説教「共におられる神様」

2016年12月18日、六浦谷間の集会
「降誕前第1主日アドヴェント第4週

説教・「共におられる神様」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書7章10-14節
     マタイによる福音書1章18-23節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・102「もろびと声あげ」
     (説教後)讃美歌54年版・529「ああうれし、わが身も」


 降臨節第四週となり、本来は本日がクリスマス礼拝ですが、今年は25日がクリスマス礼拝になります。もうロウソクも4本点灯しています。もはやクリスマスなのです。主イエス・キリストは私たち一人ひとりのためにお産まれになりました。今朝のマタイによる福音書1章23節に示されている通りであります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と示されています。神様が私たちと共におられる「しるし」として、主イエス・キリストがお産まれになりました、と聖書は証しているのです。
 前週14日は早苗幼稚園のクリスマスの集いが行われました。園児たちが演じるページェントは、ドレーパー記念幼稚園時代を思いだしていますが、本質的には変わりません。クリスマス物語はマタイによる福音書ルカによる福音書がそれぞれに記しています。マタイによる福音書におきましては天使がヨセフさんへお告げを与えます。婚約中のマリアさんが身ごもって男の子を産むということでした。聖書によれば、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」ということでした。しかし、天使に励まされてマリアさんを受け止めるのでありました。イエス様が生まれたとき、救い主出現の星が現れました。その星を見た占星術の学者達が、星に導かれてイエス様のところにやってきました。そして黄金、乳香、没薬の宝物をささげたのであります。一方、ルカによる福音書マリアさんに天使が現われ、お告げを示します。驚くマリアさんですが、天使の励ましによりお告げを受け止めました。「お言葉通り、この身になりますように」と告白するのであります。そして、ヨセフさんとマリアさんは人口調査を受けるためにベツレヘムへと上って行きました。聖書の世界はローマの国に支配されており、ローマは人口調査をしては勢力範囲を知るのであります。ベツレヘムに行ったヨセフとマリアでしたが、どこの宿屋さんも満員であり、泊まるところはありませんでした。それで、ある宿屋の馬小屋に泊まることになったのであります。その馬小屋に羊飼い達がやってまいりました。天使のお告げによって、救い主がお生まれになったことを知り、羊飼い達が産まれたイエス様のもとへやってきたのであります。クリスマス物語はマタイによる福音書ルカによる福音書を合成させたものであります。この合成されたクリスマス物語をページェントとして演じたのであります。
 イエス様がお産まれになったことをお祝いするのは、主イエス・キリストが神様の御心を私たちに示し、それにより私たちが平和に生きる者へと導かれているからであります。ということは、いつも共にいてくださるイエス様なのであります。共にいてくださるイエス様により、私たちは現実を励まされて歩む者へと導かれているのであります。

 聖書は神様が私たちと共にいて、導いてくださることを示しています。いろいろな人々が共におられる神様により、力強く生きたのであります。共におられる神様により、モーセは奴隷で苦しむ聖書の人々を救い出しました。その使命をモーセが受けたとき、モーセはそんな恐ろしいことはできないと断ります。そんな力は私にはありませんというのです。すると神様は「一体、誰が人間に口を与えたのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたの語るべきことを教えよう」(出エジプト記4章10節以下)とモーセを励ますのでした。その励ましによりモーセは奴隷の人々をエジプトから脱出させることができたのであります。モーセの後継者ヨシュアは若者でした。若者であるヨシュアを神様は励まします。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(ヨシュア記1章5節以下)と励まされたヨシュアは、モーセの後継者としての使命を全うするのでありました。
 神様は人々共にいてくださり、御心をもって導いておられるのです。預言者たちのメッセージはそのことに尽きます。神様が共にいてくださり、その神様に信頼して生きるならば平安を与えられるのです。しかし、多くの人々がその道を選ばないのであります。イザヤ書7章は「インマヌエル預言」といわれるものであります。状況的には困難な状況でありました。当時の強い国はアッシリアでありました。そのアッシリアに対抗しようと国々が結束しています。そして、その結束を聖書の国、ユダにも呼びかけているのです。しかし、ユダの王はその呼びかけには応えませんでした。アッシリアに対してはどのように臨むのか、その決断が迫られている状況なのであります。7章10節以下が今朝の聖書の示しであります。「主はさらにアハズに向かって言われた。『主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に』。しかし、アハズは言った。『わたしは求めない。主を試すようなことはしない。』」と言っています。「深く陰府の方に」とは、アッシリアの援助により勝利することであり、「高く天の方に」とは神様の約束を信じて、自力で防衛することであります。アハズ王はあからさまにアッシリアの力により頼むとは言えないのでありますが、結局はアッシリアにより頼むのでありました。このような優柔不断こそ、御心に反することでありました。そこで神様は「しるし」を示すのでありました。その「しるし」とはインマヌエルでありました。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ」と示しています。もはや優柔不断のアハズ王ではなく、神様は新しい指導者をお立てになるということなのであります。新しい王は「神様が共におられる」ことを、強く示すのであります。人間的な駆け引きに心を弱くするのではなく、神様が共におられる喜びと希望を持って生きることを示しているのであります。
 神様が共におられるので、あなたは勇気を持って歩みなさいと聖書は示しているのです。モーセヨシュアについて、共におられる神様の励ましを示されましたが、もう一人、ヤコブについても示されておきましょう。ヤコブモーセヨシュアよりずっと前に存在した人であります。兄のエサウは祝福をおろそかにし、弟のヤコブは祝福を大事にしました。そのヤコブの生き方がまさに祝福へと導かれたのであります。兄が受けるべき祝福を弟のヤコブがもぎ取ってしまうのですが、兄の怒りから逃れるために、母の兄、すなわち伯父さんのもとへと赴く途上のヤコブです。夜になり、石を枕に野宿するのですが夢を見ます。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていたのであります。その時、神様がヤコブの傍らに立ち言われました。「わたしはあなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と示す神様でした。ヤコブは眠りから覚めて言います。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と、共におられる神様を真実に知ることになったのであります。
 このヤコブの共におられる神様の示しをいただき、前任の大塚平安教会時代、教会創立40年のとき、教会の改修を行いました。その時、聖壇の正面には梯子をかけたのであります。大塚平安教会は建てなおしましたので、その聖壇はなくなってしまいましたが、写真が残されていますので、写真を見ては示されているのであります。共におられる神様は私たちを力強く導いてくださっているのです。

 イザヤ書の「インマヌエル預言」を受けて、主イエス・キリストのご降誕を示しているのが、マタイによる福音書1章18節以下の示しであります。マタイによる福音書はヨセフさんへのお告げであります。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」とマタイによる福音書は証しています。聖霊によりマリアさんから救い主が産まれるということでありました。それは旧約聖書にも預言されていた「インマヌエル預言」であるというのです。主イエス・キリストがこの世に現れるのは、「神様が我々と共におられる」示しであるのであります。神様が私たちの現実に共におられて、私たちを導き、励ましてくださるのであります。まさにイエス様は共におられる方でありました。
 マタイによる福音書9章9節以下に、「マタイを弟子にする」ことが記されています。徴税人マタイは孤独の人でした。聖書の国、ユダヤを治めているのはローマでありました。そのローマのために人々は税金を納めなければなりません。しかし、誰もが納めることに抵抗を持っています。ましてや税を集める職務にはつきたくありません。しかし、生きていくうえに、そのような職務をしなければならない人もいます。徴税人マタイが存在するようになります。このことはザアカイさん物語でも示されることでありますが、マタイさんはいつの間にか人々から相手にされないような人になっていました。悪者呼ばわりまでされているのです。そのマタイさんにイエス様が声をかけました。「わたしに従いなさい」との招きの声に、マタイは応えたのであります。共におられる神様を示されたからであります。マタイさんはイエス様を自分の家に招き、他の徴税人達を呼び、罪人呼ばわりされている人々をも招いてイエス様と食事をしたのです。罪人とされている人達は、多くの場合、病気の人たちでした。当時の考え方は因果応報でありますから、病気は罪の故であると信じていたのです。イエス様はそれらの人々と親しく交わっていたのです。人々にとって、イエス様とのお交わりは「共におられる神様」を実感したと言えるでしょう。ところが、時の社会の指導的な立場の人たちがイエス様を批判いたします。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子達に言うのでありました。それを聞いたイエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言われ、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたのであります。罪人とは誰でありましょう。実に私たちなのであります。私たちは罪人なのであります。私のおく深くにある自己満足、他者排除こそ罪の根源であります。それを聖書は原罪としています。創世記3章に記される通りであります。人間は切磋琢磨してよい人間になることができます。しかし、最後の一点、原罪を克服できないのであります。どうしても自己満足を優先し、他者排除に生きようとするのです。神様は、人間が克服できないので、主イエス・キリストをこの世に産まれせしめて、人々の罪を救う導きを与えたのであります。そして、共におられて導いてくださっているのです。

 年末になると知人の皆さんから喪中のご挨拶をいただきます。その中に大塚平安教会に時代にお交わりいただいた伊藤妙子さんのご挨拶をいただいています。お子さんの智明さんが10月2日にご召天になられたということでした。前任の大塚平安教会時代にはドレーパー記念幼稚園の園長も担いましたので、智明さんには幼稚園で働いていただいていました。幼稚園バスの送迎や事務仕事です。結構長く勤められましたが、病状が進み退職されたのです。大塚平安教会は2009年に創立60周年を迎え、「60周年記念誌」を発行しました。記念誌は教会の歴史的記録をまとめるとともに、教会員の皆さんのお証を掲載しました。その記念誌に伊藤妙子さんが寄稿されています。「神はいつも傍らにいて下さる」と題してのお証です。皆さんのお証には愛唱聖句と愛唱讃美歌も紹介されています。伊藤妙子さんの愛唱聖句は今朝の聖書でありますマタイによる福音書1章23節でありました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』と言う意味である」との聖書の言葉です。
 智明さんは25歳から人口透析を受けるようになり、そのため難病も併発して、ほとんど目が見えなくなりました。病気の苦しさをいつも訴える智明さんに対して、どのようにサポートしてよいかわからないのでありました。視覚障碍者センターやボランティアセンター等から誘いを受けていましたが、なかなか踏み出せないのでした。ふと気が付くと、神様にお祈りしていたといわれます。「助けてください」と祈る私に、「神はいつも傍らにいてくださる」との聖書のことが示されていたと証しされています。
 共にいてくださる神様は智明さんを導いてくれましたし、お母さんの妙子さんと共におられて励まされたのでした。クリスマスになると、今朝の聖書の言葉が示されます。神様が私たちと共におられるために、イエス様がお生まれになられたのです。今年もクリスマスにあたり、「共におられる神様」のお導きを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。クリスマスは共におられる神様のお証です。再び示され感謝致します。共にいてくださる神様に委ねて歩ませてください。主イエス様のみ名によって、アーメン。