説教「救いが与えられる」

2020年7月26日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第9主日

 

 

説教、「救いが与えられる」 鈴木伸治牧師

聖書、イザヤ書43章1-13節

   使徒言行録27章33-44節 

   ヨハネによる福音書6章16-21節

讃美、(説教前)讃美歌54年版・239「さまよう人々」

   (説教後)讃美歌54年版・514「よわきものよ」

 

 地球上の人々は、今は新型コロナウィルス感染予防で心血注いで立ち向かっていますが、日々の歩みにおいても十分注意しながら歩んでいます。そういう中で、マスクが多量に届けられたとか、感染者のベッドが多数設備されたとか、そのようなことで喜びが与えられています。しかし、これが本当の喜びと言うことではありません。今朝は「救いが与えられる」という聖書の示しを与えられるのですが、聖書が導く「救い」こそ本当の喜びなのです。一時的に物質が与えられたからと言って、それが本当の喜びとはならないのです。例えば、今のコロナに対する治療薬が開発されて、それにより感染者がなくなること、それは大きな喜びなのです。しかし、それも喜びではありますが、人間の根本的な喜びとはならないのです。すなわち、人間は「死」と言う大きな課題があるのです。いずれは死を迎えるわけですが、それをどのように受容するか、そこに大きな喜びがあるということになるのです。

宮城県の教会で牧師を務めていました。その教会に、一人の高齢の婦人がおられました。ある礼拝が終わったとき、とてもうれしそうに声をかけてくれました。言われたことは、「今日のお説教で、晴れ晴れとしました。もう喜んで天国に迎えてもらえるという喜びが与えられました。」と言われたのでした。その日は11月の最初の礼拝です。日本基督教団は11月の第一日曜日を「聖徒の日」、「永眠者記念日」として信仰をもって天に召された人々を覚える日としています。そのため、その日はキリスト教の死生観について説教でお話しをしたのです。このようにお話をしました。

キリスト教では、この世と死んでからはつながっています。仏教的な考え方は、死を迎えたとき、この世の人生が終わったので、文章に例えれば、死は句点「。」なのです。そして、その後は極楽の世界へと旅たち、または送り届けるということになります。ところがキリスト教は、死は句点でなく、読み点「、」なのです。まだ文章が続きますよということになります。今までイエス・キリストの救いを信じて生きた人生ですが、死を迎え、それで全てが終わりではなく、ちょっと「、」を打ち、その後の天国の歩みへと導かれていくのです。死は終わりではなく、一息ついて、その後の天国の歩みへと導かれるということなのです。

このようなお話の説教でした。その説教を聞かれて、今までもやもやしていた死に対する思いが一気に解消されたと申されました。いつ死んでも良いと思うようになりました、と言われたのでした。ここに本当の喜び、救いの喜びがあるのです。そのような喜びが与えられていますので。新型コロナウィルス感染予防で日々を歩んでいますが、私たちには本当の喜びがあることを示されながら歩みたいのであります。

 暗い、悲しい状況を歩まなければならなかったのは、聖書の人々も同じです。その人々への神様のお導きを示されています。イザヤ書43章が本日の聖書です。聖書の人々は大国バビロンに立ち向かいましたが、戦い破れて都エルサレムが破壊されます。そして、多くの人々がバビロンの国に捕らわれて行きました。それを捕囚といいます。イザヤは、この暗い、悲しみの状況の中で、捕らわれの人々に言います。「主は燃える怒りを注ぎだし、激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく、火が自分に燃え移っても、気づくものはなかった」と示しています。つまり、聖書の人々は、ただ神様に御心を求め、生きる道を尋ねるべきでありました。それなのに人間の力に頼ったのであります。その頃の大国といえば、バビロンでありエジプトであり、アッシリアでありました。エジプトに力を求めようとしながらバビロンに抵抗したのでありました。その時代に預言をしたのはエレミヤという預言者でありました。エレミヤは、むしろ力により頼むのではなく、バビロンに降伏しなさいと言いました。そうすれば、滅ぼされることなく、生き延びることができるのです。人々の中心である都エルサレム、神殿があるこの都は破壊されることはないのです。しかし、時の指導者たちはエレミヤの預言を無視したのであります。結局、都は破壊されました。神様の御心に従わなかったからであります。

神様の御心を悟ることなく、悟ろうとしなかった人々に反省を求めています。そのように述べているのが42章25節までであります。そして、今朝の聖書、イザヤ書43章になります。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる」と43章が始まっています。聖書の原文では、43章1節に入る前に、「しかし、今」と言う言葉があるのです。その言葉は省略されています。42章では、むしろ人々の御心に従わない姿を責めていますが、「しかし、今」と言葉を改め、神様が今こそ導きと力を与えておられるのですよと示すのです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と示しています。神様は、暗い、悲しみの現実を生きているあなたの名を呼んでいるのですよ、と言うのです。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」と示しています。「しかし、今」、今まであなたがどのように生きたとしても、神様を仰ぎ見つつ生きる今、この現実は暗くないと言い、悲しみの心は必要ないこと示しているのです。「しかし、今」わたしはあなたの名を呼んでいると神様は示しているのです。5節には、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と励ましているのです。

バビロンに捕らわれの身になる、さらに昔のこと、聖書の人々はエジプトで奴隷とされていました。400年間の奴隷の苦しみを神様は受け止められました。そして、モーセを選び奴隷の解放者とするのです。そのときモーセは、自分はそんな器でないこと、力が及ばないこと等を並べ立てて辞退するのです。しかし、神様は、力は神様が与えるものであり、あなたは神様の導きに委ねなさいと励ますのであります。それでもモーセは辞退します。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つほうではありません。全くわたしは口が重く、舌の重いものなのです」と言います。すると神様は、「一体、誰が人間に口を与えたのか。主なるわたしではないか。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と導きを与えるのです。この神様の導きをモーセは受け止め、奴隷の人々を解放させるために立ち上がるのでした。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と言われ、「あなたの口と共にある」と導きを与えておられる神様を聖書は示しているのです。

 今の状況が、困難な状況であると言うなら、だからこそ主イエス・キリストが共におられて、私たちの現実を導いておられることを、しっかりと受け止めなければなりません。暗い、悲しい状況から逃げてはいけません。この状況には厳然と主イエス・キリストが共におられるのです。

 ヨハネによる福音書6章は、イエス様が大麦のパン五つと魚二匹とで多くの人々のお腹を満たしたことが記されています。それは、イエス様が私たちの生活の中におられて、現実を確実に導いておられることの示しでありました。パンの奇跡については今朝の聖書ではありません。今朝の聖書はその後のことを記しています。生活の糧を与えた後、イエス様は一人で山に退かれました。イエス様のお弟子さんたちは湖に行き、舟に乗り、湖の向こう岸に向かいました。ところが強い風が出てきて、湖は荒れだしたのでありました。30スタディオン漕ぎ出した頃、イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来るのをお弟子さんたちは見ます。1スタディオンは185mですから、約5kmのところですので、湖の中ほどにいたのでありましょう。お弟子さんたちは湖の上を歩いてこられるイエス様を見て大変恐れます。同じような状況がマタイによる福音書14章に記されています。お弟子さんたちは湖の上を歩いてくるイエス様を幽霊だと思い、恐怖の叫び声を上げたと記しています。信じられない現実の中にイエス様が現れたからであります。その時、イエス様は言われました。「わたしだ。恐れることはない」と言い、お弟子さんたちを励ましたのであります。この湖の上を歩く主イエス・キリストの示しは、現代に生きる私たちに力強い示しを与えています。ここで、イエス様が湖の上を歩くことの科学的根拠を詮索する必要はありません。合理的に理解しようとする人は、イエス様は浅瀬を歩いてきたのだと説明します。それでは、この聖書のメッセージは何もありません。主イエス・キリストは、まさに湖の上を歩いてこられたのです。強い風が吹き、湖が荒れています。舟を漕ぐのは困難であります。それは私たちの現実の状況を指し示しているのです。私たちの今の状況に強い風が吹いています。生活が荒れ始めています。どうしたらよいのでしょうか。この現実に憔悴しきっている私たちに、主イエス・キリストは「わたしだ。恐れることはない」と励まし、導いておられるのです。

 ヨハネ福音書の証は、お弟子さんたちがイエス様を幽霊だと思って恐れたとは記しません。むしろ、強い風、荒れる湖の現実にイエス様が現れて、お弟子さんたちに近づいてきたことを恐れたのではないでしょうか。それは、イエス様を一人きりにして、お弟子さんたちだけで舟に乗ってきてしまったこと、そのイエス様が近づいて来たことに恐れを持ったのです。それは、私たちがイエス様を置いて生活していることと同じなのです。私たちの現実は強い風が吹いています。荒れる湖のようです。どうしたらよいのか、憔悴している私たちです。その私たちにイエス様が近づいています。イエス様を置いていたことの恐れを持つのではないでしょうか。

 「しかし、今」と励ましたのはイザヤでした。今までは神様のお心を忘れていたような人々に、「しかし、今」と言い、神様はあなた方と共にいるのですよとイザヤは励ましたのです。ヨハネによる福音書のメッセージはそれを示しているのです。「わたしを置いていたことを恐れるな」とイエス様は励ましておられるのです。主イエス・キリストは私の現実に厳然としておられ、私を導いておられるのです。だから、心配する必要はありません。恐れる必要はありません。主イエス・キリストが共におられるからです。

 私達は、自分の人生ですから、自分なりに人生設計をして歩んでいます。しかし、いろいろなことで行き詰ってしまうこともあります。その時、忘れていた神様の存在、導きを示されるのです。聖書において、創世記に記されるヤコブの姿を示されます。ヤコブはイサクの子供として生まれますが、双子で生まれたのです。一緒に生まれたのに、ヤコブは弟の身分になります。一緒に生まれたのにエサウは兄となります。エサウはたくましく、野山を駆け回って狩猟者になっています。ヤコブにはそういう姿はなく、いつも母リベカと共にいるのです。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛していました。ヤコブは一緒に生まれながら、自分が弟の身分であることが面白くありません。当然、兄エサウが父の後を継ぐので、財産の殆どを引き継ぐことになるのです。ヤコブにも財産が与えられますが、兄ほどではありません。それでエサウをだまして兄の権利を奪い、父から相続の祝福まで受けてしまうのです。これは母リベカの計略でもあるのです。兄の権利を奪われたエサウは激しく怒ります。そのためヤコブは母の兄ラバンのもとへ逃れて行くのです。家を出て、旅の途上、野宿しているのですが、その時夢をみたのでした。天まで達する階段であり、その階段を天使たちが上り下りしている状況を夢で見るのでした。夢の中に神様が現れ、ヤコブに言うのです。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」と言われたのです。その時、ヤコブは眠りから覚めました。そして、「まことに神様がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と言うのでした。

 ヤコブの生き方を示されると、誠にずるい生き方です。旨く立ち回って人生を自分で切り開いているかのようです。しかし、その彼が、神様の導きを知るようになるのです。彼にとっては、悲しい運命を切り開いていたのですが、神様のお導きを知るようになるのです。大塚平安教会時代、礼拝堂の改修を行いましたとき、聖壇には、このヤコブの階段、はしごを掲げました。そしてその階段に十字架を掲げたのでした。私達の現実は、ともすると、自分で切り開く人生でありますが、神様がどのような状況でありましょうとも、導いてくださることを、聖壇によって示されていのです。救いが与えられているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。共におられてお導きくださり感謝致します。いよいよ十字架の救いを見上げて歩ませてください。キリストのみ名によっておささげいたします。アーメン。

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