説教「苦難が土台となり」

2015年7月26日 六浦谷間の集会
聖霊降臨節第10主日

説教・「苦難が土台となり」、鈴木伸治牧師
聖書・列王記上19章19-21節
    ペトロの信徒への手紙<一>3章13-22節
     ルカによる福音書9章51-62節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・177「かみのいきよ」
    (説教後)讃美歌54年版・398「わがなみだ」


 スペインにはバルセロナ日本語で聖書を読む会という集いがあり、月に一度でありますが、バルセロナに在住する日本人の皆さんが礼拝をささげ、祈祷会をしています。過去三回、バルセロナに滞在し、聖書の会で説教をさせていただきました。もう一ヶ月前になりますが、6月25日がバルセロナ日本語で聖書を読む会の礼拝でした。それで、初めての試みですが、ネットを通して私が説教をさせていただいたのです。iPadFaceTimeという画面を見ながらお話しができる装置があります。これを利用して、両方でiPadを立ち上げ、短い奨励をさせていただきました。それから一ヶ月、毎月第四木曜日に集会を開いているようでありますが、前週の7月23日に開かれました、毎年、7月の集会は信仰に関わるDVDを鑑賞しているということでした。今回は映画「100歳の少年と12通の手紙」を鑑賞されたのでした。実はこの映画を鑑賞することになったのは、昨年10月21日から1月8日までバルセロナに滞在したのですが、11月20日の聖書の会の礼拝説教をさせていただいた際、説教の中でこの映画を紹介したのでした。「命の収穫」との題でした。10歳の少年が、白血病で入院していますが、間もなく終わる自分の命を知ることになるのです。しかし、出あったローズと言う、元女子プロレスラーで、気性も荒いのですが、白血病の少年オスカーを見つめて過ごすうちにも、一人の存在を見つめて生きる優しい人へと導かれて行くのです。オスカーも最初は神様を否定していましたが、自分のために十字架に架けられたイエス様を知るようになり、新しい命を与えられて天国へと導かれて行くのでした。この度、バルセロナ日本語で聖書を読む会の中心となっている下山由紀子さんからメールをいただき、DVDを鑑賞して、聖書を読んで締めくくりたいので、ふさわしい聖書をお知らせくださいということでした。それで、二つの聖書をお知らせしました。少年オスカーを中心に示されるならばルカによる福音書23章32-38節です。ここでは十字架上のイエス様が、共に十字架につけられている罪人に、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。苦しみの中にあって、共に楽園へと導かれることを示したのでした。そして、ローズを中心に示されるならば、マタイによる福音書25章31-40節であります。社会の中で、いと小さき、また世の片隅に生きている人々と共に生きることが祝福であると示されるのです。
 ここまでお話しすると、これで説教になってしまいますが、今朝の聖書は「苦難の共同体」とのテーマですから、御言葉に導かれたいのであります。

 苦難の中に生きる時、神様の導きの声を聞いたのは預言者エリアでした。エリアはアハブ王とその妻イゼベルによって命を狙われている状況です。イスラエルの王様なのに偶像の神バアルの前に跪くことをしていました。それで神の人とも言われ、預言者エリアを無きものにしょうとしていたのです。今朝の聖書は王の妻イゼベルから、「お前の命は明日までだ」との手紙を受けたエリアが逃亡するのですが、そのエリアを導く神様が示されています。イゼベルがエリアを殺す手紙をよこすのは、その前の事件がありました。王の公認であるバアルの預言者達との戦いがありました。エリアはアハブ王にバアルの預言者をカルメル山に集めさせます。450人のバアル預言者、400人のアシェラの預言者がカルメル山に集結し、まことの神の人、預言者エリアと対決するのです。エリアは提案します。「それぞれの祭壇に薪とその上に供え物の雄牛を乗せておく。その上でそれぞれの神の名を呼ぶ。まことの神はその薪に火をつけるはずだ」というのです。まずバアルとアシェラの預言者達は自分達の祭壇の周りで踊りながらそれぞれの神の名を呼ぶのです。朝から昼までバアルとアシェラの神の名を呼びますが、祭壇の薪に火がつくことはありませんでした。それに対してエリアは民衆を傍に呼び寄せ、祭壇と薪、供え物に水をかけさせます。祭壇は水浸しになります。水浸しの薪には火がつかないと人々は思う訳です。その時、エリアは神の名を呼びました。すると主の火が降って、ささげもの、薪、溢れた水をすべて飲みつくしたというのです。これを見たすべての人々は、「主こそ神です」と告白するのでした。
 この事件はアハブ王と妻イゼベルの怒りを爆発させ、「お前の命は明日までだ」との手紙がイゼベルからエリアに送られたのでした。エリアは逃亡しますが、もう死んでも良いと思うほど弱音を吐いています。しかし、弱音を吐くエリアを励まし、ついに神の山と言われるホレブ山に導くのでした。ホレブはシナイ山でもあります。洞窟の中に隠れているエリアに対して、「エリアよ、ここで何をしているのか」と神様の声が聞こえてきます。そこでエリアは、アハブとイゼベルから逃れていることを申し上げます。それに対して、神様は道を引き返すように言うのです。そして、神様が示す人々に油を注ぎなさいと命じるのでした。油を注ぐというのは、神様の御心に生きるということです。エリアによって油注がれた人々が、偶像に仕えるアハブ王と妻イゼベルに対抗することになるのです。
 エリアから油を注がれた者の中にエリシャが居ました。このエリシャが神の人、預言者エリアの後継者になるのです。エリシャはかなり豊かな生活をしていたようです。エリアがエリシャに自分の外套を投げかけました。これは弟子の選任の意味があります。するとエリシャは、エリアに従う前に家に帰り、母に分かれを告げ、人々に振る舞いの宴会を開いているのです。そのようにして、いよいよエリアに仕えることになるのです。
旧約聖書は苦難に生きる信仰を示しているのです。この苦難の状況に、神様が導きを与え、将来的にも導きを与えていることを示しているのです。今日の聖書には、「わたしはイスラエルに7千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」と神様は言われたのです。偶像にひざまずくアハブ王とイゼベルに対して、残りの者に希望があることを示しているのです。

 ところで「苦難が土台となり」との題で御言葉を示されていますが、「苦難」とはどのようなことでしょうか。今が苦難の時代ということは、すぐる自然災害により被害を受け、愛する者を失った悲しみであり、政治的にも進路を決める深刻な状況があるからです。そして戦争という現実が世界に巻き起こされているからです。こうした全体的な苦難と共に、個人的な苦難があります。病気、いじめ、孤独等、個人として苦しみつつ生きることです。全体の中で、異なった生き方をすることにより、社会の中から除外されて行くということがあります。それがいじめということですが、全体的社会の生き方に対して、異なった生き方に対する社会の審判があるということです。旧約聖書のエリアの場合、王の支配から外れる生き方をしているエリアは社会から除外されたのです。しかし、エリアは神様の力を実証することにより、社会の人々はエリアに対する考えを変えることになったのです。
 主イエス・キリストは苦難のさなかを歩みました。イエス様が道を進んでいると、人々がイエス様に従いたいと申し出ます。その時、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところがない」と言われました。つまりイエス様に従うことは家の中でくつろぐということではないということ、単にイエス様の教えを喜ぶことではないということを示しているのです。イエス様に従いますという人が、「まず、父を葬りに行かせてください」と言ったことに対して、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言い、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われています。ユダヤ教の社会です。「あなたの父と母を敬いなさい」との十戒の教えがあり、厳格に守ることが求められています。それを否定しているのです。「死んでいる者たち」とは、イエス様によれば神様の御心を無視している人達なのです。神様の御心をいただいて生きることが「生きた者」なのです。だから、神様の御心から離れてしまっているこの社会にあって、「神の国を言い広める」ことこそ、イエス様のお弟子さんであるのです。別の人は「まず家族にいとまごいに行かせてください」と言いました。それに対して、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくないと」と言われています。旧約聖書では、エリシャがエリアの弟子になる時、家に帰り、近所の人たちの別れの宴会までしているのです。エリシャは牧畜を営む人でした。エリアから弟子になるようにと言われた時、牧畜道具を燃やしたと記されています。いとまごいに家に帰りましたが、現状を消し去ってエリアに従ったのです。「鋤に手をかける」とは、牛の背中に装具を付けて働き始めることなのです。働き始めながら、後ろを振り返るということは、いつまでも今までのことに未練を持つことなのです。イエス様は未練を断ち切りなさいと示しています。そして、ここでも「神の国」を示しています。神の国は、現実において神様の御心を喜びつつ生きるということです。主イエス・キリストに従うということは、どのような状況でありましょうとも、その現実を神の国として生きるということなのです。
 主イエス・キリストの御心に従って生きるということは、苦難が伴います。自分との戦いがあります。社会の中で孤立することもあるのです。しかし、私達たちの原点は主イエス・キリストの十字架による救いであります。救われた喜びがありますから、現実を神の国として生きることができるのです。

 先ほども映画「100歳の少年と12通の手紙」について紹介しましたが、私たちも改めて物語を思い起こしておきましょう。
オスカーという少年は10歳ですが、白血病で病院にいます。オスカーに対して両親もお医者さんも婦長さんも、何かを隠しているように感じるようになります。だからオスカーは大人たちの言動に不信感を抱くようになり、誰とも口を利かなくなるのです。ある時、オスカーはピザ屋のローズと出会います。ピザを配達に来たローズとぶつかってしまい、ローズは持っていたピザを廊下に落としてしまいます。ローズは口汚い言葉でオスカーを叱ります。しかし、オスカーはローズが真実に自分の気持ちを投げかけたので、気持ちがローズに向くのです。オスカーは主治医にローズを呼んでくださいと頼みます。主治医にしても婦長さん達も知らなかったのですが、どうやらピザを配達に来る人であると分かり、彼女を呼ぶのです。主治医からオスカーの様子を聞き、ぜひ話し相手になってほしいと頼まれますが、ローズは家族でもない子どもであり、死にゆく子どもの相手などできないと断ります。しかし、主治医のたっての願いで、ついにローズはオスカーの病室に入るのでした。ローズは元女子プロレスラーでした。オスカーはローズから12日間面会を許されたと聞き、自分の命を悟るのです。悲しみのどん底にいるオスカーに、ローズは故郷の言い伝えを話しました。「一日を10年と考えて生きようね。そして、毎日神様に手紙を書こうね」と勧めるのです。オスカーが手紙を書くと、ローズは病院の庭に出て、風船に手紙をつけ空に飛ばすのでした。病室から天国の神様に飛んでいく手紙を見つめるオスカーでした。オスカーは神様を否定していました。それでは神様に会わせてあげると言い、ローズは病院に分からないようにオスカーを連れ出し教会に連れて行きました。礼拝堂の正面には十字架のイエス様が置かれていました。それを見たオスカーは、苦しんでいるイエス様は神様ではないと言います。あなたのために苦しんでいるのだとローズ。神様にはおもちゃや自動車のようなものをお願いするのではなく、勇気や忍耐をお願いするの、ときっぱり言われるのです。オスカーは手紙を書くうちに神様を信じるようになって行くのです。1日を10年と数えはじめて10日を経ました。つまり100歳になっていました。そして、オスカーは静かに天国へと召されていったのです。その10日目には2通の手紙が書かれており、ローズは二つの風船に手紙を結び付けて天国へと送ったのでした。
 10日間は100年にも値するほど大切な日々でした。何よりも神様に心を向けながら、生きている証しを示されながら、力強く生きたのです。まさに神様は生きている者を導く方なのです。元女子プロレスラーのローズは気性の荒い人でしたが、小さな少年が命を見つめて生きており、自分が少年と共に生きるようになって変えられていきました。ひとりの存在を見つめることは、神様の御心が示されてくるということ、奇跡が起こるということ、周囲の者まで変えていくということを、この映画は示していたようです。小さな存在、弱い存在を見つめ、受け止めることは、自分が変えられていくということです。自分の苦しみを率直に手紙に書きました。今の状況をそのまま書きました。神様に向かっての短い命でありました。また、12通の手紙にも意味があります。12は聖書の聖なる数字とされているからです。神様の御心にある12通の手紙ということになるのでしょう。
 今、現実に苦しみがある。悲しみがある。その状況を神様に申し上げることです。私が生きているから、私を導いてくださるのです。死んでから天国に導かれることでありますが、現実に生きているからこそ、神様に心を向けるのであります。
イエス・キリストは十字架にお架りになりました。そのイエス様のご苦難が私達の生きる土台となっているのです。今生きている現実の生活において、苦難がある。それが私たちの土台となっているのです。その土台から豊かな祝福が導かれて来るのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の十字架の苦難は私達の土台です。信仰が苦難になっても、その苦難を信仰の土台とさせてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン。