説教「救いが与えられる」

2016年7月10日、横須賀上町教会 
聖霊降臨節第9主日

説教、「救いが与えられる」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ43章1-7節、 
    ヨハネによる福音書6章16-21節
讃美、(説教前)讃美歌21・357「力に満ちたる」
    (説教後)讃美歌21・530「主よ、こころみ」

 本日は参議院議員選挙の日であり、今まで選挙運動で騒がしい世の中でしたが、ようやく静かになった感じです。しかし、世界にしても日本にしても、危ない綱渡りをしているようで、常に心を痛めています。今回のバングラディッシュダッカでのテロ事件は悲しいことでした。日本人が7人も巻き込まれてしまい、テロへの怒り、また悲しみが募るばかりであります。ここで世界の情勢を分析するつもりはありませんが、テロリストとなる人々の動機を示されると、失恋のためだとか、新しい国家を作るとか言われていますが、そのよう人々がテロリストになる社会の構造も考えてみなければならないとも思っています。何が悪い、何が良いと論じているのではありませんが、人間の心のよりどころのない状態が不安定な社会になっていると示されています。バングラディッシュ・テロ事件を起こした実行犯の写真が新聞で紹介されていました。みんな笑顔で、好青年と思われるような写真です。この様な人がテロを起こすこと、姿や容貌より、拠りどころを求めて起こした事件のようです。
 もしかしたら私達夫婦は、今はベルギーのブリュッセルに居たかもしれません。2014年10月21日から二ヶ月半、スペイン・バルセロナで過ごしました。娘の羊子の結婚式があるためでしたが、折角だからスペインのクリスマスを体験することにしたのです。年があけて2015年1月6日にバルセロナ日本語で聖書を読む会の集会が開かれ、帰国する前に説教をさせていただきました。ところがその集会に知人の斎藤篤牧師が出席されたのです。彼はドイツのケルン・ボンの集会の牧師をしていました。はるばるドイツから集会に出席したのです。実は彼は東海教区の教会で牧師をしていました。私が現役の頃ですが、教団書記として東海教区の総会に教団問安使として出席したのです。その時、斎藤牧師と出会ったのでした。彼は神学校の後輩にあたり、その頃は東海教区の責任ある職務を担っていました。その様な出会いがありましたが、その後、ドイツの教会の牧師に就任したことは知っていました。バルセロナ日本語で聖書を読む会の集会が終わったとき、私達家族にお話しがあると言い、連れ合いと羊子も交えてお話しされたのでした。ベルギーのブリュッセルにある集会の牧師が退任するので、その後任を担ってもらいたいということでした。海外における牧会はマレーシア・クアラルンプール日本語教会の経験をしていますので、そのお話しは前向きに受け止めたのです。ヨーロッパはEUの世界で、簡単に行き来できるのです。ですからスペイン・バルセロナにはいつでも来られるし、娘ともいつも会えるので良いお話しであると思いました。しかし、帰国しまして、いろいろと考えさせられたのですが、その時、私達夫婦は75歳にもなっていたのです。いろいろな面で困難ではないかと示され、結局辞退したのでした。連れ合いのスミさんはベルギーの集会に就任する方向で、いずれまた来るからといろいろと荷物を置いてきてしまいました。結局、辞退したので、昨年11月に羊子が日本での演奏のため帰国しましたので、置いてきた荷物を持ってきてもらった次第です。
その後、ベルギー・ブリュッセルでテロ事件が起きました。またベルギーにはEUの本部があるので、何かと込み入った社会にもなっているのです。行かなくて良かったと思いますが、どこにいても危険はつきものです。定まらない社会の中にあって、私達は救いを与えられている者として、主イエス・キリストの十字架の導きに委ねて歩みたいのです。救いが与えられているのです。今日も教会に導かれ、十字架の導きを示されているのです。

 暗い、悲しい状況を歩まなければならなかったのは、聖書の人々も同じです。その人々への神様のお導きを示されています。イザヤ書43章が本日の聖書です。聖書の人々は大国バビロンに立ち向かいましたが、戦い破れて都エルサレムが破壊されます。そして、多くの人々がバビロンの国に捕らわれて行きました。それを捕囚といいます。イザヤは、この暗い、悲しみの状況の中で、捕らわれの人々に言います。「主は燃える怒りを注ぎだし、激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく、火が自分に燃え移っても、気づくものはなかった」と示しています。つまり、聖書の人々は、ただ神様に御心を求め、生きる道を尋ねるべきでありました。それなのに人間の力に頼ったのであります。その頃の大国といえば、バビロンでありエジプトであり、アッシリアでありました。エジプトに力を求めようとしながらバビロンに抵抗したのでありました。その時代に預言をしたのはエレミヤという預言者でありました。エレミヤは、むしろ力により頼むのではなく、バビロンに降伏しなさいと言いました。そうすれば、滅ぼされることなく、生き延びることができるのです。人々の中心である都エルサレム、神殿があるこの都は破壊されることはないのです。しかし、時の指導者たちはエレミヤの預言を無視したのであります。結局、都は破壊されました。神様の御心に従わなかったからであります。
神様の御心を悟ることなく、悟ろうとしなかった人々に反省を求めています。そのように述べているのが42章25節までであります。そして、今朝の聖書、イザヤ書43章になります。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる」と43章が始まっています。聖書の原文では、43章1節に入る前に、「しかし、今」と言う言葉があるのです。その言葉は省略されています。42章では、むしろ人々の御心に従わない姿を責めていますが、「しかし、今」と言葉を改め、神様が今こそ導きと力を与えておられるのですよと示すのです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と示しています。神様は、暗い、悲しみの現実を生きているあなたの名を呼んでいるのですよ、言うのです。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」と示しています。「しかし、今」、今まであなたがどのように生きたとしても、神様を仰ぎ見つつ生きる今、この現実は暗くないと言い、悲しみの心は必要ないこと示しているのです。「しかし、今」わたしはあなたの名を呼んでいると神様は示しているのです。5節には、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と励ましているのです。
バビロンに捕らわれの身になる、さらに昔のこと、聖書の人々はエジプトで奴隷とされていました。400年間の奴隷の苦しみを神様は受け止められました。そして、モーセを選び奴隷の解放者とするのです。そのときモーセは、自分はそんな器でないこと、力が及ばないこと等を並べ立てて辞退するのです。しかし、神様は、力は神様が与えるものであり、あなたは神様の導きに委ねなさいと励ますのであります。それでもモーセは辞退します。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つほうではありません。全くわたしは口が重く、舌の重いものなのです」と言います。すると神様は、「一体、誰が人間に口を与えたのか。主なるわたしではないか。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と導きを与えるのです。この神様の導きをモーセは受け止め、奴隷の人々を解放させるために立ち上がるのでした。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と言われ、「あなたの口と共にある」と導きを与えておられる神様を聖書は示しているのです。

 今の状況が、困難な状況であると言うなら、だからこそ主イエス・キリストが共におられて、私たちの現実を導いておられる ことを、しっかりと受け止めなければなりません。暗い、悲しい状況から逃げてはいけません。この状況には厳然と主イエス・キリストが共におられるのです。
 ヨハネによる福音書6章は、イエス様が大麦のパン五つと魚二匹とで多くの人々のお腹を満たしたことが記されています。それは、イエス様が私たちの生活の中におられて、現実を確実に導いておられることの示しでありました。パンの奇跡については今朝の聖書ではありません。今朝の聖書はその後のことを記しています。生活の糧を与えた後、イエス様は一人で山に退かれました。イエス様のお弟子さんたちは湖に行き、舟に乗り、湖の向こう岸に向かいました。ところが強い風が出てきて、湖は荒れだしたのでありました。30スタディオン漕ぎ出した頃、イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来るのをお弟子さんたちは見ます。1スタディオンは185mですから、約5kmのところですので、湖の中ほどにいたのでありましょう。お弟子さんたちは湖の上を歩いてこられるイエス様を見て大変恐れます。同じような状況がマタイによる福音書14章に記されています。お弟子さんたちは湖の上を歩いてくるイエス様を幽霊だと思い、恐怖の叫び声を上げたと記しています。信じられない現実の中にイエス様が現れたからであります。その時、イエス様は言われました。「わたしだ。恐れることはない」と言い、お弟子さんたちを励ましたのであります。この湖の上を歩く主イエス・キリストの示しは、現代に生きる私たちに力強い示しを与えています。ここで、イエス様が湖の上を歩くことの科学的根拠を詮索する必要はありません。合理的に理解しようとする人は、イエス様は浅瀬を歩いてきたのだと説明します。それでは、この聖書のメッセージは何もありません。主イエス・キリストは、まさに湖の上を歩いてこられたのです。強い風が吹き、湖が荒れています。舟を漕ぐのは困難であります。それは私たちの現実の状況を指し示しているのです。私たちの今の状況に強い風が吹いています。生活が荒れ始めています。どうしたらよいのでしょうか。この現実に憔悴しきっている私たちに、主イエス・キリストは「わたしだ。恐れることはない」と励まし、導いておられるのです。
 ヨハネ福音書の証は、お弟子さんたちがイエス様を幽霊だと思って恐れたとは記しません。むしろ、強い風、荒れる湖の現実にイエス様が現れて、お弟子さんたちに近づいてきたことを恐れたのではないでしょうか。それは、イエス様を一人きりにして、お弟子さんたちだけで舟に乗ってきてしまったこと、そのイエス様が近づいて来たことに恐れを持ったのです。それは、私たちがイエス様を置いて生活していることと同じなのです。私たちの現実は強い風が吹いています。荒れる湖のようです。どうしたらよいのか、憔悴している私たちです。その私たちにイエス様が近づいています。イエス様を置いていたことの恐れを持つのではないでしょうか。
 「しかし、今」と励ましたのはイザヤでした。今までは神様のお心を忘れていたような人々に、「しかし、今」と言い、神様はあなた方と共にいるのですよとイザヤは励ましたのです。ヨハネによる福音書のメッセージはそれを示しているのです。「わたしを置いていたことを恐れるな」とイエス様は励ましておられるのです。主イエス・キリストは私の現実に厳然としておられ、私を導いておられるのです。だから、心配する必要はありません。恐れる必要はありません。主イエス・キリストが共におられるからです。

 私達は、自分の人生ですから、自分なりに人生設計をして歩んでいます。しかし、いろいろなことで行き詰ってしまうこともあります。その時、忘れていた神様の存在、導きを示されるのです。聖書において、創世記に記されるヤコブの姿を示されます。ヤコブはイサクの子供として生まれますが、双子で生まれたのです。一緒に生まれたのに、ヤコブは弟の身分になります。一緒に生まれたのにエサウは兄となります。エサウはたくましく、野山を駆け回って狩猟者になっています。ヤコブにはそういう姿はなく、いつも母リベカと共にいるのです。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛していました。ヤコブは一緒に生まれながら、自分が弟の身分であることが面白くありません。当然、兄エサウが父の後を継ぐので、財産の殆どを引き継ぐことになるのです。ヤコブにも財産が与えられますが、兄ほどではありません。それでエサウをだまして兄の権利を奪い、父から相続の祝福まで受けてしまうのです。これは母リベカの計略でもあるのです。兄の権利を奪われたエサウは激しく怒ります。そのためヤコブは母の兄ラバンのもとへ逃れて行くのです。家を出て、旅の途上、野宿しているのですが、その時夢をみたのでした。天まで達する階段であり、その階段を天使たちが上り下りしている状況を夢で見るのでした。夢の中に神様が現れ、ヤコブに言うのです。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」と言われたのです。その時、ヤコブは眠りから覚めました。そして、「まことに神様がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と言うのでした。
 ヤコブの生き方を示されると、誠にずるい生き方です。旨く立ち回って人生を自分で切り開いているかのようです。しかし、その彼が、神様の導きを知るようになるのです。彼にとっては、悲しい運命を切り開いていたのですが、神様のお導きを知るようになるのです。大塚平安教会時代、礼拝堂の改修を行いましたとき、聖壇には、このヤコブの階段、はしごを掲げました。そしてその階段に十字架を掲げたのでした。私達の現実は、ともすると、自分で切り開く人生でありますが、神様がどのような状況でありましょうとも、導いてくださることを、聖壇によって示されていのです。救いが与えられているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。共におられてお導きくださり感謝致します。いよいよ十字架の救いを見上げて歩ませてください。キリストのみ名によっておささげいたします。アーメン。