説教「救いの記念を繰り返しつつ」

2014年10月5日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第18主日」、世界聖餐日

説教・「救いの記念を繰り返しつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記12章21-28節
    ヘブライ人への手紙9章23-28節
     マルコによる福音書14章12-26節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・280「我が身ののぞみは」
    (説教後)讃美歌54年版・202「奇しきみすがた」


 本日は10月5日ですが、明日の10月6日は私の洗礼記念日であります。1957年10月6日に受洗していますので、今回の洗礼記念日は57年になります。多くの場合、洗礼を受けるのは春のイースターである3月4月頃、初夏のペンテコステである5月6月頃、冬のクリスマスの12月頃であります。だから10月の洗礼日は、キリスト教の三大祝祭日ではありません。では祝祭日には関係しない普通の日であったかと言うと、実はこの日は世界聖餐日であったのです。日本基督教団ばかりではなく、10月の第一日曜日を世界聖餐日として定めている教派は他にもあります。聖餐式イエス・キリストが定めた、信仰を導く大切な儀式です。イエス様の時代から今に至るまでこの儀式が守られ、信仰を導く大きな基になっているのです。
 私が洗礼を受けた1957年は高校生の頃でした。清水ヶ丘教会に出席していました。高校生会に所属して、交わり、活躍していましたが、青年会の集いにもよく参加していました。青年会がハイキングを開催すれば参加していましたし、夏になると修養会を開催しますので、高校生でありますが参加していました。その修養会が逗子の海岸近くの会場で開催されたのです。お楽しみは海水浴で、皆さんと共に水泳を楽しんでいました。みんなで泳いでいるつもりでありましたが、気が付くと一緒に泳いでいるのは清水ヶ丘教会牧師の倉持芳雄先生でした。他の青年会の皆さんは浜に上がって、そこで楽しんでいたのです。それで倉持先生と共に浜辺に向かって泳いで行ったのですが、泳ぎながら、今まで口にできなかったことを話していました。泳ぎながら倉持牧師に向かって、「洗礼を受けたいのです」と告白していたのです。それを聞いた倉持牧師は喜んでくださり、それでは早速準備しましょうということになりました。修養会は8月です。だから準備といっても、そんなに日数があるわけではありません。それでも9月中に数回にわたり洗礼準備会をしたのでした。そしてその年の世界聖餐日が10月6日でしたので、12月のクリスマスまで待つのではなく、この日に洗礼式執行となりました。この珍しい洗礼志願を倉持牧師は深く受け止めてくれまして、洗礼式当日の礼拝説教では長々と紹介するのでした。この珍しい洗礼志願のお話しはそれからも続くのです。神学校に入って、10月第二日曜日は神学校日・伝道献身者奨励日であり、神学生でありますが当日の説教者として呼んでくれました。そのときの私の紹介が、珍しい洗礼志願のくだりでありました。そして婚約式、結婚式を清水ヶ丘教会で行いましたが、いずれの式辞においても珍しい洗礼志願の紹介でありました。
 こうして珍しい洗礼志願を紹介し続けたこともありますが、私自身は世界聖餐日に洗礼へと導かれたことを意味深く示されています。すなわち、信仰を導くためにイエス・キリストが最後の晩餐において聖餐式の儀式を与えてくださり、それが今に至るまで、世界のキリスト者の原点になっており、その原点の日に私の信仰が始まったということです。今朝の説教題は「救いの記念を繰り返しつつ」でありますが、言うまでもなく聖餐式を示されているのであります。信仰の原点である聖餐式を繰り返しいただきつつ、私達の信仰を導かれたいのであります。救いの出発点を朗誦すること、信仰に生きる者の務めなのです。

 旧約聖書出エジプト記の教えであります。神様の救いの根本がここに示されています。最初の人アブラハム、そしてイサク、ヤコブの族長時代の救いというものも示されますが、奴隷からの解放、救いは聖書全体の救いの下敷きになっているのであります。
 今朝の聖書、出エジプト記12章21節以下は神様の救いが実現するにあたり、聖書の人々が救いに与る準備をする所であります。聖書の人々がエジプトで奴隷である、この意味を分からない人々がいます。奴隷として働かせているエジプト人も、奴隷として働かせらせている聖書の人々、イスラエル人も、なぜなのか分からない人々がいるのです。これは少し遡らなければなりません。族長ヤコブの時代、飢饉、冷害が起こり、食べ物に窮することになりました。それでエジプトに食料があるというので、ヤコブの子ども達10人が買い出しに行くのであります。そこで、はからずも11番目の兄弟ヨセフに出会います。ヨセフはエジプトで王様に次ぐ大臣になっていました。兄弟達は驚くと共に恐れるのであります。なぜならば、このヨセフを兄弟達が奴隷として売り渡してしまったからであります。ヨセフはヤコブの12人の子ども達の中でも、父のヤコブがこよなく愛している息子でした。他の兄弟達は面白くありません。何とかしなければとの思いが、ヨセフを奴隷として売ってしまうことでした。本当は殺すことまで考えたのですが、一番上の兄が殺すことは思いとどまらせたのでありました。売り飛ばされたヨセフは、不思議な力がありました。それは夢を解くということです。王様が変な夢を見ました。誰もその夢を解き明かすことができません。それがヨセフへの導きとなり、ヨセフは王様の不思議な夢を解き明かすのであります。7年間は豊作が続き、その次に来る7年間の飢饉は豊作を飲み込んでしまうというものです。だから、豊作の期間、穀物や食料を貯蔵することを王様に進言するのであります。王様はヨセフの夢の解き明かしを喜び、ヨセフを大臣にして食料の管理をさせたのであります。そこで食料の買い出しに来た兄弟達との再会になりました。ヨセフは恐れる兄弟たちに、「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここに売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と言うのであります。
 こうしてヤコブの一族はエジプトに寄留することになりました。その後、ヤコブもヨセフも死んでしまいます。そして、このエジプトに外国人が住んでいることの意味を知らない王様の時代になります。自分の国で外国人が多くなっていくことに恐れを持つのであります。それにより奴隷の時代が始まるのであります。奴隷として苦しむこと400年と言われています。この苦しみの声を神様が受けとめ、モーセという指導者を立てて救い出すのであります。モーセはこの大きな職務に恐れを持ち躊躇します。しかし、神様はモーセを励まし、救いの業を行わせるのであります。モーセはエジプトの王様ファラオに、聖書の人々がこの国から出ていくことを交渉します。しかし、王様は応じません。今や奴隷の力はエジプトにとっては大きな力になっているのであります。奴隷の労力がなければ何もかも進められなくなるのであります。かたくなに拒否をする王様に、モーセは神様の力を持って迫ります。水を血に変えてしまいます。いよいよ飲み水がなくて、王様は出て行ってもよいと言うのですが、元に戻ると再び過酷な労働を命じるのであります。この後、蛙の災い、ぶよの災い、あぶの災い、疫病の災い、はれ物の災い、雹の災い、いなごの災い、暗闇の災いを与えました。災いを与えられて苦しむときには、もはや奴隷を解放すると言うのですが、災いが無くなると心を翻してしまうのであります。
 そして、ついに最後の災いが下されるのであります。それが今朝の聖書になります。神様の最後の災いは、エジプトに住むすべての初子は死ぬということでした。聖書の人々もエジプトに住んでいるのです。神様の審判から救われるために、聖書の人々の家の鴨居に羊の血を塗っておくのです。審判の日、モーセは聖書の人々に、「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血をご覧になって、その入り口を過ぎ越される」と示すのであります。
 こうして過越の救いが与えられたのであります。この救いの過越は定めとし、永遠に守らなければならないと示しているのであります。子どもたちが、この儀式にはどういう意味があるのですか、と尋ねるならば、こう答えなさいと示します。「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」と示しなさいと言うことです。従って、毎年この過越の祭りがおこなわれ、救いの原点を示され、救いを確認しつつ歩むのであります。救いは昔の出来事ではなく、今の出来事であると受けとめるのであります。今生きている場が救いの出来事であるということであります。

 主イエス・キリストも過越の食事を致します。旧約聖書過越の祭りが、イエス様による救いの時となるのであります。「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意致しましょうか」と弟子たちが聞きました。すると、イエス様は、「都に行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子達と一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」と言われたのであります。
最初のところに「除酵祭」とありますが、これは「種入れぬパンの祭り」であります。旧約聖書で、神様の最後の審判の時、羊の血を家の鴨居と二本の柱に塗っておきました。それによりエジプトに審判が下され、王様のファラオは奴隷を解放したのであります。人々は急いで種入れぬパンを作り、それを持って脱出したのであります。種とは膨らまし粉、イースト菌であります。パンをこねて、ゆっくりとパンを作る時間がありません。急いで脱出した記念であり、救いの記念でありました。それは歴史を通して守られてきました。イエス様の時代も種入れぬパンの祭りとして過越の祭りがお祝いされたのであります。
 こうして準備された食卓で、イエス様は救いの儀式を示されたのであります。マルコによる福音書14章22節以下は「主の晩餐」として示されていますが、「最後の晩餐」なのであります。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の地である』」と言われたのであります。イエス様の十字架による贖いはこの後ですが、あらかじめ儀式を示されたのであります。イエス様が十字架にお架りになり、復活されたとき、お弟子さん達はイエス様の残された儀式をしっかりと受け止め、聖餐式として守るようになりました。イエス様が十字架にお架りになる前に、最後の晩餐を通して聖餐式をお定めになられたのは、十字架の救いが前提であります。十字架により血が流されること、その血は救いの印しであるということを示されているのであります。従って、十字架の救いを信じて洗礼を受けること、そして聖餐式に与ることが救いの確信となるのであります。

 救いの出来事は生涯にわたり、信仰者の基であります。救いの出来事をいつも原点にしつつ歩むことが私たちの願いであります。
 聖餐式は信仰を導く原点ですから、聖餐式に向かう姿勢が大きな証しになっています。私は1979年9月に大塚平安教会牧師に就任しました。大塚平安教会は神奈川教区の中でも湘北地区に属します。湘北地区は大和、綾瀬、海老名、座間、伊勢原、秦野、相模原市にある教会の群れです。地区には17の教会があります。毎年、1月1日には湘北地区新年合同礼拝が開かれていました。多くの場合、新しく就任した牧師の教会で礼拝をささげ、新任の牧師が説教を担当するということでした。9月に就任したばかりですが、その新年合同礼拝の説教を行うことになったのです。説教は何とか務めさせていただいたのですが、その後に行われた聖餐式で、私は強烈な印象を与えられました。聖餐式の司式は私が行い、配餐者のお一人が相模原教会牧師の伊藤忠利先生でありました。相模原教会は伝統的なメソジスト教会の流れを受け継いでいる教会です。聖餐式において、伊藤先生はパンを会衆の皆さんに配り、そして最後にご自分も聖餐式に与るのですが、パンを受けた先生は、そこで膝まずき、パンを押し頂いて、口にされたのでした。それはぶどう酒の杯も同じであります。聖餐を押し頂いて受けること、初めての経験でした。それまで、私の信仰は清水ヶ丘教会で導かれ、その後は神学校時代に奉仕教会として川崎教会、曙教会に出席しました。そして、神学校を卒業して、伝道者として青山教会、陸前古川教会、そして大塚平安教会であります。いくつかの教会を経験しましたが、伊藤忠利先生のような姿勢で聖餐式に臨む姿は経験していません。聖餐式を真にお恵みとして頂く姿勢、強烈な印象でした。出身の清水ヶ丘教会も聖餐式に臨む姿勢は大切にしています。250名も出席する礼拝で、聖餐式には10名の皆さんが配餐者として奉仕しますが、奉仕者は白い手袋をして聖餐に臨むのです。伊藤忠利先生の聖餐式に臨む姿勢に示されましたが、だからといって、私も同じようにしているのではありませんが、聖餐式に臨む姿勢を教えられているのです。
 イエス・キリストが十字架にお架りになって、私の中にある自己満足、他者排除の姿を滅ぼしてくださったのです。イエス様はご自分を犠牲にして、私達人間を真に生きる者へと導いてくださっているのです。その救いの原点が聖餐式なのです。聖餐式に繰り返し臨むことが、私達の救いということなのです。
<祈祷>
聖なる神様。救いの出来事により、主の十字架の救いを与えてくださり感謝致します。救いの出来事が生涯の支えとなり、導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。