説教「隣人と共に」

2021年9月12日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第17主日」              

                      

説教・「隣人と共に」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記45章9-13節

   ヤコブの手紙2章5-13節

   マタイによる福音書18章21-35節

賛美・(説教前)讃美歌21・358「小羊をばほめたたえよ!」

   (説教後)讃美歌21・483「わが主イエスよ、ひたすら」

 

 今年の夏は、東京2020としてオリンピックやパラリンピックが開催され、いろいろな競技を楽しく観戦したのでした。パラリンピックでは、身体に障害のある人が、力を振り絞って競技する姿を示され、大きな感銘を与えられたのでした。パラリンピックでは常に「共生」という言葉が発せられていました。人間は一人の存在として、どのような状態でありましょうとも、共に歩むことが基本なのです。パラリンピックはその基本を示されたのでした。一人の存在を無視することで、力によって人を支配することになるのです。戦争の根源というものでしょう。今、世界では戦争が起きるかもしれないという不安が、いつも募っています。現実に戦争をしているところもあります。今はアフガニスタンの問題があります。戦争によって多くの人々が難民として他の国へ逃れていくのです。

何かとイスラム教の世界の問題があり、いろいろと学んだことがありました。イスラム教は聖書の示しが大きく影響していると思われます。イスラム教では神様をアッラーと呼んでいます。その神様を信仰することが中心ですが、アッラーを信じる者は横の関係、人間関係も正しくなければならないのです。そのような教えは聖書の人々に十戒が与えられた状況に通じるものがあります。十戒の第1戒から4戒までは神様を信じることです。そして第5戒から10戒までは人間関係を導く戒めなのです。神様に祝福をいただくことは、「自分を愛するように隣人を愛する」生き方として私たちは教えられています。私の現実の生活の中で、イエス様の教えをどのように実践するのか。この現実は神様が私に与えて下さった現場であります。この現場で主の道を隣人と共に生きることなのです。 

 今朝の旧約聖書はヨセフ物語であります。神様の救いが大きなご計画の中で導かれているのであります。聖書の民族はアブラハムの時代、イサクの時代、ヤコブの時代と続きますが、今朝の聖書はヤコブの時代のことでした。ヤコブには12人の子どもができます。この子ども達の中でヤコブは11番目のヨセフに対しては特別な思いがありました。どの子供よりヨセフには良い服を着せたりしていたのであります。そのため他の子ども達はヨセフを妬むようになっていました。

 ある時、野原で羊の番をしている兄達の様子を見てくるように、ヨセフは父のヤコブから言われます。ヨセフが兄達のいる野原に行きますと、遠くで弟のヨセフが来ることを見た兄達は、ヨセフを何とかしようということになりました。何とかとは殺してしまうことであります。しかし、一番上の兄は殺すことはいけないと言い、穴の中に放り込めばよいと言うのでした。後で穴から助けるためです。兄弟たちは同意します。そこへエジプトに行く商人たちが通りかかりました。兄弟たちはヨセフを商人たちに売り渡してしまうのであります。こうしてヨセフはエジプトに奴隷としていくことになったのであります。このヨセフ物語をさらにお話しすると、大変長くなりますので、途中は割愛することにします。神様の不思議な導きで、ヨセフはエジプトの王様の不思議な夢を解き明かして上げます。王様はヨセフを自分に次ぐ大臣に取り立てるのであります。王様の夢とは、7年間の豊作の後に、7年間の大飢饉が起きるというものです。だから豊作の間に、穀物や食料を貯蔵することを進言するのでした。その解きあかしに満足し、ヨセフを大臣に取り立て、大飢饉に備えさせたのでありました。

 夢の通り大飢饉となりました。エジプトには食料があるということで、諸国から買出しにやってくるようになりました。ヤコブの一族も飢饉に困り果てていました。それでエジプトに食料の買出しにやってくるのです。

それで今朝の聖書です。兄弟たちがエジプトに食料を買いに来たとき、ヨセフは自分を奴隷として売り渡した兄弟たちであることをすぐわかりました。しかし、兄弟たちはエジプトの大臣になっているヨセフがわかりません。今朝の聖書は二回目に買出しに来たときのことであります。ヨセフはもはや隠していることができず、身を証したのでありました。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きていますか。わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と告白しました。兄弟たちはヨセフであると知り、恐れを持ちますが、しかしヨセフは恐れを取り除くかのように、これは神様のご計画であることを示したのでありました。今の実情は悲しい状況であるかも知れません。しかし、神様の導きの途上であるならば、現実をしっかりと受け止めて歩むことを示されるのであります。ヨセフはここに至るまで、殺されかけ、牢屋に入れられ、人間的な苦しみを持ちつつ生きなければなりませんでした。神様の導きがありました。今の自分は神様の救いの途上であることを知りつつ歩んだということです。自分の思いを超えて、他の存在を受け止めたということであります。神様の恵み、導きに自分を委ねたということであります。

 このヨセフの生き方が今朝のメッセージであります。マタイによる福音書18章21節以下、「仲間を赦さない家来」のたとえがイエス様によってお話されました。イエス様のお弟子さん、ペトロが「赦し」についてイエス様に尋ねました。「兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねるのです。それに対してイエス様は「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われたのであります。七の七十倍は490ということになりますが、そこには限りが出てきますが、むしろ無限を意味しています。イエス様は無限に赦しなさいと教えておられるのです。わかりやすくするために、イエス様はたとえ話しをされます。

 ある王様が家来達に貸したお金の決済をすることになりました。決済をし始めたところ、1万タラントン借金している家来が、王様の前に連れてこられました。1タラントンに換算すると6千万円くらいということになります。それに1万をかけると、気が遠くなるほどのお金になります。一人の家来が莫大なお金を王様から借りていたということです。この家来は返すことができないので、王様は自分自身も妻も子供も、また持ち物全部を売り払って返済するように言います。家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と懇願します。王様はこの家来を憐れに思い、この家来を赦して借金を全部帳消しにしてあげたのであります。

 ところが、この家来が赦されて道を歩いていると、この家来から100デナリオンの借金をしている友達に会います。家来はその人を捕まえ、借金を返せとせまるのであります。友達は、ひれ伏しながら、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼むのであります。しかし、家来は承知せず、この友達を牢屋に入れてしまうのです。100デナリオンは100万円位ですから、決して小さなお金ではありません。しかし、1万タラントンと比較すれば微々たるお金です。他の友達がこの有様を王様に告げます。家来は王様に呼ばれます。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の友達を憐れんでやるべきではなかったか」と言い、その家来も牢屋に入れてしまったというのであります。神様からいただいている憐れみは人にもしなさいとの教えであります。自分の思いを超えて、他の存在を受け止めて生きることが私たちの歩みであるとイエス様によって示されるのであります。イエス様の教えを実践することが求められているのです。

 私の現実の生活、いわゆる私の現場にはどのような人がいるのでしょうか。いつも意地悪をしている人がいます。なんでも口に出して吹聴して回る人もいます。挨拶しても、横を向いている人もいるのです。しかし、どのような現場でありましても、この現場に神様が私を導いて下さっているのです。祝福の現場になるように導いて下さっているのです。それが聖書の教えであるのです。

 幼稚園でいつも他の存在を示されながら歩んでいます。朝のクラスでは先生がお祈りしますが、休んでいる友達がいれば、必ずそのお友達をお祈りしています。ですから子供たちは、お祈りはお友達のためにお願いするのだと思っています。ある時、礼拝で「お祈り」についてお話ししました。「神様、美味しいケーキをください」、「楽しいおもちゃをください」とお祈りしましょうか、と聞きました。すると子供たちは首を振るのです。「違いまーす」と言う訳です。お祈りはお友達のことをお願いするのであると思っているのです。お祈りはいつもお友達ことをお祈りしているのです。「共に歩む者へと導かれ」ているのです。いつも神様に向かうことです。共に歩む者へと導かれるのです。 

<祈祷>

聖なる神様。神様のお導きにより、日々歩むことができ感謝致します。隣人と共に歩ませてください。主の御名によりおささげ致します。アーメン。

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