説教「神の国にふさわしく」

2019年8月11日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第10主日



説教・「神の国にふさわしく」、鈴木伸治牧師
聖書・ 列王記上19章9~21節

   ペトロの第一の手紙3章13~22節
   ルカによる福音書9章51~62節
賛美・(説教前)讃美歌21・469「善き力にわれかこまれ」、
   (説教後)讃美歌21・527「み神のみわざは」

 聖霊降臨節第10主日を迎えていますが、今週の8月15日は日本の敗戦記念日であります。8月15日になると敗戦記念日として迎えていますが、最近は遠のく戦争であり、忘れかけているのではないかと思います。実際、私自身は1945年に戦争が終わり、翌年の4月に小学校1年生になりました。戦争中を生きた者ですが、戦争の体験はありません。今住んでいる家で戦争中を過ごしていますが、空の上をアメリカの爆撃飛行機が横浜、東京方面に飛んでいく様子、そして横浜方面の空が赤くなっていたことが思い出されます。その頃、小学生は学童疎開をさせられました。私はまだ小学生ではありませんでしたので学童疎開はしませんでしたが、3歳年上の兄は姉と共に神奈川県の松田の地に学童疎開していました。敗戦と共に帰ってきました。栄養失調であり、肺炎を患い死んで行ったのです。
 痛ましい戦争の経験は、兄を失ったことでありますが、この六浦の地区は戦争の被害はなかったのです。しかし、都会における戦争の爪あと、また敗戦後の食糧事情の悪化など、やはり戦争の苦しさ、悲しさを経験しているのです。その意味でも8月15日は私にとっても大切な意味があります。しかし、戦争を知らない人々が多くなっている今、8・15よりも今は自然災害が重くのしかかり、8・15を忘れさせているのです。被災地の人々は愛する者を失い、家を失い、思いもかけなかった環境で生活しなければならない状況です。福島原発の事故が、震災の恐ろしさをいつまでも引きずっているのです。頼りにしていた原子力発電が、一変して死の恐怖をもたらすようになっています。放射能汚染で食生活に支障きたしており、もはや放射能の汚染が無くなりつつあっても風評被害が今でもあるのです。韓国では今も東北の物産は輸入してないのです。東北関東大震災の後、日本全国で「がんばろう日本」の合言葉を掛け合いながら歩んでいましたが、今は、その言葉はあまり聞かれなくなっています。
 この時、私達は聖書が示す「がんばろう」の基を示され、苦難に生きる信仰を与えられ、希望を持って歩みたいのであります。何よりもこの状況に神様が御心を与えていることを知らなければならないのであります。

 苦難の中に生きる時、神様の導きの声を聞いたのは預言者エリアでした。エリアはアハブ王とその妻イゼベルによって命を狙われている状況です。イスラエルの王様なのに偶像の神バアルの前に跪くことをしていました。それで神の人とも言われ、預言者エリアは厳しく非難するのでした。アハブ王はエリアを無きものにしょうとしていたのです。今朝の聖書は王の妻イゼベルから、「お前の命は明日までだ」との手紙を受けたエリアが逃亡するのですが、そのエリアを導く神様が示されています。イゼベルがエリアを殺す手紙をよこすのは、その前の事件がありました。王の公認であるバアルの預言者達との戦いがありました。エリアはアハブ王にバアルの預言者をカルメル山に集めさせます。450人のバアル預言者、400人のアシェラの預言者がカルメル山に集結し、まことの神の人、預言者エリアと対決するのです。エリアは提案します。「それぞれの祭壇に薪とその上に供え物の雄牛を乗せておく。その上でそれぞれの神の名を呼ぶ。まことの神はその薪に火をつけるはずだ」というのです。まずバアルとアシェラの預言者達は自分達の祭壇の周りで踊りながらそれぞれの神の名を呼ぶのです。朝から昼までバアルとアシェラの神の名を呼びますが、祭壇の薪に火がつくことはありませんでした。彼らは自分の体を傷つけながらも偶像の神の名を呼び続けるのでした。しかし、もちろん薪に火がつくことはありませんでした。それに対してエリアは民衆を傍に呼び寄せ、祭壇と薪、供え物に水をかけさせます。祭壇は水浸しになります。水浸しの薪には到底火がつかないと人々は思う訳です。その時、エリアは神の名を呼びました。すると主の火が降って、ささげもの、薪、溢れた水をすべて飲みつくしたというのです。これを見たすべての人々は、「主こそ神です」と告白するのでした。
 この事件はアハブ王と妻イゼベルの怒りを爆発させ、「お前の命は明日までだ」との手紙がイゼベルからエリアに送られたのでした。エリアは逃亡しますが、もう死んでも良いと思うほど弱音を吐いています。しかし、弱音を吐くエリアを励まし、ついに神の山と言われるホレブ山に導くのでした。洞窟の中に隠れているエリアに対して、「エリアよ、ここで何をしているのか」と神様の声が聞こえてきます。そこでエリアは、アハブとイゼベルから逃れていることを申し上げます。それに対して、神様は道を引き返すように言うのです。そして、神様が示す人々に油を注ぎなさいと命じるのでした。油を注ぐというのは、神様の御心に生きるということです。エリアによって油注がれた人々が、偶像に仕えるアハブ王と妻イゼベルに対抗することになるのです。
 エリアから油を注がれた者の中にエリシャが居ました。このエリシャが神の人、預言者エリアの後継者になるのです。旧約聖書は苦難に生きる信仰を示しているのです。この苦難の状況に、神様が導きを与え、将来的にも導きを与えていることを示しているのです。今日の聖書には、「わたしはイスラエルに7千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」と神様は言われたのです。偶像にひざまずくアハブ王とイゼベルに対して、残りの者に希望があることを示しているのです。

 ところで「神の国にふさわしく」との題で御言葉を示されていますが。「ふさわしい」とはどのようなことでしょうか。今が苦難の時代ということは、大震災により被害を受け、愛する者を失った悲しみであり、原発事故による深刻な状況がある中で「ふさわしく」歩むのです。全体的な苦難と共に、個人的な苦難があります。病気、いじめ、孤独等、個人として苦しみつつ生きなければなりません。
 主イエス・キリストも苦難の人でした。今朝の聖書はルカによる福音書9章51節以下の示しです。「サマリア人から歓迎されない」との標題がついています。「イエスは、天にあげられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と記されています。都エルサレムに向かうということは、十字架への道であることを知っておられます。いよいよ救いの完成を目指して前進して行くのです。そういう姿勢に対しては人々から排除されます。人々の考えとは異なるからです。まずサマリアの町に行こうとしますが、町の人々はイエス様を拒否しています。サマリア人は外国人になります。エルサレムに対しては反感を持っているのです。そのエルサレムに行くというイエス様を拒否している訳です。それに対してお弟子さん達は、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言うのです。イエス様はそのようなことはしません。人々から排除されるままにしておられるのです。御心をいただいて「ふさわしく」歩んでいるのです。
 このようなことがあって、道を進んでいると、人々がイエス様に従いたいと申し出ます。その時、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところがない」と言われました。つまりイエス様に従うことは家の中でくつろぐということではないということ、単にイエス様の教えを喜ぶことではないということを示しているのです。イエス様に従いますという人が、「まず、父を葬りに行かせてください」と言ったことに対して、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言い、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われています。「死んでいる者たち」とは、イエス様によれば神様の御心を無視している人達なのです。神様の御心をいただいて生きることが「ふさわしく生きる者」なのです。だから、神様の御心から離れてしまっているこの社会にあって、「神の国を言い広める」ことこそ、イエス様のお弟子さんであるのです。別の人は「まず家族にいとまごいに行かせてください」と言いました。それに対して、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくないと」と言われています。旧約聖書では、エリシャがエリアの弟子になる時、家に帰り、近所の人たちの別れの宴会までしているのです。エリシャは牧畜を営む人でした。エリアから弟子になるようにと言われた時、牧畜道具を燃やしたと記されています。いとまごいに家に帰りましたが、現状を消し去ってエリアに従ったのです。「鋤に手をかける」とは、牛の背中に装具を付けて働き始めることなのです。働き始めながら、後ろを振り返るということは、いつまでも今までのことに未練を持つことなのです。イエス様は未練を断ち切りなさいと示しています。そして、ここでも「神の国」を示しています。神の国は、現実において神様の御心を喜びつつ生きるということなのです。今までの歩みの中には神の国はないということです。主イエス・キリストに従うということは、どのような状況でありましょうとも、その現実を神の国として「ふさわしく」生きるということなのです。
 主イエス・キリストの御心に従って生きるということは、苦難が伴います。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との掟を守るからです。自分との戦いがあります。社会の中で孤立することもあるのです。しかし、私達たちの原点は主イエス・キリストの十字架による救いであります。救われた喜びがありますから、現実を神の国として「ふさわしく」生きることができるのです。

 私達は苦難に生きる時にも希望の十字架があるということです。どのような苦難の中にありましても、死に至る状況でありましょうとも、十字架を見つめつつ生きる恵みを与えられています。どのような状況であっても、十字架を仰ぎ見る歩み、それが「神の国にふさわしく」歩むことなのです。
 O・ヘンリーという人が「最後の一葉」という短編小説を書いています。ニューヨークの町に悪性の肺炎が流行します。画家志望の女性・ジョンジーも肺炎にかかってしまいます。だんだん重くなっていくのです。窓越しに隣の家の壁に蔦が張っており、その蔦の葉っぱが毎日落ちていくのです。ジョンジーは毎日落ちていく葉っぱを数えています。そして、あと四枚しか残っていませんでした。あの葉っぱが全部落ちたら自分の命もなくなると思っています。ジョンジーと同室のスウは、この家の地下室に住む絵描きのベールマン老人に、ジョンジーの情況を話します。葉っぱが全部落ちたら自分も死ぬとジョンジーが思っているということです。冷たい雨が降り、風が強く吹く夜でした。翌朝、ジョンジーはスウに窓を開けるように求めます。スウはこの窓を開ければ、もはや一葉もない蔦の木を見ることになるので、躊躇するのですが、恐る恐る窓を開けました。ところが、昨夜の激しい雨と風にもかかわらず、隣の家の壁に蔦の葉っぱがしっかりとへばりついているのです。「最後の一葉だわ」と言ってジョンジーは喜びました。次の日、再び北風が吹きましたが、最後の一葉は落ちませんでした。ジョンジーは希望を与えられ、回復したのでした。しかし、ベールマン老人が肺炎で死んでしまうのです。実は激しい雨と風で蔦の最後の一葉が落ちたとき、ベールマン老人は隣の家の壁に激しい雨と風の中ではありましたが、蔦の葉を書いたのです。最後の一葉は落ちることなく、いつまでも掲げられていたのです
 私たちの前に掲げられている十字架は何があろうとも消えることはありません。十字架を仰ぎ見つつ歩む私たちは希望が導かれてくるのです。どのような状況にありましょうとも、十字架を仰ぎ見ることは「神の国にふさわしく」歩むことができるのです。神の国に生きるということは、日々、希望の歩みなのです。
<祈祷>
聖なる神様。主の十字架により、苦難のさなか導いてくださり感謝いたします。十字架を仰ぎみつつ歩ませてください。キリストによって祈ります。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com