説教「神様の御心の働き人」

2015年7月19日 六浦谷間の集会
聖霊降臨節第9主日

説教・「神様の御心の働き人」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨシュア記2章6-14節
    フィリピの信徒への手紙4章2-7節
     ルカによる福音書8章1-3節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・168「イエス君の御名に」
    (説教後)讃美歌54年版・369「はたらきびとに」


本日は早くも7月19日になります。早くもと言っていますのは、昔の幼稚園の園長時代を思いつつ、月日の経つことの早さを示されているのです。4月の始めに幼稚園の入園式があります。新しく入園した子どもたちは、すぐに園生活に慣れて、楽しく遊ぶ子どもたちですが、なかなか園の生活が慣れなくて、しきりにお母さんを呼び求める子どもたちがいます。幼稚園では「聖歌隊の季節」と称していました。幼稚園に登園したものの、お母さんが恋しくて、門の手すりにつかまって声を上げて泣いているのです。その様な子どもが数人いて、あたかも聖歌隊の合唱をしているようです。もちろん、側には先生がいて、何かと話しかけているのですが、なかなか門から離れようとしないのです。そんな状況も5月にもなると、聖歌隊の存在はなくなり、ホールでは元気よい子どもたちの声が聞こえてきます。5月の終わり頃には親子の遠足がありました。遠足と言っても近くの公園に遊びに行くのです。それでも相鉄線の「さがみ野駅」から「大和駅」まで電車に乗り、それから歩いて「泉の森公園」に行くのです。その他、大和公園に行くこともあり、二俣川の万騎が原公園、綾瀬市の城山公園に行くこともありました。6月も半ば過ぎになりますとプール遊びが始まります。親子の体操遊びがあり、その日にはお父さん達に手伝ってもらって組み立てプールを設置します。そしてすぐに7月となり、夏休みを迎えるのでした。この頃になるとホッとした思いになります。とにかく一学期を担ったという思いなのです。
 ようやく夏休みとなるのですが、だからと言って休んでもいられません。教会に集まる子どもたちの教会がサマーキャンプを計画しています。郊外に出かける場合もありますが、教会と幼稚園を会場に開催することもあります。どちらにしても5月、6月頃から準備が始まっており、子供の教会に関わる皆さんは大変でもあります。教会や幼稚園で開催する場合、教会の婦人会の皆さんに食事を担当していただくこともあります。皆さんはそれぞれご自分の生活がありますが、時間を提供してお手伝いくださるのです。教会は中心が主イエス・キリストであり、教会に導かれている人々は、イエス様の御心に示されながら、奉仕をするのであります。6月28日は前任の大塚平安教会が新会堂を与えられましたので、献堂式が行われました。もちろんお祝いに出席しました。教会の皆さんはそれぞれ分担してご奉仕されていました。本当に教会の皆さんはご自分の家庭の生活がありますが、教会の歩みのために時間をささげて奉仕されているのです。イベントがあればそれぞれ分担して奉仕をいたしますが、積極的にご奉仕される皆さんがおられます。毎年、秋にはバザーが開かれますが、月に一度「お仕事会」と称して、手芸等の製作をしています。ご自分ができる特技をささげて、奉仕をされているのです。教会はこのように皆さんのご奉仕により、歩みが導かれているのです。
 本日の聖書は「女性の働き」とのテーマになっていますが、女性に限らず、すべての人々が「神様の御心の働き人」として導かれていることを示されたいのであります。

 本日は「女性の働き」として、特に信仰における「女性の働き」を示されようとしています。しかし今の時代、女性の働きは、この社会の中で普通になっています。日本でもいろいろな場において女性が進出しており、改めて「女性の働き」をとり上げなくても良いのです。しかし、日本においてはまだまだ女性の働き場が少ないとされています。国会議員の中には女性が少ないと言われています。国会ばかりではなく、社会全体の中で、女性が遅れをとっている日本の現状の様です。しかし、散歩していると、女性の郵便配達の人がバイクに乗っている姿を見ますし、タクシー運転手も結構女性ドライバーを見かけます。本当は、その様なことを言う必要はないのです。一人の人間として、それぞれの生き方があるということです。ことさら「女性」と言わなくても、すべての人が共に生きることが大切なのであります。
 旧約聖書ヨシュア記であります。聖書の人々は400年間、エジプトの国で奴隷の苦しみを生きてきました。神様はモーセを立てて奴隷の人々を解放したのであります。モーセに率いられて神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地を前にして、モーセの使命は終わり、若き指導者ヨシュアに委ねられたのであります。ヨシュアに率いられて約束の土地を進むうちにも、エリコの町を通過しなければならないのです。それでヨシュアは二人の斥候によりエリコの町を探らせるのでした。聖書の時代も、絶えず戦いがあります。町を皆殺しにするという、残酷なことも記されています。それを聖戦というのですから、理解に苦しむわけです。しかし、この時代は生き残ることが目的ですから、立ちはだかる存在を退けなければならないのです。生き残るために神様の御心が示され、御心に従って歩むのが聖書の人々なのです。
 二人の斥候がエリコの町に入ったことは、エリコの指導者達に伝わります。二人の斥候は遊女と言われるラハブの家に入ります。ラハブは斥候がイスラエル人であることを知っていました。そして、ラハブは神様がイスラエル人を導き、奴隷から解放し、紅海の奇跡を通して海を渡らせ、通過する民族との戦いに勝利したことを知っていました。従って、神様はこのエリコの町をもイスラエル人に渡されると思っていたのです。そのため、斥候をかくまい、探しに来たエリコの兵隊に偽りを述べて、二人の斥候を助けたのでした。その後、イスラエル人はこのエリコを攻め落とすのですが、ラハブと親族は助けられたのです。ラハブが二人の斥候をかくまい、エリコの兵隊をやり過ごし、二人を逃がしたことは、神様の御心に仕えたということになるのであります。神様の御心に仕えたということになります。その仕える生き方が神様に祝福されます。ラハブはイスラエル人のサルモンと結婚し、ボアズを産みます。ボアズはルツと結婚します。つまり人間的に言えばイエス様の家系の一員に加えられたということです。ラハブもルツも外国人ですが、イエス様の家系の一人なのです。いずれも女性たちは神様の御心に仕えたからであります。
 聖書における女性の働きとして、実は6月28日の説教で示されています。マタイによる福音書の最初に系図が記されています。その系図の中にタマル、ラハブ、ルツ、マリアの名が記されていますが、女性達でした。つまりイエス様に至る系図の中にも女性たちが、神様の御心を力強く生きたことが示されているのでした。この女性たちの働きの一人としてラハブが神様の御心に生きる姿を示されたのでした。

 ヨーロッパの現地人、ゲルマン人ガリア人を征服しつつローマの支配を広げて行ったのはユリウス・カエサルでした。ローマはもともと共和制であり、一人の支配者ということではありませんでした。従って、カエサルは皇帝ではなかったのです。しかし、カエサルは共和制ではなく、皇帝としての支配を求めていたのです。道半ばにしてカエサルは暗殺されてしまいますが、後継者になったのがアウグストゥスでした。アウグストゥスの時代も共和制でありましたが、次第に皇帝としての位置付けを持つようになるのです。このアウグストゥスが初代の皇帝になったということです。「アウグストゥスは全世界の救い主」とまで言われ、「アウグストゥスの平和」とまで言われたのです。このアウグストゥスの時代に主イエス・キリストが現れたことをルカによる福音書は証言しています。アウグストゥスが救い主であり、平和の根源として人々から言われている中で、真の救い主、真の平和の根源として主イエス・キリストの出現を聖書は証しているということです。そのアウグストゥスは紀元14年に死にます。そして第二代の皇帝としてティベリウスが就任します。イエス様は33歳で十字架にかけられるのですが、このティベリウスの時代でありました。ユダヤの国はこの後、ローマに対して反旗をかかげるようになり、紀元70年に滅ぼされることになります。アウグストゥスの救い主とイエス様の救い主を、象徴的にルカによる福音書は示しているということです。
 今朝のルカによる福音書は、イエス様が「神の国」を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けておられることが記されています。そして、イエス様には多くの女性たちも従い、自分達の持ち物を出し合って奉仕したことが記されています。ルカによる福音書8章1節に、「すぐその後」と記されていますが、「その」とは前の段落で、一人の女性がイエス様によって祝福されたことです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と女性を祝福したのです。この女性はイエス様に救いを求め、全身でイエス様に近づいたのです。この女性に祝福をお与えになるや、イエス様はすぐに「神の国」の福音を人々に宣べ伝える為に、その場を後にしたのでした。
 先ほども触れましたが、ローマはカエサルアウグストゥスによって平和が訪れたとして彼らを尊敬し、彼らを「救い主」と称したのでした。彼らがローマの平和国家を作り上げたからです。しかし、その平和国家は権力であり、真の平和というものではありません。主イエス・キリストの「神の国」の実現こそ、真の平和な世界なのであります。
 「神の国」は死んで彼方の国、天国という意味ではなく、この世に生きている今、祝福のうちに生きるということです。今の状況はどのような状況なのか、苦しい状況です。放射能を絶えず心配しなければなりません。いつ自然災害が起きるかもしれない心配があります。それでも今、「神の国」を生きていると言えるのでしょうか。言えるのです。主イエス・キリストの「神の国」は「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との教えを持って生きることです。一人の存在を受け止め、共に生きることです。他者を受け止めつつ生きることがどんなに祝福であるか、実践しつつ示されて来るのです。従って、「神の国」に生きるとき、状況的には苦しみの最中かもしれません。悲しみの中にあるのかもしれません。決して楽しくはない、そのような状況でありましょうとも、イエス様の福音を信じて生きることが「神の国」に生きていることなのです。
この福音を携えて町や村を巡っておられる主イエス・キリストに多くの婦人たちが従い、奉仕していたのです。イエス様によって悪霊を追い出していただいた婦人たちだとも言われます。悪霊に悩まされるということは病気でもありました。病気が癒されてイエス様に従っていたのです。マグダラのマリアが、今朝の聖書の前に記されている「罪深い女性」であるかは定かではありません。ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナであり、他の女性たちでした。この女性たちはイエス様の「神の国」の福音の奉仕者として働いた人たちですが、最後までイエス様に従っているのです。主イエス・キリストが十字架に架けられた時、そのイエス様を悲しみつつ見守っていたのです。そして、ルカによる福音書は、イエス様のご復活を最初に知ったのはこの女性たちであると報告しています。イエス様が墓に納められ、三日目に女性たちはお墓参りに行くのです。するとイエス様は復活されており、女性たちは空の墓を確認してお弟子さん達に知らせたのでした。イエス様に最後まで従い、奉仕した女性たちが祝福されたと報告されているのです。神様の御心に委ねたラハブが祝福されたように、御心を信じて従った婦人たちの祝福を証しているのです。

 本日の聖書日課のテーマは「女性の働き」でありますが、聖書で示されますように、多くの女性がイエス様に従い、奉仕しつつ歩んでいました。その姿は現代におきましても、教会では女性の豊かな働きによって導かれているのです。
 日本の教会は、多くの場合、女性が多く、婦人会の活動が盛んです。大塚平安教会に招かれて1979年9月に就任しました。8月の末に宮城県から引っ越しをしました。宮城から車で家族5人がやってきましたが、教会の玄関を入ると婦人会の皆さんが出迎えてくれました。その中に一人の男性、大矢幸男さんがおられました。男性の皆さんはお仕事があるのです。早速、お茶をいただきながら歓迎会が行われました。歓迎会は改めて行われたのでありますが、宮城から無事に到着し、大塚平安教会に来られたという歓迎会でもありました。その後、皆さんが、既に引っ越しの荷物が届いていますので、それらを紐解いて片付け、整理をしてくれたのです。一人の方は私の蔵書を整理して書棚に収納してくれました。その方は本屋さんにお務めで、本の整理は慣れているので、その奉仕をしてくれたのです。その後、教会の皆さんと共に信仰の歩みが導かれますが、思い出されるのは婦人会の皆さんの奉仕でした。礼拝堂のベンチの座布団作りは迫力がありました。この作業は幼稚園のホールで行われました。ちょっと見に行きましたが、その作業は迫力あるものでした。礼拝堂を暗くするための暗幕作りも印象深く残っています。作られた暗幕は、昨年教会を解体するまで使われていたわけです。その他、お仕事会と称して、月に一度は手芸等の作業をすること、聖書を読む会も月に一度集まって学びの時を持っていました。教会の歩みを思い出すと、いつも婦人会の働きを思いだしています。もちろん壮年会や青年会の皆さんの奉仕もあります。
教会は皆さんの奉仕によって、歩みが導かれているのです。主イエス・キリストの十字架の救いが、奉仕の原点になっているのです。
<祈祷>
聖なる神様。十字架の救いを与えられ、主の働き人に導かれていますこと感謝いたします。小さな業でありますが御国を建設させてください。主の名によって祈ります。アーメン。