説教「しっかりとした人生」

2016年7月24日、三崎教会 
聖霊降臨節第11主日

説教、「しっかりとした人生」 鈴木伸治牧師
聖書、箴言9章1-11節 
    ヨハネによる福音書6章41-59節
讃美、(説教前)讃美歌21・361「この世はみな」
    (説教後)讃美歌21・437「行けども行けども」

 日本の国は、7月8月の暑さの中でお祭りが行われ、これからも各地で祭りのイベントが盛んになるようです。関西の祇園祭り、東京の三社祭り、東北の三大祭りが続いて行きます。今の時期は地域のお祭りが行われている状況です。私が住んでいる地域も前週の土曜、日曜日に祭りが行われました。祭りは地域のイベントでありますが、毎年、傍観者の存在でした。ところが今年度は地域の班長の役が回ってきて、地域の歩みに協力しなければならなくなりました。祭りは神社の行事であるとも言っていられないのです。地域は祭りの予算を組み、地域の活性化のために事業計画としているのです。祭りの当日は住んでいる地域に、提灯行列や神輿、屋台がやってきては休憩を取りますので、いろいろと接待しなければなりません。その打ち合わせをしたり、当日は接待やらで過ごすことになります。幸い、私は準備した会館の留守番役で、休憩している神輿や屋台の接待はしませんでしたが、地域に住んでいる以上、神社の行事に参加しなければならなくなります。
 大塚平安教会在任時代、良く皆さんから質問をいただきました。知人が亡くなってお葬式に出るのですが、キリスト者としてどのような姿勢で臨むべきかということです。仏教でお葬式が行われているなら、そのしきたりで行えばよいのですよ、と申していました。お焼香を上げたり、拝んだりしたからと言ってキリスト者にふさわしくないとは言えないのです。神道の場合は榊をささげながら手を打つわけですが、しきたりなのですから、そのようにしたら良いのです。キリスト教の葬儀の場合、お祈りしたり讃美歌を歌ったりしますが、列席している皆さんは仏教の人もいれば諸宗教の人もいるわけです。皆さんはキリスト教の葬儀のしきたりに従っているのです。キリスト教の皆さんほど仏教や神道の葬儀に列席することを気にしているのです。どのような状況に置かれましょうとも、信仰に生きる姿勢は変わりません。そこにしっかりとした人生が導かれているのです。
 最近、スペインでピアノの演奏活動をしている娘の羊子が、サグラダ・ファミリア教会の礼拝堂でリサイタルを開くにつけ羊子が演奏することになりました。今年はガウディ没後90年であり、グラナドス没後100年でありますので、記念のリサイタルを開催したのです。ガウディはサグラダ・ファミリアの建設者であり、グラナドスはスペイン音楽の巨匠と言われます。スペインが誇る人々です。会場は小礼拝堂でありますが、300人の席でありますが、立ち見や階段に座って聴く人も含めると500人は来場したということです。日本総領事館夫妻を始め著名な人々が来られたということです。そこで演奏したのですが、演奏中、教会の信者の方ですが、ピアノの周りをうろうろしていて気になったということです。そのうち、「喉が渇いた?水持ってこようか」と演奏中の羊子に話しかけたということです。羊子は無視して演奏を続けたのですが、誰もその人に注意したり、退場させたりはしなかったということです。主任神父さんも近くにいるのに、その人を見守っていたということでした。教会が主催しているリサイタルであることを深く示されました。一般の演奏会でしたら、すぐに退場させてしまうのではないでしょうか。演奏中、ピアノの周りをうろうろしていても、その人の存在を受け止めている教会の皆さんなのです。羊子もその様な人がいても平然と演奏を続けたということ、しっかりした人生であると示された次第です。
2.
 私達の人生には、チクチクとしたものが入り込むことがあります。良い場合、悪い場合がありますが、チクチクは多くの場合、人生の指針を与えているのです。旧約聖書箴言が示されています。箴言の箴は針という意味合いです。従って、箴言は針のようにチクリチクリと刺される言葉なのです。チクリといたく感じるのは、私たちが自分勝手に生きているからであり、その勝手なことに神様のお言葉が針のように刺さるのです。チクリとさされるのは神様の真理の言葉であるからで、人間の思いに対して、まさに痛い神様の御言葉なのです。そのように神様のお言葉の意義を示していますが、示していることは神様の知恵をいただくということです。神様のお言葉、すなわち知恵が人生をしっかりと導いてくれるのですよ、と示しています。「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた」と示されています。聖書で知恵というとき、神様の御心に導かれていることであります。神様の知恵が生活の基盤を造ってくれることを示しています。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」と示しています。神様のパンを食べること、飲み物を飲むこと、それが神様のみ言葉をいただくということですが、御言葉は人生のチクリであるということです。私の気持ちで生きているのですが、神様のみ言葉がチクリと刺し、しっかりとした人生へと導かれるのです。
 パンを食べること、飲み物を飲むこと、それは人間が生きるために基本的に必要なことであります。しかし、それは単に人間の肉体を養うパンと飲み物だけではなく、神様からのパンと飲み物こそ人を養うことであることは、聖書の一貫した示しなのであります。奴隷の国エジプトから脱出して荒れ野を旅するうちにも食べ物が尽きてしまいます。人々は指導者モーセに詰め寄り、この事態をどうしてくれるのだと言うのです。それに対して神様は人々にマナという食べ物を与えます。人々は肉鍋を思い返していたのですが、神様は新しい食べ物、マナという神様の御心の食べ物を与えたのです。飲み物にしても、飲む水がありません。そのときもモーセに詰め寄ります。そこでモーセは神様に示されるままに岩をたたきます。すると水が出てきて人々の渇きを潤したのでありました。この水は人々の喉を潤す水でありますが、神様の命の水でありました。パンと飲み物、神様の御心のパンと命に到る水、これが神様のチクリであります。日々の食事で、当たり前のようにいただいていますが、実は神様のチクリである思わなければならないのです。
 旧約聖書の中で、ダビデという立派な王様がいました。ダビデが名君であったので、後の人々は、再びダビデのような王様、救い主が現れることを待望しました。それが一つにはメシア待望の歴史にもなっていくのです。そのダビデの子どもがソロモンという王様でした。ソロモンが王様になったとき、神様はソロモンに「何事も願うがよい。あなたに与えよう」と言います。そのとき、ソロモンは神様にお願いします。「神なる主よ、あなたは父ダビデになさった約束を今実現し、地の塵のように数の多い民の上に、わたしを王としてお立てになりました。今このわたしに知恵を授け、この民をよく導くことができるようにしてください」とお願いするのです。神様は答えます。「あなたはこのことを望み、富も、財宝も、名誉も、敵の命も求めず、また、長寿も求めず、わたしがあなたを王として立てた民を裁くために、知恵を求めたのだから、あなたに知恵が授けられる」と御心を示したのでありました。知恵を求める生活は、神様のチクリをいただくことであり、神様のパンと飲み物を頂く生き方なのであります。日々、体を養う生活の食事と共に、神様のパンと飲み物を求め、いただきつつ歩む人生が祝福の人生なのであります。
 ソロモンは神様の知恵をいただき、国を支配しました。知恵は自分勝手に生きる人間にチクリを与えるということです。ある時、ソロモンにお裁きを求めて二人の女性がまいります。女性たちは一人の赤ちゃんを、それぞれ自分の子供であると主張しているのです。ソロモンは女性たちの訴えを判断することはできません。そこで家来に命じて、この赤子を二つに切り裂いてそれぞれの女性に与えなさい、と命じるのです。一人の女性は、開きなおって、そうしてくださいと言います。しかし、一人の女性は、もう私の子供だと言いませんから、切り裂くことはしないでくださいと懇願するのでした。そこで、ソロモンはこの女性がこの赤子の母親であるとの裁決を言い渡すのでした。日本で言えば、大岡裁きの様ですが、ここに神様の知恵があるのです。ソロモンの命令通り、この赤子を切り裂いてくださいと言った女性も、ソロモンのさばきはチクリと胸を刺されたでしょう。刺されながらも無視したということです。神様はときに応じて、私達の人生にチクリを与え、神様の知恵を与えておられるのです。
3.
神様のチクリを与えておられるのは主イエス・キリストであります。今朝の聖書、ヨハネによる福音書6章41節以下において、イエス様ご自身が証をしています。イエス様が「わたしは天から降ってきたパンである」と言われたので、人々はつぶやき始めます。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」と言うのです。それに対してイエス様は、「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われています。再び人々は疑問を持ちます。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに言い合うのでした。そのとき、イエス様は言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉は真の食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」と示されています。イエス様の肉を食べ、血を飲むということ、現実的には理解できませんし、どのようなことであるのか分りません。しかし、これはイエス様が十字架にお架りになることであります。十字架にお架りになる前に、イエス様は12人のお弟子さんたちと最後の夕食をいたします。最後の晩餐と言われています。その夕食で、お弟子さんたちにパンを配り、今後は私の体と思って食べなさいと言いました。そして、ぶどう酒の杯をまわしながら、今後は私の血であるとして飲みなさいと示されたのであります。その時、お弟子さんたちはその意味が分かりませんでしたが、イエス様が十字架にお架りになることによって、最後の晩餐の意味を知るようになるのです。そして、今に至るまで聖餐式として伝えられているのです。聖餐式でパンとぶどう酒をいただくことにより、イエス様が十字架によって私達の至らぬ生き方を正しく導くことを示され、イエス様の御心へと導かれるのであります。
 イエス様の御心、繰り返し教えられたことです。「あなたがたは自分を愛するように、隣人を愛しなさい」との御心であります。大変、良い、感銘深いお言葉であります。キリスト教に生きる人々は、このイエス様の教えに導かれているのです。大変、良い教えであると思っていますが、この教えが私達のチクリなのです。いろいろな人々と共に歩んでいますが、つい一人の存在を避けるようになり、自分の中から排除しているのです。その時、チクリと刺されます。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」とイエス様の御心が示されて来るのです。このチクリがあるから、私達は「しっかりとした人生」へと導かれているのです。
4.
チクリ、チクリと私達の胸をさすのはイエス様の御心ですが、その根源は主イエス・キリストの十字架の救いであります。私の奥深くにある自己満足、他者排除をイエス様はご自分の十字架の死と共に滅ぼされたのです。従って、私達は十字架を見つめるほどにイエス様による救いへと導かれるのです。十字架を見つめるほどに、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」というチクリの言葉が示されて来るのです。チクリをいつもいただきながら歩むとき祝福の人生であり、永遠の生命へと導かれて行くのです。十字架を見つめつつ歩みましょう。見失うことなく十字架を求めて、仰ぎ見つつ歩みたいのであります。
 O・ヘンリーという人が「最後の一葉」という短編小説を書いています。ニューヨークの町に悪性の肺炎が流行します。画家志望の女性・ジョンジーも肺炎にかかってしまいます。だんだん重くなっていくのです。窓越しに隣の家の壁に蔦がはっており、その蔦の葉っぱが毎日落ちていくのです。ジョンジーは毎日落ちていく葉っぱを数えています。そして、あと四枚しか残っていませんでした。あの葉っぱが全部落ちたら自分の命もなくなると思っています。ジョンジーと同室のスウは、この家の地下室に住む絵描きのベールマン老人に、ジョンジーの情況を話します。葉っぱが全部落ちたら自分も死ぬとジョンジーが思っているということです。冷たい雨が降り、風が強く吹く夜でした。翌朝、ジョンジーはスウに窓を開けるように求めます。スウはこの窓を開ければ、もはや一葉もない蔦の木を見ることになるので、躊躇するのですが、恐る恐る窓を開けました。ところが、昨夜の激しい雨と風にもかかわらず、隣の家の壁に蔦の葉っぱがしっかりとへばりついているのです。「最後の一葉だわ」と言ってジョンジーは喜びました。次の日、再び北風が吹きましたが、最後の一葉は落ちませんでした。ジョンジーは希望を与えられ、回復したのでした。しかし、ベールマン老人が肺炎で死んでしまうのです。実は激しい雨と風で蔦の最後の一葉が落ちたとき、ベールマン老人は隣の家の壁に激しい雨と風の中ではありましたが、蔦の葉を書いたのです。最後の一葉は落ちることなく、いつまでも掲げられていたのです
 私達の前に掲げられている十字架は何があろうとも消えません。十字架を仰ぎ見つつ歩む私たちは、イエス様のチクリが与えられ、「しっかりとした人生」が導かれるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の御心を与えられ感謝いたします。イエス様の御心により、しっかりとした人生を歩ませてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。