説教「祝福へのお導き」

2016年3月6日、三崎教会 
「受難節第4主日

説教、「祝福へのお導き」 鈴木伸治牧師
聖書、サムエル記上10章1-8節
    ヨハネによる福音書12章1-8節
讃美、(説教前)讃美歌21・300「十字架のもとに」
    (説教後)讃美歌21・567「ナルドの香油」


 受難節第四週の歩みとなりました。今年は2月10日から受難節に入りました。イースター、復活祭が今年は3月27日であり、2月10日から3月26日までの40日間、イエス様の十字架への道を示され、その十字架が私をお救いくださる根源であることを示されつつ歩むのであります。今はその受難節のさなかを歩んでいます。受難節の歩みは十字架を仰ぎ見つつ歩むことです。それが私達の祝福への道なのです。
 今日は3月6日であります。私は時々、「今日は何の日」ということで、ネットを開いては、その日に生まれた人、亡くなった人を示されています。3月6日に生まれた人は、歴史において数えきれないほどいます。その中で、小説家の大岡昇平さんとか宮本輝さんがいます。実業家では竹鶴威さんがおられます。竹鶴さんと言えば、NHKの朝ドラ「マッサン」のモデルになった人です。2014年10月から2015年3月まで放映されました。ウィスキー造りでひたむきに生きた人でした。この物語に興味を示したのは、マッサンのお連れ合いであるスコットランド人のエリーさんでした。実在の人はリタさんと言います。私は神学生の頃、夏休みに北海道の余市教会に実習に行きました。その教会の付属幼稚園がリタ幼稚園というのです。そのリタさんの葬儀を余市教会の牧師が司式したので、竹鶴さんは教会に献金をささげたということです。その献金を基にして幼稚園を新しく建てなおし、リタ幼稚園としてということです。ですから私が余市教会に行ったのは、リタさんが亡くなったばかりの頃でした。そんな関わりで「マッサン」を毎日楽しみに見ていたのですが、2014年10月21日から二ヶ月半、バルセロナに滞在することになり、残念ながらその間は見ることができなくなりました。しかし、インターネットのUチューブなるもので、既に放映されたものですが、遅ればせながら見ていたのです。そして、2015年1月8日には帰国して、毎日見ることになりました。
 「マッサン」のお話しをいつまでもするつもりはないのですが、一つのことを見つめて生きた竹鶴さんとリタさんの生き方はとても大切であると示されたのです。同じ3月6日に生まれた人としてミケランジェロがいます。彫刻家であり、芸術家であったミケランジェロは皆さんの知る通りであります。ミケランジェロと言えば、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に置かれている「ピエタ」や、そのシスティーナ礼拝堂の天井画や最後の晩餐は驚く他はない作品であります。2012年に見学したのですが、天井画ですから、上を見つめる訳で、首が痛くなるほどでした。ミケランジェロは当時の芸術家の中でも長寿であり89歳まで生きた人です。このミケランジェロを示されるとき、どんなにか聖書を見つめていたか、また十字架を見つめていたかと示されるのです。十字架を見つめて生きるときに、あのような心に残る作品を生み出したと示されるのであります。
 説教の導入としてマッサンやミケランジェロを示されましたが、私達に求められていること、十字架を見つめて歩むことを示されるのであります。そうすれば「祝福のお導き」が与えられるということなのです。受難節第四週に当たりまして、主イエス・キリストがご受難により、十字架による栄光のメシア、救い主であることを深く示されたいのです。今は十字架を見つめること、そこに祝福の歩みが導かれるということです。

メシアとは「救い主」という意味ですが、正確には「油注がれた者」との意味です。指導者となるべき人の頭に油を注ぐのです。油注がれた者は指導者となり、人々をよりよく導く使命があります。すなわち、メシアは我々を幸せにしてくれる存在であり、その意味で「救い主」として信頼するようになるのです。今朝の旧約聖書サムエル記上におきまして、サウルという人が油を注がれます。従って、サウルはメシア、救い主にならなければなりませんが、彼は救い主にはなれなかったのであります。その頃、聖書の人々は12部族による歩みでした。祭司サムエルの指導の下に歩みを進めていたのです。祭司とは神様の御心を示し、人々を導く働きをする人です。人々は何事も祭司に相談し、あるいは指示を受けて歩んでいたのです。世襲的な面もあり、サムエルには二人の子どもがいますが、この子供達はどうしようもない生き方をしています。人々から不正な利益を求めたり、賄賂を取っていたのです。それで人々はサムエルに訴えるのです。サムエルの後継者は不正な者であるから、ここで王様を選任してほしいと申し出るのでした。これに対してサムエルはこの民族の中心は神様なのに、王様を選ぶことはよろしくないと思います。それで神様にお祈りします。しかし、神様は、人々の気持ちは変えられないから、望む通りに王様を選任しなさいと示すのです。
 こうして王様が立てられることになりました。サウルは当初は神様の御心を求めては、人々の指針としていました。しかし、次第に人間的な思いになって行くのであります。サウルは王として周辺の国々と戦い、勝ち戦をしていきます。しかし、サウルは神様のお心ではなく、家来達の心になびくようになります。ひたすら敵の戦利品ばかりを求めるようになるのです。神様はこのようなサウルを見捨てることになります。そして、次に油を注がれるのは少年ダビデでありました。油注がれた者は忠実に神様のお心を行わなければならないのであります。メシアは油注がれた者として、人々を救い、人々を平和に導かなければなりません。サウルの次の王、ダビデは忠実に御心に従い、実行します。しかし、ダビデも極めて人間的な生き方があり、神様の怒りを買うこともありました。メシアを人間に求める限り、人間は失望しなければなりません。しかし、ダビデは総合的には神様の御心に忠実に生きた人です。人々を平和に導いたのです。従って、後の世の人々は再びダビデのような人が現れ、我々を救ってもらいたいという希望を持つ様になったのです。これが旧約聖書の中にある「救い主待望思想」でありました。その希望はイエス様が現れた新約聖書時代でも人々が持っていたのです。ですから新約聖書福音書にはイエス様が救い主であると信じる人々、いや違うと思う人々の姿が記されているのです。新約聖書は、今や「救い主が現れた」ということを人々に示しているのですが、それを信じない人々の記録であります。主イエス・キリストが現れ、結局、人間はどうしても救われないので、十字架にお架りになって「救い」を実現されたことが、新約聖書の証しということなのです。

メシアとは旧約聖書が書かれているヘブル語であります。メシアをラテン語で言えばメサイアとなります。そして、新約聖書が書かれてギリシャ語で言えばキリストであります。従って、「イエス・キリスト」は名前と苗字ではなく、「救い主イエス」との意味であります。メシアは「油注がれる」との意味ですが、新約聖書の時代には油を注ぐという儀式はなくなりました。それに類することを考えれば「洗礼」がその意味になるでしょう。なぜならばメシアは神様のお心を実行するからです。洗礼を受けた者は神様のお心に生きるからであります。今朝のヨハネによる福音書はイエス様への油注ぎが示されているのです。
 イエス様はマルタさんとマリアさんの家に行きます。弟子達も一緒でありますので、夕食の接待は大変であったでありましょう。マルタさんは一生懸命に給仕をしています。同じような状況がルカによる福音書10章38節以下に記されています。そこでもマルタさんとマリアさんの家にイエス様が来られました。マルタさんは接待に忙しくしているのに、マリアさんはひたすらイエス様のお話を聞いているのです。そこでマルタさんはイエス様に、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようおっしゃってください」と言います。その時イエス様は言われました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」とイエス様は言われています。この部分と今朝の状況は似ているようです。相変わらずマルタさんはもてなしに忙しくしています。しかし、マリアさんは純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐったのであります。家の中は香油の香でいっぱいになったということです。
 マリアさんがイエス様に香油を注いだとき、弟子のイスカリオテのユダが、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と批判します。当時の世界では1デナリオンは一日分の生活費です。300日分の生活費を無駄にしていると言っているのです。聖書も記しているように、イスカリオテのユダは人間的な損得しか考えなかったのです。これは損得ではなく、マリアさんの信仰であることをイエス様は示しています。イエス様は言われました。「この人のするままにさせておきなさい。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と示されたのであります。まず信仰であると示しているのです。まず神様に委ねる、その様な生き方が求められているのです。この社会には、私達がしなければならないことがたくさんあります。だから私達はいろいろと心を寄せているのです。その様な状況でありますが、まず神様への信仰が大切であるということです。神様に自分をささげて生きるとき、自ずとしなければならないことが導かれて来るのです。私達の人生は損得を計算しながらの歩みではなく、神様に委ねつつ歩むことなのです。マリアさんのイエス様への香油注ぎは信仰であることを示しているのであります。
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「祝福へのお導き」は十字架にお架りになり、私達をお救いくださったイエス様を信じることであります。そのため、私達はいつも十字架を仰ぎ見つつ歩むこと、そこに祝福のお導きがあるということを今朝は示されているのです。損得の計算では人生の祝福はないということであります。本日の旧約聖書で、「メシア」を示しているのは、神様の御心に生きる姿として「メシア」を示しているのです。メシアに選任されながら、損得に生きたサウルの失格をも示していたのでした。十字架を仰ぎ見て生きる人生が祝福であるのです。
 先日、御教会の「創立60周年記念」としての「10年の歩み『略年誌』」をいただき、感謝しつつ拝読させていただきました。2005年から2015年までの歩みが記されていますが、資料としては創立時代からまとめられており、祝福の歴史を示された次第です。この記念誌には下里康子さんが「60年間を歩み続けた井戸幸代さんを偲ぶ」と題してご寄稿されているので拝読させていただきました。井戸幸代さんは三崎二葉保育園の初代園長、小沢一雄先生と出会い、保育園の調理師としてお勤めになったということです。お連れ合いを天に送り、三人のお子さんを育てながら、教会と共に人生を歩んで来られたということでした。保育園では子どもたちを見つめ、受け止めながらお働きになったということです。引用させていただきますと、「保育園には幾度も難しい困難な時代もありましたが、そんなときも、ひたすら保育園に通う子供一人一人を愛し、良く尽くされました。同僚の職員や当時の園児や家族の人々は、『井戸のおばちゃん』と呼び親しむ声は、今でも多くの町の人からも聞かれます」と下里康子さんは記されています。私は、もちろん井戸幸代さんについては存じ上げないのですが、下里さんのご寄稿を読ませていただき、井戸幸代さんの基とするところはイエス様の十字架であると示されたのであります。イエス様の十字架を仰ぐとき、自ずと人生が導かれて来るのであります。損得ではない、隣人を受け入れ、愛して生きる、そういう人生が導かれて来るのであります。
昨年の11月22日にはこちらの教会の伝道コンサートが開かれ、私共の娘がピアノの演奏をさせていただきました。今回、娘はスペイン人の連れ合い、イグナシオさんも連れての帰国であり、その彼もこちらの教会に来させていただきました。実は彼の叔母さんは保育園の調理師でした。子どもたちの食事を作ることが楽しかったと申しています。その保育園では、保育園の先生がお休みの場合、給食担当である彼の叔母さんが保育を担当するということでした。だから給食を担当しつつも、保育園の先生も兼ねる働きをしたと言うことです。保育園の先生がお休みの時、代替えの知らない先生より、子どもたちが良く知っている給食のおばさんが担当するということでした。この叔母さんのお連れ合いは、カトリック教会の元神父さんということでした。神父さんと言えば、結婚しないという理解がありますが、結婚しても良いのだそうです。しかし、結婚すると世俗の人になるわけですから、神父さんを辞める人がいます。しかし、結婚しても神父さんを続ける人がいます。続けることができますが、聖餐式の執行や、説教はできなくなるということです。神父さんの補助としてミサを司るようになるのです。一度、神父さんになった人は、やはりこの務めには使命が与えられていると思っているのです。娘の羊子の連れ合いの叔母さんにしても、お連れ合いの元神父さんにしても、やはりイエス様の十字架を見つめつつの人生が導かれていると示されました。
 生き甲斐のある人生、祝福の人生、その根源は主イエス・キリストの十字架を基とすることを示されたのであります。この十字架は、私に存在する自己満足、他者排除を滅ぼしてくださるのです。もはや損得の人生ではなく祝福の人生が導かれているということです。
<祈祷>
聖なる御神様。私たちに十字架の救いを与えてくださり感謝致します。いよいよ十字架を基として歩ませてください。イエス様の御名前によりおささげ致します。アーメン。