説教「一緒に住んでくださる神様」

2020年5月31日、三崎教会
聖霊降臨節第1主日

 

説教、「一緒に住んでくださる神様」 鈴木伸治牧師
聖書、エゼキエル書37章1-10節
   ヨハネによる福音書14章15-24節
讃美、(説教前)讃美歌21・343「聖霊よ、降りて」
   (説教後)讃美歌21・217「一日の仕事を終えて」

 


 本日は聖霊降臨祭としての礼拝です。ペンテコステ礼拝とも称しています。ペンテコステという意味は「第50」ということです。何に対して「第50」というのかといえば、イエス様のご復活からの数字です。イエス様のご復活から50日目ということです。もともとユダヤ教では、この日を「五旬祭」としてお祝いしていました。もとは収穫感謝祭でしたが、後に、シナイ山十戒が授与された日とするようになり、与えられた律法を感謝する日とするようになりました。キリスト教も並行して「第50」を大切にするのは、この日に聖霊が降ったのです、聖霊降臨祭としてお祝いするようになっています。
本日は聖霊が降る日であります。この聖霊が降る意味を、まず受け止めておかなければなりません。主イエス・キリストは十字架に架けられ、埋葬されますが、三日目に復活されました。そして、復活されたお姿を40日間、お弟子さんを始め多くの人々に示されたのです。そして、40日後に天に昇られたのです。今年は5月21日でした。イエス様は復活されて、そして天に昇られ、私達を天国に迎えてくださるのです。再びイエス様のお言葉を示されましょう。それはヨハネによる福音書14章1節以下であります。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろう。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」と示されたのであります。聖霊降臨は、天国で場所の用意ができたので、私達がその天国に導かれるために、イエス様がお迎えに来られたということです。お迎えに来られても、私達はそれぞれの人性を歩んでいますので、その人生を聖霊によってお導きくださり、そして目的地、すなわち天国へと導いてくださるのです。聖霊降臨とは、イエス様が私達を天国に導いてくださるために、イエス様が聖霊となって私達の現実を共に歩んでくださることなのです。

聖霊により力強く立ち上がる人々を今朝の旧約聖書は示しています。エゼキエル書37章は「枯れた骨の復活」との表題がつけられています。預言者エゼキエルは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされました。このことは、エゼキエルが幻によって神さまのお心を示されていることなのです。ある谷に降ろされ、あたりを見回すと人間の骨が散らばっているのであります。しかも、それらの骨は枯れた骨だといいます。枯れた骨と言いますから、骨となって久しく経っているということで、触ればもろくもくずれてしまう骨でありました。そのとき、神さまの声がありました。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と言うのです。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」とエゼキエルは答えます。骨が生き返る、しかも枯れた骨です。考えられないことでありますが、エゼキエルは神さまの御心にお任せしています。すると神さまは言われました。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と言うのです。エゼキエルは命じられたように枯れた骨に向かって神さまの言葉を示します。すると、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づくのです。そして、骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆ったのであります。
 前の口語訳聖書は「動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった」と訳しています。こちらの訳の方が理解しやすいと思います。こうして、枯れた骨でありますが、人間の姿になりました。しかし、その人間の姿には霊はなかったのであります。そのとき、再び神さまは言われました。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」と言うのであります。エゼキエルが命じられたように預言します。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立ったのであります。生き返った人々は非常に大きな集団となったのであります。
 今朝の預言は、捕われの身となり、希望をなくし、力をなくしている人々の回復を示しているのであります。その姿はあたかも枯れた骨でした。その枯れた骨が生き生きと立ち上がることを示しています。もはや、希望のない存在ではない、もはや力をなくしている存在ではないのです。霊が与えられ、生き生きと立ち上がる人々なのです。神さまの霊が与えられること、この原点は創世記における人間創造にあります。創世記2章7節にこのように記されています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と示されています。神様が天地を創造され、天地や植物、生き物を造られ、最後に人間を造った状況です。もちろん、この描写は神話的でありますが、深い真理を示しているのです。神様は粘土で人の形を造りました。それはまだ人間ではありません。粘土の人の形の鼻に「命の息」を吹き入れることによって、人間は生きた者になったのであります。ここで、「命の息」と言われていますが、聖書の言葉であるヘブル語では「ルアッハ」と言います。このルアッハは「命の息」と訳されていますが、「霊」とも訳され、「風」とも訳されるのであります。エゼキエル書で、「霊よ、四方から吹きつけよ」と示しています。霊の風が四方から吹いてきて、枯れた骨のような状態の人々に与えられるのであります。希望をなくし、力をなくしている人々が生き生きと立ち上がったのであります。希望を持って、捕われの境遇を生きることになるのであります。

 新約聖書ヨハネによる福音書14章15節以下が示されています。ここでは主イエス・キリストが弟子達に聖霊を与える約束をしています。ヨハネによる福音書は14章から16章まではイエス様のお弟子さん達への決別説教であることは示されています。決別説教では、イエス様はやがて天に昇られることを示しながら、残されるお弟子さん達を繰り返し励まされておられるのです。その約束が聖霊を与えるというものでした。
 その主イエス・キリストの約束の霊が与えられたのであります。使徒言行録により示されます。使徒言行録2章はお弟子さん達に聖霊が降った状況が示されています。
 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されています。聖霊が降った証しであります。この使徒言行録は1章6節以下で、主イエス・キリストが天に昇られたことが記されています。そして、その後は、イエス様の示しにより常に祈りを合わせていたのであります。聖霊は「激しい風のような」、「炎のような舌」と示されています。これはそのようにたとえているのでありまして、「~のような」としています。聖霊が風であることはエゼキエル書において示されました。風、ルアッハが枯れた骨に吹き込まれます。散らばっていた骨が相つらなり、筋ができ、皮で覆われ、生きた者へと導かれたのでした。死んだように力をなくしている人々に神さまのルアッハが与えられることにより、力を得るのです。立ち上がることができたのです。この使徒言行録においても、力をなくしているお弟子さん達にルアッハが与えられたのです。「激しい風のような音」を聞いたのです。そして、一人ひとりに聖霊が降ったということです。
 そして、炎のような舌が弟子達の上に留まりました。舌、べろは味わう部分です。それと共に舌は言葉を作る部分であります。炎のような舌が留まるとは、力強い神さまのお言葉がお弟子さん達に与えられたことを示しているのです。それはまた、主イエス・キリストのお心であり、お導きなのであります。イエス様はこの聖霊を弁護者と言われ、真理の霊とも言われました。イエス様御自身が私たちの弁護者となり、真理の霊を与えてくださるのです。お弟子さん達は聖霊をいただき、もはや家の中に引きこもっていませんでした。祭でにぎわう人々の中に出て行きました。聖霊の導きであり、力が働いて、今まで考えも及ばない歩みが始まったのであります。

 今朝はこちらの三崎教会に招かれ、み言葉を取り次がせていただいていますが、その他の日曜日はどうしているのか、ということです。2010年3月で大塚平安教会を退任しました。その後、いくつかの教会のお手伝いをしていますが、どこの教会にも属さない無任所牧師になりました。ですから日曜日にはどこかの教会に出席すべきところですが、2010年11月より、自宅で夫婦で礼拝をささげるようになりました。牧師と信徒がいますので、み言葉に向かうことができるのです。時には家族、知人が出席されるのですが、原則、夫婦二人で礼拝をささげています。特に、今は新型コロナウィルス感染予防のため、外出を自粛するように呼びかけられていますので、自宅で礼拝をささげることのお恵みを示されています。娘がスペイン・バルセロナに住んでいますが、スペインでは教会のミサ、礼拝もすべてお休みになっております。そこで娘がオンラインで私たちの礼拝に参加するようになりました。他の子どもたちも参加して、オンラインで礼拝をささげているのです。まさに、「一緒に住んでくださる神様」を示されています。
 神様は私たちがいかなる状況にありましょうとも、共にいてくださるのです。聖霊を注いで下さり、導いてくださっているのです。イエス様の約束の聖霊を今朝の礼拝において与えられたことを確信して歩みたいのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。聖霊を与えてお導きくださり感謝致します。天国への歩みが強められますようお導きください。主イエス・キリストのみ名によりおささげします。アーメン。

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