説教「喜びの福音をいただく」

2014年9月7日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第14主日

説教・「喜びの福音をいただく」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書5章1-7節
    使徒言行録13章44-52節
    マルコによる福音書12章1-12節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・217「あまつましみず」
    (説教後)讃美歌54年版・502「いともかしこし」


 9月になり、学校は夏休みが終わり、秋の学びの季節に入っています。社会的にも秋を迎えての取り組みが深められていると思います。もはや現役時代から4年を経ておりますが、いまだに9月になると、忙しさが一段と増してくる思いがあります。8月は教会も礼拝以外はすべての集会はお休みにしていました。やはり夏の暑さがあり、教会の中にいても諸集会の活動は無理がありました。そして9月を迎えると同時に水曜集会の聖書研究・祈祷会、家庭集会、施設の礼拝等が再開し、合わせて幼稚園も始まりますので、始業式、誕生会、金曜日の合同礼拝、会堂礼拝等が始まるのです。そして何時ものように刑務所や少年院に出かけたり、さらに教団の書記を担っていましたので、それらの職務があり、8月中のノンビリがどこに行ってしまったと思えるくらいの忙しさになるのです。時々、その当時のことを思い出しています。よくも、あんなに忙しく過ごしたものだと思います。
 今は隠退牧師として日々の歩みが導かれていますが、教会や幼稚園の現役を退いていますので、職務的には何もない毎日です。それでも六浦谷間の集会、横須賀上町教会、三崎教会の礼拝を担当していますので、毎週木曜日くらいから説教準備をしています。六浦谷間の集会は週報を発行していますので、週報発行の仕事も生活の一部になっています。今は毎日記してはいませんが、ブログを書くことも生活の中に入っています。他は知人がお便りくださるので、返信やいろいろな文書を送ったりしています。
 10月25日にスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしています娘の羊子がスペイン人と結婚することになり、私達も10月21日から次年の1月8日までの約二ヶ月半赴くことになりました。バルセロナで過ごすうちにも、日曜日には家族で礼拝をささげます。あるいはバルセロナ日本語で聖書を読む会があり、月に一度礼拝をささげていますので、そちらの礼拝で説教をしますので、今から準備をしているところであります。いずれも個人的なことですが、隠退牧師でありますが、牧師として、それなりにいろいろと心を寄せて過ごしているのであります。
 個人的なことをいろいろと述べていますが、喜びの福音をいただく歩みは、隠退しても同じであり、どのように環境が変わりましょうとも、「福音の喜びをいただく」ために歩んでいるのです。福音の喜びがあるのに、その喜びをいただかない人々を示されています。これだけの喜びの証しがあるのに、どうして福音の喜びをいただかないのであろうかと、随分と思わせられています。六浦谷間の集会は原則として夫婦二人の礼拝ですが、時には知人や家族が出席します。喜びの福音を求めておいでになるのです。横須賀上町教会は15名くらいの礼拝出席ですが、喜びの福音へといつも導かれています。三崎教会は50名くらいの皆さんが礼拝をささげています。福音の喜びへと皆さんが導かれているのです。聖書は、喜びの福音を拒否する人々を示しながら、私達が常に福音を喜びつつ歩むよう導いているのです。

 今朝の旧約聖書イザヤ書5章であり、「ぶどう畑の歌」とされています。聖書を読むと、ぶどうに関する教えや事柄が多く出てきます。聖書の世界は、昔はカナン地方と言われ、今はパレスチナ地方と言われています。ぶどうの栽培が盛んな地域です。従って、聖書にも、何かとぶどうと言う果物が関わって来るのです。ぶどう、ぶどう酒の言葉は合わせると400回以上も使われているということです。カナンは神様の約束の土地でありました。人々は荒野の旅をしている時にも、「乳と蜜の流れる」土地として目指していたのです。まさにぶどうの収穫は豊かな恵みでありました。最終的には、ぶどう酒はイエス様の救い、契約の血潮となって今日の私達の信仰の基となっているのです。
 そのような大切なぶどうを不信仰としてたとえているのが本日の聖書です。本来、ぶどうは良い収穫となり、おいしいぶどう酒が造られるのです。これが当たり前なのに、そうではない場合を示しています。「ぶどう畑の愛の歌」をうたっているのですが、それは悲しみの愛の歌でありました。「わたしの愛する者」がぶどう畑をもっており、手をかけて栽培していたのです。そして酒ぶねを造り、良いぶどうが出来るのを待っていたのであります。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうでありました。今まで手をかけ、これ以上することがなかったのです。それなのに、どうして酸っぱいぶどうができてしまったのか。「ぶどう畑の愛の歌」は悲しい歌でありました。本来、喜びつつ愛の歌をうたうのに、喜べない歌をうたわざるを得ないのであります。
 酸っぱいぶどうは本来のぶどうではありません。ぶどうは甘くておいしい果物なのです。しかし、実際は本来のぶどうではないということ、ぶどうを栽培している人の意図ではないということです。手をかけ、大事に育てているのに、酸っぱいぶどうであるということは、ぶどうが違った方向になっているということです。新約聖書にも主イエス・キリストがぶどうのたとえをお話ししています。イエス様ご自身が「まことのぶどうの木」であるとしています。そして「あなたがたはその枝である」と言うのです。枝がぶどうの木にしっかりとつながっていれば、おいしいぶどうの収穫があるのです。しかし、豊かに実をつけない枝があるのです。そうであれば、その枝は切り捨てられると言っております。豊かな実を結ばないのは、枝がぶどうの木にしっかりとつながっていないからなのです。枝の根本が腐っていたり、虫に食われているので、しっかりとつながっていないので収穫が出来ないということです。虫に食われてしまったので、その枝の責任ではないのですが、ここでは収穫が目的ですから、やはりしっかりとぶどうの木につながる枝を示しているのです。旧約聖書の酸っぱいぶどうも、やはりぶどうの木と枝の関係です。枝がしっかりとぶどうの木につながっていないので、酸っぱいぶどうの収穫となってしまったのです。
 このたとえを示しながら、人々が神様の御心をしっかりといただかない姿勢を指摘しているのです。神様ではない、人間が造った偶像の神に心を寄せている人々なのです。その結果が酸っぱいぶどうの実なのでした。7節に記されるように、「主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血。正義を待っておられたのに、見よ、叫喚」と言っております。「主は裁きを待っておられる」とは、裁きにより、良いものが多く示されることです。それなのに裁きも行えない流血騒ぎとなっているのです。更に、神様は正義を待っておられるのに、世の中は叫喚であると言うのです。あっちでもこっちでも人々が叫び、さわいでいることです。誰も正義をもって生きる人がいないのです。これらの言葉は語呂合わせになっています。「裁き」の「ミシュパト」と「流血」の「ミスパハ」の言葉が似ているのです。「正義」の「ツェダカ」と「叫喚」の「ツェアカ」が似ている言葉なので、あえて用いているのです。
 神様の御心をいただいて歩んでいるならば、おいしいぶどうの実が収穫できる、すなわち祝福の人生へと導かれるということです。「喜びの福音をいただく」ということなのです。「ぶどう畑の歌」は喜びの歌でなければなりません。悲しい歌にならないように、「喜びの福音をいただく」努力が必要なのです。旧約聖書であれば、神様が与えた律法、十戒の戒めを守りつつ、人々が共に生きることなのです。

 旧約聖書は、本来はおいしいぶどうの収穫なのに、酸っぱいぶどうの収穫なので、その結果を悲しく歌っています。いわゆる結果を悲しんでいるのです。それに対して新約聖書は、悲しみの結果に至る原因をはっきりと示しているのです。マルコによる福音書12章1節からが本日の聖書です。「ぶどう園と農夫」のたとえとして記されています。本日の聖書を理解するために、聖書の背景を理解する必要があります。今までイエス様はガリラヤ地方を中心に神様の御心を人々に教え、また御業を行ってきました。しかし、その後は都のエルサレムにやって来るのです。イエス様の救いを完成させるためであります。イエス様が都エルサレム入場するのは11章に記されていますから、今朝の聖書は都に来たばかりなのです。人々の歓呼のうちに都に入りました。それまでのイエス様のうわさは都の人々にも聞こえています。人々は、そんなに素晴らしい働きをするイエス様が都に来られたことを喜んでいるのです。
都に入られたイエス様は、まず「いちじくの木を呪う」のであります。イエス様はいちじくの木を見て、実がなっていないことで、そのいちじくの木を呪ったと言います。しかし、聖書は「いちじくの季節ではない」と説明しています。だから実がなってないのは当然なのに、イエス様はどうしていちじくの木を呪ったのでしょう。この部分の解釈は難解ですが、聖書の全体的な解釈からすれば、結局は都のエルサレムの人々はイエス様を拒否して十字架につけて殺してしまうのです。空腹であるイエス様の求めに応えなんかったということ、イエス様を拒否する人々をここですでに示しているということです。そして、いちじくのたとえをお話しした後に神殿に行きます。都の中心である神殿には大勢の人々が集まっています。神殿にお参りに来ているのです。そのお参りに来ている人々を相手に商売をしています。それらの商売をしている人々を境内から追い出したのです。両替の商売は必要です。他の国からやってきて、やはりささげるお金は聖書の通貨です。だから両替人が必要なのです。また鳩を売る店も追い出したと言われます。神殿にささげる動物が決められています。豊かな人は牛や羊をささげます。しかし、一般の普通の人は鳩をささげます。その鳩にしても、自分で飼っているわけではありません。まして遠方から来る場合、鳩を持参することは困難です。だから神殿の境内で両替商、鳩の商売は必要なのです。しかし、イエス様はそれられの人々を追い出したのでした。これらの商売をする人々は一人や二人ではなく、大勢の商売人がいて、呼び声も大きく、それこそ騒がしい状況になっていたのです。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたことが、商売人を追い出した理由であることを示しています。神殿は祈りの場でなければならないことを教えておられるのです。
本日の新約聖書のお話しは、結局、これまでの聖書でも示している通りなのです。すなわち、イエス様を拒否する人々を示しているのです。「喜びの福音をいただく」ことを拒否している人々を、単刀直入に示しているのです。ある人がぶどう園を持っており、農夫たちに貸して旅に出ました。貸したのですから、その収入があるわけです。それでぶどう園の主人は、旅先から貸している収入を得るために僕を送りました。ところが農夫たちは主人の僕を袋だたきにして返したのです。主人はまた別の僕を送りました。同じように暴行を受けたのでした。更に僕を送ると、農夫たちはその僕を殺してしまいました。こうして主人が送る僕はことごとく暴行を受けたのでした。ついに主人は、息子なら敬ってくれるだろうと送ります。しかし、農夫たちは主人の息子であるということで殺してしまうのです。そのため主人は帰ってきて、農夫たちを殺し、ぶどう園は他の人たちに貸したと記しています。
結局、このお話しはイエス様ご自身について示しているのです。主人の息子はイエス様ですが、その前に送られた僕たちは、旧約聖書に登場する預言者たちでした。神様の御心を人々に示した預言者は迫害を受け、困難な状況を生きなければなりませんでした。迫害を受け、殺されているのです。今、神様の御心として世に現れたイエス様を、エルサレムの人々は歓呼して迎えましたが、結局は「十字架につけよ」と叫び、イエス様を殺してしまうのです。このお話しのとおりになるのです。人々から捨てられてしまうイエス様です。だから本日の聖書には、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と示しています。建築をする人は土台となる石を使いますが、もはや必要がない石は捨てられるのです。しかし、捨てられた石の中から、家の礎石を決めると言われます。人々によって捨てられたイエス様が、救いの中心であり、救いの原点として現代においても導きの基となっているのです。

 「喜びの福音をいただく」のか、いただかないのか、私達に求められているのです。本日の聖書は使徒言行録13章44節以下も含まれています。使徒言行録ではパウロバルナバがイエス様の喜びの福音をいただくためのお話しをしていますと、ユダヤ人たちがパウロの邪魔をしたと記されています。このユダヤ人たちはパウロの行く先々で、パウロが示す喜びの福音に立ちはだかっているのです。しかし、人々はパウロの喜びの福音を受け入れました。アテネの町では、町の知識人たちがパウロの喜びの福音の話を聞くのですが、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言い、聞く耳を持たなかったのです。その様な状況でもパウロを始め使徒たちは、イエス様の復活と喜びの福音を語り続けたのです。使徒言行録はそのようにイエス様の喜びの福音を語るパウロたちの前に、立ちはだかる人々のことも記しています。しかし、立ちはだかる人々がいますが、喜びの福音を受け入れ、信じる人々が多くいたのです。そして、信じた人々はその喜びをさらに人々に証しましたので、今日私達も喜びの福音をいただいているのです。
<祈祷>
聖なる神様。救いを与えてくださり感謝いたします。いよいよ人々にこの喜びを示すことが出来ますよう導いてください。主イエスの御名によりおささげします。アーメン。