説教「新しい人となるために」

2014年8月31日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第13主日

説教・「新しい人となるために」、鈴木伸治牧師
聖書・ミカ書6章1-8節
    エフェソの信徒への手紙4章17-32節
    マルコによる福音書10章46-52節
賛美・(説教前)讃美歌21・285「主よ、み手もて」
    (説教後)讃美歌21・355「主を仰ぎ見れば」


 本日は8月31日で、8月の最後の日曜日であり、また最後の礼拝です。特に最後と言っているのは、この8月中の礼拝説教において、説教の導入はいつも平和について示されていました。言うまでもなく、8月は広島や長崎に原子爆弾が落とされ、多くの人々が犠牲となり、悲しみは今も続いているのです。終戦記念日もありました。しかし、終戦と言えば、何か自然に戦争が終わったかのように受けとめられますので、終戦とは言わず、敗戦記念日と言っております。日本が戦争をしており、その戦争に負けたのであるということを受けとめる日としています。敗戦という言葉の中には、日本が国力を誇り、アジアを侵略し、さらにアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争に発展していきました。小さな国で資源もなく、戦うことは最初から無理があったのであります。強引な姿勢が敗れたということなのであります。多くの人々が死んでいったのであります。とにかく生きている者も死んだものも悲惨な状況を歩まなければなりませんでした。日本の歴史を振り返って、決して戦争を再び起こしてはいけないと示されています。しかし、今は世界のあちらこちらで戦争が行われています。多くの人が亡くなっているのに、自分たちの主張が通るまで戦いを続けているのです。
 日本の国は1945年に敗戦となり、その後69年を経ておりますが、日本の国はどのような方向に動こうとしているのでしょうか。日本の憲法平和憲法として世界に知られています。侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した9条を含む憲法を制定しました。しかし憲法制定から半世紀以上を経たいま、憲法9条を中心に日本国憲法を「改正」しようとする動きが出始めているのです。憲法が改正されると、再び戦争に巻き込まれることになるのであります。そのため「九条の和」という組織が作られ、全国的に憲法改正反対運動を展開しています。「九条の和」を立ち上げた人々は井上ひさし大江健三郎小田実加藤周一澤地久枝鶴見俊輔等の人々ですが、今や宗教界や文化人、さまざまな人々が「九条の会」を作り運動しています。私も九条の和に加入し、志を共にしています。
 戦争は人間の力によって、思いを満足させることであります。確かに人間は思うことは実現していきます。今や宇宙の彼方にまで行き来しています。しかし、科学や文明を深めても、人は人を支配することはできないのであります。人を支配するのは神様であります。旧約聖書創世記には神様が天地を創造されたことが記されています。大地に植物、動物が造られた後に人間が最後に造られます。その時、神様は人間に言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と示されたのであります。人間は動植物を支配しますが、人間を支配することは神様からは委ねられてはいないのであります。人間は平等に生きることが、人間の務めなのであります。平等に生きるためには神様の御心を求めなければならないのであります。神様が平和に生きる道を示されているのであります。そのために、常に神様に心を向けること、それが人間に求められていることであります。神様に心を向けないで、自らの力で歩もうとするとき、傲慢な歩みとなっていくのであります。
 私どもの娘がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしていますが、その娘が4年前に横浜本牧教会でピアノのコンサートを開かせていただいたとき、演奏の合間に証をしました。本人は、演奏にあたってはいつも不安を持っていると述べていました。神様に心を向けるときに平安が与えられ、演奏に臨むことができると述べていました。その姿勢を皆さまの前で述べたのは初めてではないかと思います。娘がスペイン・バルセロナに渡り、ピアノの演奏活動をするとき、ときどき電話があります。これから演奏会が開かれるので、お祈りして頂戴と言うのです。それで電話でお祈りするのです。時には歯を磨いているときに電話があり、口の中は歯磨き粉ですが、ゆすいでからであると時間がかかりますので、そのままお祈りしたりするのでした。「苦しい時の神頼み」という諺がありますが、私たちはいつも苦しくなければならないということです。神様に向かわなければ何もできないという姿勢を持たなければならないのであります。

 「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている」と預言者ミカが示しています。人々が神様の御心から離れて生きていることに対するミカの導きであります。旧約聖書はミカ書6章1節以下であります。ミカ自身が貧しい農民であったと思われます。従って、都会の富裕な者たちが、貧しい農民から搾取することに激しく批判するのであります。ミカ書3章5節、「彼らは歯で何かをかんでいるあいだは平和を告げるが、その口に何も与えない人には戦争を宣言する」と示しています。人から何かを取ることができれば機嫌が良いが、何も取ることができなければいじめにかかる、というのです。こうした社会の不正に対して、ミカは神様の御心を力強く示します。6章は「主の告発」として、神様が不正に生きる人々を告発しているのです。告発にあたり歴史を思い出させています。5節、「わが民よ、思い起こすがよい」と示しています。すなわち、歴史を回顧するならば、すべては神様の導きであり、恵みをいただいた歴史であるということです。「わたしはお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った」と示します。
 預言者ミカは神様の御心から離れてしまっている人々に、御心に立ちかえることを示すのです。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と示します。自分の思いや力ではなく、へりくだって神様と共に歩むことであります。へりくだって神様と共に生きるとき、私達のなすべき歩みが示されてくるのです。ミカは時の社会の指導者たちに、はっきりと神様の御心を示しました。3章12節、「それゆえ、お前たちのゆえにシオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」と示しました。この言葉をミカから100年も後のエレミヤが引用しました。エレミヤはミカが大胆に神様の御心を示したので、人々は悔い改めた事を述べています。だから、あなたがたも悔い改めなさいと示しているのであります。神様が人々に求めておられることは「これである」と示しています。「これ」とは「正義を行い、慈しみを愛する」ことなのであります。私たちは「これ」を持って生きなければならないのであります。「これ」をもって生きるときに、この地上が平和へと導かれていくのであります。
 日本キリスト教海外医療協力会と言う働きがあります。そこで総主事をされておられる方から「総主事通信」をパソコンに送っていただき、読ませていただいております。その総主事通信を読むことで、私は日本キリスト教海外医療協力会の認識を改めさせられたのであります。大変浅い認識で申し訳ないとの思いを深めています。その日本キリスト教海外医療協力会は古切手を集め、それをお金に換え、そして薬代とし、海外で医療活動を行っている、という認識でした。確かに医療活動を行っていますが、貧しく生きる人々と共に歩んでいるのです。学校に行くことのできない子ども達、それらの子供たちは古紙を集めてはお金にしていると言われます。また、女性達の問題があり、ワーカーと言われる人たちが指導し、共に歩もうとしているのです。日本キリスト教海外医療協力会がそれらの人々と連絡を取りつつ、海外医療と人間の諸問題にかかわっているということを示されたのであります。ミカが示す「これ」を持って生きる人々であります。すなわち、「正義を愛し、慈しみを愛する」者として導かれなければならないのであります。

 神様に心を向けること、そこに「日々、新しく生きる」歩みが導かれてくるのです。マルコによる福音書は、単に心を向けるのではなく、主イエス・キリストに向かって叫びなさいと示しています。10章46節以下が今朝の聖書です。「盲人バルティマイをいやす」ことが記されています。「一行はエリコの町に着いた」のですが、その町に着いたときでした。盲人バルティマイが道端に座っており、一行がナザレのイエス様であることを知ると、叫んで「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めるのであります。周りの人々がうるさいので黙らせようとしますが、バルティマイは叫び続けるのであります。イエス様は立ちどまり、「あの男を呼んできなさい」と言われました。バルティマイがイエス様のところに来ると、「何をしてほしいのか」と聞かれました。「先生、目が見えるようになりたいのです」と切なる願いを申し上げます。イエス様は、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とバルティマイを祝福致します。バルティマイは癒されました。そして、イエス様に従ったと示しています。
 新約聖書におけるエリコの町は、イエス様の救いにかかわる町として親しまれています。バルティマイがエリコに住む人でしたが、ルカによる福音書19章にはエリコに住むザアカイさんがイエス様の救いに与ることが記されています。さらにルカによる福音書10章には「善いサマリア人」のお話が記されています。強盗に襲われた人は、善いサマリア人に助けられ、エリコの町で介抱されたのであります。エリコの町で救われたのであります。エリコは救いの町として示しているのであります。
 ところで、バルティマイはイエス様に向かって叫びましたが、この叫びは大胆な信仰告白でもあります。「ダビデの子よ」と叫んでいます。「ダビデの子」とは王様の存在であります。従って、やたらに「ダビデの子よ」と言うものなら当局に捕らえられてしまうこともあるのです。バルティマイが叫んだとき、「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」のは、「めったなことを言うな。当局に睨まれる」と言う恐れがあったからでもあります。それでも叫び続けるバルティマイを、イエス様は信仰とされたのであります。自分の思いを神様に向けて発すること、危険であろうと、人々がなんと言おうと叫び続けることであります。「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様は祝福を与えたのであります。
 マルコによる福音書5章25節以下に、12年間も病気の女性が癒されたことが記されています。多くの医者にかかって、むしろ苦しめられていたということです。イエス様がお通りになるというので、群衆の中からイエス様の服に触れました。「この方の服にでも触れば癒していただける」との信仰がありました。イエス様はご自分から癒しの力が出て行くのを知り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われました。女性は進み出て、自分が触れましたと告白するのであります。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と祝福されるのでした。ルカによる福音書7章36節以下には、罪深い女性が救われることが記されています。女性はイエス様の足もとにうずくまり、泣きながらイエス様の足に接吻し、香油を塗りました。側にいる人たちは批判します。イエス様が罪深い女性に足をゆだねているからです。それに対して、イエス様はこの女性のイエス様への信仰を受けとめられました。「あなたの信仰があなたを救った」と祝福されたのであります。
 神様に全身を向けるとき、「これ」が与えられるのです。すなわち「正義を愛し、慈しみを愛する」生き方へと導かれるということです。新約聖書はイエス様に向かって叫ぶこと、あるいは心を向けること、イエス様による祝福が与えられることが示されているのであります。「日々、新しく生きる」ことが導かれてくるのであります。

 「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、私達もイエス様に全身を向けなければなりません。私たちは、自分の願うことを神様に申し上げていますが、直接お願いすることに躊躇することがあります。幼稚園の子供たちにお祈りについてお話しているとき、「神さま、かっこいいおもちゃをください」「かわいいお人形さんをください」とお祈りしましょうかと聞いたことがあります。すると、「違います」と答えるのです。そういうことはお祈りではないと思っているのです。毎朝、始まりには先生がお祈りします。そのお祈りは、お友達が休んでおり、病気が治りますようにと言うお祈りなのです。いつもお友達のことをお願いしています。従って、お祈りはお友達のことをお願いすることだと思っているのであります。だから、お祈りについてお話をするとき、自分のことで神様にお願いしてもよいことをお話していました。
 宮城県の教会にいるとき、隣の町から教会に出席される老婦人がおられました。求道者であります。ある時、私に質問されました。「礼拝でお祈りをささげていますが、自分のことはお願いしてないようです。私は病を抱えているのですが、神様に治してくださいとお願いして良いのでしょうか」と聞かれました。「どうぞ、お願いしてください。神様に自分のこと、病気を治してくださいとお願いしてください」とお答えしたのであります。バルティマイのように叫んでよいのです。全身を神様に向けるのです。「あなたの信仰があなたを救った」との祝福がいただけるよう、イエス様に全身を向けることなのです。
 「日々、新しく生きる」ために、主イエス・キリストの十字架の救いを仰ぎみることです。十字架に向かって全身を投げかけて行くことです。祝福が与えられるのです。
<祈祷>
聖なる神様。正義を愛し、慈しみを愛する者へと導いてくださり感謝致します。主イエス様に向かい、日々新しく生きさせてください。主の御名によりおささげします。アーメン。