えられるのです。今のこの時、私たちは神様のご委託を改めて示されたいと今朝の聖書を示されているのです。

 今朝の旧約聖書イザヤ書62章の背景については、前週もイザヤ書61章でしたので同じ背景であります。前週も示されましたが、イザヤ書の背景は、もはやバビロンの国に捕われているのではなく、解放されて故郷に帰っている人々に対する励ましの言葉であります。約50年間、捕囚として捕われの境遇でありました。その後、捕囚から解放されたのであります。喜び勇んで故国に帰ってきました。しかし、都エルサレムは破壊されたままの状態でありました。しかも、エルサレムには外国の民とされるサマリア人が住み着き、また捕囚とならなかったユダヤ人が住んでいましたが、50年も経ている今、それらの人々がバビロンの国から帰還した人々に冷たく対応するのでした。早速、そこで生活をしていかなければなりません。しかし、食べるにしても着るにしても、また住む場所にしても思うようには行かないのであります。そして、人々のよりどころである、神様を礼拝する場所、神殿を再建しなければなりませんでした。そのような人々にイザヤは、神様があなたがたを導き、励ましていますよ、と告げるのであります。
 そして、今朝の62章は「シオンの救い」をテーマに示しています。シオンは都エルサレムのことであります。中心である都をまず回復する事を述べます。「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで」と述べています。「彼女」とはシオンであり、都のことです。そのシオンは荒廃したままです。その荒廃したシオンに人々はバビロンから帰ってきました。それで、気が抜けたように、失望とみじめな思いで過ごしていた人々でありました。しかし、人々を捕われの身から解放したのは神様でありました。まず、その導きを受け止めなければなりません。そして、神様はイザヤを遣わして、「貧しい者への福音」を示しました。さらに、「シオンの回復」を示しているのです。神様は決して口を閉ざさないと言い、シオンのために決して黙ってはいないと励ましているのです。いつまでも現実を悲嘆するのではなく、新しい歩みが始まっていることを受け止めるべきなのであります。「あなたの土地は再び『荒廃』と呼ばれることはない」と言っています。都のシオンは「松明のように燃え上がる」とまで言われているのです。この新しい動きに身をゆだねるべきです。悲しみの過去をいつまでも引きずってはならないのです。新しい現実は神様の導きであります。そこに希望を持ち、喜ぶのであります。苦しみはいつまでも続くのではない、悲しみは必ずや喜びへと導かれるとイザヤは示しているのです。今は、世界の人々は悲しみと困難な状況ですが、神様のお導きに委ねて歩ことを示されているのです。

もはや今までの自分ではありません。新しい歩みを与えてくださる主イエス・キリストであります。新約聖書ヨハネによる福音書21章は、お弟子さん達が復活されたイエス様に三度目にお会いしたことが示されています。イエス様は復活されましたが、今までと同じようにお弟子さん達と寝食を共にするというのではありません。それで、お弟子さん達は何をもって生きていくのか思案している中で、ペトロは魚をとる漁師であったので、とりあえず漁に出かけました。他のお弟子さんたちもペトロと共に漁に出たのでした。彼らは一晩中、漁をしましたが取れませんでした。魚を捕る漁は夜に行うのです。この地域は暑いところなので、日中は魚が水面には出てこないのです。夜になると水面に出てくるので、そこで漁をするのでした。もはや朝になりました。すると、岸辺にいる人が何か言っています。その人は「舟の右側に網を打ちなさい」と言うのです。一晩中漁をして何も取れないのに、そういわれてもと思いながら、言われるままに網を打ちました。するとおびただしい魚が取れたのでした。それにより、岸辺の人が復活されたイエス様であることが分かるのでした。岸辺に上がると、イエス様が朝の食事を用意されていました。イエス様の勧めでお弟子さん達は朝の食事をしたのでした。「最後の晩餐」に対して「最初の朝餐」として、前週のメッセージを示されたのであります。前週もお話ししましたが、その岸辺に私も聖地旅行をしたときにたたずんだのであります。その岸辺は石がごろごろしていまして、このような場所でイエス様はお弟子さんたちと朝の食事をしたのでした。このような、およそ、食事をするような場所ではありませんが、どのような困難な状況でありましょうとも、イエス様が共におられて生活を導いてくださっているというメッセージとして示されているのです。何をもって生きていくのか、そのような課題にいる時、日毎の糧を与えてくださるイエス様の導きを示されたのであります。
食事が終わりました。そのとき、イエス様はお弟子さんの中でもいつも中心的な存在であるペトロさんに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と尋ねるのです。ここでは、もちろんイエス様を愛しているかとの問いです。「この人たち以上に」というのは、「わたしとこの人たちとどちらを愛しているか」ではなく、「この人たちがわたしを愛している以上に、わたしを愛しているか」との問いであるのです。一晩中、漁をしましたが魚が取れなく、岸辺の人の示しでたくさんの魚が取れ、それで岸辺の人が復活されたイエス様であることが分かったとき、ペトロは裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込み、岸辺へと泳いでいったのであります。それほどイエス様への思いが深いのであります。他のお弟子さんはそのようなことはせず、取れた魚は船に引き上げることもできず、舟で網を引いて岸辺に戻ってきたのでした。イエス様への思いが深いペトロさんに問われたのです。「あなたはわたしを愛しているか」と問われたとき、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言いました。岸辺の人が復活されたイエス様であることが分かったとき、一番にイエス様のもとへ行ったほどの愛し方でもあるのです。だから、自分がイエス様を愛していることは、イエス様ご自身が分かっていると思っているのです。ペトロの答えに対し、「わたしの小羊を飼いなさい」とペトロの職務を与えるのでした。さらにイエス様はペトロに、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と尋ねます。問われるままに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えるのでした。そのときもまた、「わたしの羊の世話をしなさい」と職務の任命がありました。ところが、イエス様はまたペトロに聞くのです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と同じことを聞くのでした。さすがにペトロは同じことを三度も聞かれ、悲しくなったと記されています。そして、悲しみをもちながら、「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言うのです。そのときもまた、イエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのでした。
ところで、「わたしを愛しているか」とのイエス様の問いに対して、ペトロは「わたしはイエス様を愛しています」と言わないで、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言っています。どうして「わたしはあなたを愛しています」と言わないのでしょうか。ペトロが、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言ったとき、ペトロの心の中には、イエス様を三度裏切ったことが悲しみとして残っているのです。イエス様が捕らえられたとき、ペトロは心配しながらついて行きました。すると、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言われるのです。ペトロは、「違う」と言い、イエス様との関係を否定したのです。そういうことが三度もありました。ペトロは「わたしが愛していることは、あなたがご存じです」と言い、「ご存じ」の中には三度裏切ったこともご存じであることを含めているのでありました。イエス様を愛している。しかし、裏切ってもいる。イエス様は自分の何もかもご存じであることを知ったのです。三度も「わたしを愛しているか」との問いは、三度も裏切ったことと重ねているのでありますが、もう一つの意味があります。
すなわち、今朝のメッセージとして「主イエス・キリストが確実に私をとらえ、私を新しく歩ませてくださること」であります。もはや今までの私ではないのです。旧約聖書では、捕われの身から故郷に帰ったとき、悲しみの現実がありました。その悲しみに次第にならされていくとき、イザヤが神様のお心を力強く示したのであります。「貧しい者への福音」「シオンの救い」を示された人々は、「主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれるであろう」と言われ、その名は「望まれる者」といわれると言うのでした。人々から「望まれる者」として生きるようになるのです。
ペトロは三度もイエス様への愛を問われました。もはや、イエス様がいないからと家の中に引きこもるものではありません。自分の弱さ、至らぬ姿をすべてご存じのイエス様に自分を投げて生きる者へと導かれているのです。その確認のために三度も念を押されたということとして示されるのであります。そして、ペトロはイエス様の救いの喜びを多くの人々に伝えていったのであります。

 人と接しつつ歩むことが人間の営みなのです。それを自粛するように求められても、人との接触を求めるのが私たちなのです。イエス様はペトロにイエス様の御用を委託されました。最初の問いに対して、「私の小羊を飼いなさい」と言われ、二番目の問いに対しては、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。そして、三度目の問いに対しては、「わたしの羊を飼いなさい」ということでした。意味合いは同じですが、「小羊を飼う」とは、小さい存在、弱い存在に関わるということでありましょう。「羊の世話をする」とは、人とのかかわりを大切にするといことであります。その「羊」に対しても「飼いなさい」と言われています。人にはいろいろな存在があり、それられ人々とのかかわりを奨励しているのです。しかし、ここでは単に人との関係を深めなさいと示しているのではなく、十字架の救いが原点であります。「飼う」、「世話をする」ことにおいて、十字架の救いを示し、人々が喜びへと導かれることなのです。そのようなご委託を私たちに与えられているのです。
 この現実は今までの続きではありません。悲しみの現実にイエス様が復活されたというお知らせをいただいています。今や復活の主イエス・キリストが私の現実に、共に歩んでくださっています。今こそイエス様の十字架の救いを証ししなければならないのです。
<祈祷>
聖なる御神様。私の現実に、イエス様が共に歩んでくださること、ありがとうございます。新しい一歩を歩ませてください。イエス様のみ名によってお祈り致します。アー

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