説教「示されている幸せの人生」

2014年9月14日、横須賀上町教会
聖霊降臨節第15主日

説教・「示されている幸せの人生」、鈴木伸治牧師
聖書・ホセア書11章1-9節
    使徒言行録13章44-52節
     マルコによる福音書12章28-34節
賛美・(説教前)讃美歌21・403「聞けよ、愛と真理の」
    (説教後)讃美歌21・470「やさしい目が」


 本日は9月14日ですが、明日の15日、すなわち「敬老の日」を示されています。もともと「敬老の日」は9月15日ですが、2003年(平成15年)に、いわゆるハッピーマンデーとして第三月曜日に定められました。今年はたまたま第三月曜日が9月15日ですが、昨年の2013年の第三月曜日は9月16日が「敬老の日」でした。来年の2015年は9月21日になります。ハッピーマンデーとして連休にすることが狙いですが、やはり9月15日が「敬老の日」である方がよろしいと思います。私達は長年、9月15日を「敬老の日」としてきたのです。連休であるので遊ぶことを考えて、「敬老の日」を忘れてしまうのではないかと思います。もともと定められた祝日の日が大切なのであり、連休にするあまり本来の意味がなくってしまうのは残念と思う他はありません。
 「敬老の日」が国民の祝日になるのは、もともと1948年(昭和23年)に「老人を敬愛する」法案が定められていたようですが、「敬老の日」として定められるのは1964年(昭和39年)頃でありました。この「敬老の日」の始まりは1947年(昭和22年)に兵庫県多可郡野間谷村、現在の多可町八千代区の村長と助役さんが「としよりの日」を定めたことでした。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村づくりをしよう」ということで、農閑期の9月15日に定め、老人を敬う行事をするようになったということです。そして、「こどもの日」や「成人の日」があるのだから「敬老の日」を定めるように政府に働きかけ、国民の祝日になったということです。この兵庫県の八千代町では小・中学生が年長者に向けて、日々の感謝と敬意を表して手紙を書くこと、それが夏休みの宿題になっているということです。
 国民の祝日としての「敬老の日」を定めているのは日本だけのようです。しかし、外国では不文律ながら老人を敬うことが社会習慣になっているようです。老人からいろいろと教えてもらうこと、これは当然考えられることであります。韓国の人達は年長者を敬うことは生活にしみこんでいるようです。以前、神奈川教区のいろいろな役目を担いつつ歩んでいましたが、会議に韓国の牧師が加わることがありました。いろいろと激しい議論をしていたのですが、その韓国の牧師は、議論をしている相手の人に、突然年齢を聞くのでした。「あなたは幾つかね」と聞くので、その相手の人が自分の年齢を言うのでした。すると、今までは高圧的に激しく議論をしていたのですが、年齢を聞いてからは穏やかな口調になり、話し合うような形になりました。その韓国の牧師の方が相手より年齢が若かったのです。それからは丁寧に議論するようになったのです。韓国はキリスト教の社会ですから、聖書の教えが深く示されているのです。
 旧約聖書は高齢者を敬うことが繰り返し教えられています。老人の前では起立しなさい、とも教えられています。老人は人生を長く生きてきました。それだけたくさん神様の御心を示されて生きて来たのです。高齢者は神様の御心を示す存在なのです。その意味でも高齢者を敬い、高齢者から知恵をいただきつつ生きなければならないのです。このことはキリスト教ばかりではなく、高齢者、長老を中心に歩む姿勢があるということです。兵庫県の八千代町が「としよりの日」を定めたことも高齢者、長老の指針が大切であることに重きが置かれたということです。ハッピーマンデーにしたので、本来の「敬老の日」の意義が薄れていることを嘆いています。

 高齢者、長老を敬うことを教えている旧約聖書は、今朝はホセア書の示しです。11章1節からが今朝の聖書ですが、「神の愛」として記されているのです。聖書の示しは、特に旧約聖書の示しは、神様に選ばれた聖書の人々は神様の御心に忠実に従わなければならないのです。しかし、人々は神様の恵みの導きを忘れて、偶像を拝むような姿になります。その人々の堕落を神様は悲しみ、預言者を通して御心に戻そうとするのです。その繰り返しが旧約聖書の記録であるということです。ですからイザヤ書エレミヤ書エゼキエル書等に記されていることは、神様から愛されている人々が、その愛を裏切り、偶像を拝むことで神様の審判があり、預言者の説得が続くのです。
 今朝のホセア書も形式は同じです。神様の御心から離れている人々を、神様の愛へと戻すことがホセアの働きであります。しかし、ホセア書は他の預言者たちとは異なった教えで人々の心を取り戻そうとしているのです。すなわちホセアは自分の体験において、人々に神様の愛を教えているのです。先ほども「敬老の日」の意義を示されました。高齢者、長老は長生きしているから神様の御心を語ることが出来るのですが、自分の人生の中に神様の御心を示されて生きてきているのです。人生の戦い、自分自身との戦いがあり、その中に与えられている神様の御心により、辛い、苦しいながらも祝福の歩みへと導かれてきている自分の体験において、神様の愛を示され、人々に神様の御心として示したのであります。ホセアの体験とは、結婚の体験でした。ホセアはゴメルと言う女性と結婚しました。このゴメルは神殿娼婦でありました。古今東西、神殿、神社仏閣には娼婦と言われる人々がいました。お参りに来た人は娼婦と遊んで帰るということが、信仰的に許されていたようです。ホセアはその娼婦であるゴメルを妻に迎えたのです。しかしながら、ゴメルはその後、ホセアと結婚していながら再び娼婦になるのです。従って、ホセアはこのゴメルとは離婚することになります。そういう自分を示されたとき、神様と人々との関係を示されるのです。神様に選ばれ、神様の御心により歩む聖書の人々との関係は、ある場合には花婿と花嫁の関係、あるいは夫婦の関係として、密接な関係でありました。その関係を裏切って、人々が別の偶像を拝むようになったとき、夫婦の関係が壊れたのであります。ホセアは神様と人々との関係をその様に示されたとき、それは自分とゴメルとの関係として示されるのでした。従って、ホセアは自分のところから去って行ったゴメルを赦し、再び夫婦の関係を持つのです。そして、これは神様と人々との関係であることを示すのでした。神様は愛をもって、忍耐をもって、人々が御心に戻るのを待っておられるのです。
 「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに香をたいた」と示しています。偶像崇拝に走った人々を述べています。そういう人々ですが、神様は、「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか」と示すのです。裏切りの人々ですが、「見捨てない」、「引き渡さない」と示しています。ホセアは、これが「神様の愛」と示しているのです。自分の体験において、示されている神様の御心なのです。その体験的神様の愛を示すとき、人々は実際的な神様の導きとして示されるのでした。「敬老の日」は長い人生を神様の御心によって導かれてきた高齢者の知恵を聞く日であります。おりしも旧約聖書のホセアが自分の体験において、人々に生きる指針を与えているのです。

 高齢者の知恵は幸せな人生なのです。体験に基づいた知恵なのです。しかし、高齢者の知恵ではありません。神様の御心が幸せな人生へと導くということです。だから必ずしも高齢者ということではなく、聖書に示されている神様の御心をいただくことが、私達の幸せの原点なのです。新約聖書はそのことを示しているのであります。イエス様の教えが人々の幸せの原点であることを示しているのです。
 今朝の新約聖書は「最も重要な掟」として示されています。イエス様のお話しを聞いていた当時の社会の指導者、律法学者と言われる人ですが、イエス様の教えを称賛しているのです。そして、イエス様が人々の疑問に対して立派にお答えになっているので、改めて「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねたのでした。この律法学者は、どうしてイエス様が立派なお答えをしていると思ったのでしょうか。それは前の部分を見なければなりません。イエス様は人々から、二つの難問を突き付けられたのです。一つは税金問題でした。新約聖書の時代は、聖書の国はユダヤでした。ユダヤは当時のローマに支配されていたのです。従って、人々はローマに対して税金を納めなければなりませんでした。もちろん、人々は面白くないと思っていたのです。それで時の指導者たちがイエス様を陥れようと、意地悪な質問をします。「ローマの皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているのでしょうか。適っていないのでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきではないでしょうか」との質問です。「律法に適う」と言うのは、聖書の社会は旧約聖書以来、定められている法律があります。それを聖書は律法と言っています。皇帝に税金を納めることなど、もちろん律法には規定されていないのです。律法が定められたときは、ローマには支配されていなかったからです。これは大変意地悪な質問になります。律法には定められていないのであるから、税金を納める必要がないと言うものなら、支配しているローマに訴えることが出来ます。これは反逆罪になります。しかし、ローマに支配されているのであるから、支配者に税金を納めなさいというものなら、ユダヤ社会の反感を買うことになるのです。どちらに応えても不利になるのです。そのとき、イエス様は「銀貨を見せなさい」と言い、銀貨を示しながら「これは誰の肖像と名前か」と人々に聞くのです。人々が「皇帝のものです」と答えます。するとイエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのでした。この世に生きる者として、国民の責任があるわけです。それが税金です。ローマに支配されているのですから、義務としての税金は納めなければならないのです。しかし、同じ皇帝の肖像が刻まれた銀貨でも、お恵みにもなるのです。その銀貨によって生きる支えがあるのです。それが神様のお恵みというものです。人々はイエス様のお答えに驚いたと言われます。
 もう一つの問題がありました。復活についての問題です。7人の兄弟がいて、最初に結婚した兄嫁と兄弟がみんな結婚したというのです。これには説明が必要です。聖書の国は小さな国であり、それぞれの家族は子孫を残すという決まりがあります。兄が子供を設けないで死んでしまった場合、弟が兄のお嫁さんと結婚して、その家に子孫を残すことです。今日の聖書はそのことが背景になっていますが、7人の兄弟がみんな兄のお嫁さんと結婚します。その場合、天国ではこのお嫁さんは誰の奥さんかということなのです。そのときイエス様はどのようにお答えになったのか。私達を失望させるようなお答えをしています。「死者の中から復活するときには、めとることもなく嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われたのです。この世で愛しあっていた二人は、結ばれませんが、あの世で一緒になることを信じているのです。それを天国ではめとることも嫁ぐこともないと言われると、なんか希望が消されていくようです。しかし、このイエス様のお答えで、気が楽になる人もいるわけです。もうあの人とは一緒ではなくなるという喜びを持つ人もいるかもしれません。いずれにしても私達は肉体を持っているから好きになり、愛する営みをするのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われる通りであります。こうしてイエス様は人々の意地悪な質問にお答えになったのです。
 これらのイエス様と人々との対話を聞いていたときの社会の指導者、律法学者が立派な答えだと称したのです。そして、さらに大切な生きる指針は何かとイエス様に尋ねたのでした。すなわち「幸せな人生とは何か」と聞いているのです。そのときイエス様が示されたのは、「わたしたちの神で ある主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということです。さらに、「隣人を自分のように愛しなさい」とお示しになっています。これは明らかに旧約聖書で示されている十戒を二つにまとめておられるのです。「神様を愛し、隣人を自分のように愛する」こと、旧約聖書以来十戒をもって教えられてきましたが、イエス様は二つにまとめて示されたのでした。これがイエス様の教えです。これがキリスト教の中心的な教えなのです。この教えを守ること、実践することが「幸せの人生」を生きることなのです。その「幸せの人生」の道が示されていますよ、と今朝の聖書は教えているのです。

 今朝は明日の「敬老の日」を示されながら、私達の人生は神様の御心をいただいて、祝福の歩みをすることを示されました。高齢者はキリスト教には関係ない人々が大半です。神様を信仰しない人々であっても、神様はそれぞれの人生に御心をお示しになっておられるのです。日本の国は長寿国になっていきますが、今年は100歳以上の高齢者が58,820人もおられるということです。昨年より4,420人も増えていると言われます。関東地方でも100歳以上が15,000人もおられるということでした。長寿国になりつつあるのに、それに対して定年で仕事の第一線から退くのは早いのではないでしょうか。65歳くらいで定年ということですが、70歳くらいでも良いのではないかと思います。70歳くらいになると、やはり体のいうことがきかなくなってくるので、私も70歳で現役を退任しました。私も今までの人生で示されてきた神様の御心を人々にお示ししたいのであります。高齢者の知恵の中に神様の御心を示されつつ歩むことを今朝示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。御心を与えてくださり感謝いたします。御心は祝福の人生であることを人々に証し出来ますよう導いてください。主イエスの御名によりおささげします。アーメン。