説教「生活の糧を与えられつつ」

2020年8月9日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第11主日

 

 

説教、「生活の糧を与えられつつ」 鈴木伸治牧師

聖書、箴言9章1-11節

   コリントの信徒への手紙<一>11章23-39節 

   ヨハネによる福音書6章41-59節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・531「こころの緒琴に」

   (説教後)讃美歌54年版・515「十字架の血に」

 

 今朝は8月9日、長崎に原子爆弾が落とされた日です。前週の8月6日には広島に原子爆弾が落とされたのです。日本はこれ以上、戦争はできないと判断し、8月15日に敗戦を宣言したのでした。1945年のことでした。その翌年、私は小学校一年になりました。戦争後の初めての小学校入学生であったのです。戦後のどさくさの中で成長してきたのですが、神様の大いなるお導きでキリスト教の牧師としての働きが導かれながら今日を迎えているのです。戦後75年間の歩みでありますが、いろいろな状況の中にも神さまの大きなお導きを与えられて歩んで来たのでした。今は、世界的にも感染が拡大している新型コロナウィルスがあります。どこの国も、感染予防で四苦八苦しているのです。一時は収まったかのように思えましたが、第二波とも言われる感染になっています。

 日本の国もこのような状況ですので、この時期は各地のお祭りが行われません。日本の国は、7月8月の暑さの中でお祭りが行われ、各地で祭りのイベントが盛んになるのですが、今年はそれぞれ中止とされています。関西の祇園祭り、東京の三社祭り、東北の三大祭りが続いて行われるのですが、毎年楽しみにしているのですが、中止となり残念でもあります。私が住んでいる地域も、この時期はお祭りや盆踊りで夏の風物詩が行われるのですが、いずれも中止となっています。いろいろな行事は宗教的なと言うより、地域のイベントなのであり、何となく残念な思いでもあります。イベントですから、宗教との関係は考えられないのです。

 大塚平安教会在任時代、良く皆さんから質問をいただきました。知人が亡くなってお葬式に出るのですが、キリスト者としてどのような姿勢で臨むべきかということです。仏教でお葬式が行われているなら、そのしきたりで行えばよいのですよ、と申していました。お焼香を上げたり、拝んだりしたからと言ってキリスト者にふさわしくないとは言えないのです。神道の場合は榊をささげながら手を打つわけですが、しきたりなのですから、そのようにしたら良いのです。キリスト教の葬儀の場合、お祈りしたり讃美歌を歌ったりしますが、列席している皆さんは仏教の人もいれば諸宗教の人もいるわけです。皆さんはキリスト教の葬儀のしきたりに従っているのです。キリスト教の皆さんほど仏教や神道の葬儀に列席することを気にしているのです。どのような状況に置かれましょうとも、信仰に生きる姿勢は変わりません。そこにしっかりとした人生が導かれているのです。葬儀は宗教ではなく、イベントなのであり、宗教的な思いで臨むのではなく、しきたりとかイベントとして参加すればよいのです。宗教として考えるから、いろいろ戸惑いを覚えるのです。割り切って参加すればよいということです。

2.

 私達の人生には、チクチクとしたものが入り込むことがあります。良い場合、悪い場合がありますが、チクチクは多くの場合、人生の指針を与えているのです。旧約聖書箴言が示されています。箴言の箴は針という意味合いです。従って、箴言は針のようにチクリチクリと刺される言葉なのです。チクリといたく感じるのは、私たちが自分勝手に生きているからであり、その勝手なことに神様のお言葉が針のように刺さるのです。チクリとさされるのは神様の真理の言葉であるからで、人間の思いに対して、まさに痛い神様の御言葉なのです。そのように神様のお言葉の意義を示していますが、示していることは神様の知恵をいただくということです。神様のお言葉、すなわち知恵が人生をしっかりと導いてくれるのですよ、と示しています。「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた」と示されています。聖書で知恵というとき、神様の御心に導かれていることであります。神様の知恵が生活の基盤を造ってくれることを示しています。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」と示しています。神様のパンを食べること、飲み物を飲むこと、それが神様のみ言葉をいただくということですが、御言葉は人生のチクリであるということです。私の気持ちで生きているのですが、神様のみ言葉がチクリと刺し、しっかりとした人生へと導かれるのです。

 パンを食べること、飲み物を飲むこと、それは人間が生きるために基本的に必要なことであります。しかし、それは単に人間の肉体を養うパンと飲み物だけではなく、神様からのパンと飲み物こそ人を養うことであることは、聖書の一貫した示しなのであります。奴隷の国エジプトから脱出して荒れ野を旅するうちにも食べ物が尽きてしまいます。人々は指導者モーセに詰め寄り、この事態をどうしてくれるのだと言うのです。それに対して神様は人々にマナという食べ物を与えます。人々は肉鍋を思い返していたのですが、神様は新しい食べ物、マナという神様の御心の食べ物を与えたのです。飲み物にしても、飲む水がありません。そのときもモーセに詰め寄ります。そこでモーセは神様に示されるままに岩をたたきます。すると水が出てきて人々の渇きを潤したのでありました。この水は人々の喉を潤す水でありますが、神様の命の水でありました。パンと飲み物、神様の御心のパンと命に到る水、これが神様のチクリであります。日々の食事で、当たり前のようにいただいていますが、実は神様のチクリである思わなければならないのです。

 旧約聖書の中で、ダビデという立派な王様がいました。ダビデが名君であったので、後の人々は、再びダビデのような王様、救い主が現れることを待望しました。それが一つにはメシア待望の歴史にもなっていくのです。そのダビデの子どもがソロモンという王様でした。ソロモンが王様になったとき、神様はソロモンに「何事も願うがよい。あなたに与えよう」と言います。そのとき、ソロモンは神様にお願いします。「神なる主よ、あなたは父ダビデになさった約束を今実現し、地の塵のように数の多い民の上に、わたしを王としてお立てになりました。今このわたしに知恵を授け、この民をよく導くことができるようにしてください」とお願いするのです。神様は答えます。「あなたはこのことを望み、富も、財宝も、名誉も、敵の命も求めず、また、長寿も求めず、わたしがあなたを王として立てた民を裁くために、知恵を求めたのだから、あなたに知恵が授けられる」と御心を示したのでありました。知恵を求める生活は、神様のチクリをいただくことであり、神様のパンと飲み物を頂く生き方なのであります。日々、体を養う生活の食事と共に、神様のパンと飲み物を求め、いただきつつ歩む人生が祝福の人生なのであります。

 ソロモンは神様の知恵をいただき、国を支配しました。知恵は自分勝手に生きる人間にチクリを与えるということです。ある時、ソロモンにお裁きを求めて二人の女性がまいります。女性たちは一人の赤ちゃんを、それぞれ自分の子供であると主張しているのです。ソロモンは女性たちの訴えを判断することはできません。そこで家来に命じて、この赤子を二つに切り裂いてそれぞれの女性に与えなさい、と命じるのです。一人の女性は、開きなおって、そうしてくださいと言います。しかし、一人の女性は、もう私の子供だと言いませんから、切り裂くことはしないでくださいと懇願するのでした。そこで、ソロモンはこの女性がこの赤子の母親であるとの裁決を言い渡すのでした。日本で言えば、大岡裁きの様ですが、ここに神様の知恵があるのです。ソロモンの命令通り、この赤子を切り裂いてくださいと言った女性も、ソロモンのさばきはチクリと胸を刺されたでしょう。刺されながらも無視したということです。神様はときに応じて、私達の人生にチクリを与え、神様の知恵を与えておられるのです。

3.

  神様のチクリを与えておられるのは主イエス・キリストであります。今朝の聖書、ヨハネによる福音書6章41節以下において、イエス様ご自身が証をしています。イエス様が「わたしは天から降ってきたパンである」と言われたので、人々はつぶやき始めます。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」と言うのです。それに対してイエス様は、「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われています。再び人々は疑問を持ちます。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに言い合うのでした。そのとき、イエス様は言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉は真の食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」と示されています。イエス様の肉を食べ、血を飲むということ、現実的には理解できませんし、どのようなことであるのか分りません。しかし、これはイエス様が十字架にお架りになることであります。十字架にお架りになる前に、イエス様は12人のお弟子さんたちと最後の夕食をいたします。最後の晩餐と言われています。その夕食で、お弟子さんたちにパンを配り、今後は私の体と思って食べなさいと言いました。そして、ぶどう酒の杯をまわしながら、今後は私の血であるとして飲みなさいと示されたのであります。その時、お弟子さんたちはその意味が分かりませんでしたが、イエス様が十字架にお架りになることによって、最後の晩餐の意味を知るようになるのです。そして、今に至るまで聖餐式として伝えられているのです。聖餐式でパンとぶどう酒をいただくことにより、イエス様が十字架によって私達の至らぬ生き方を正しく導くことを示され、イエス様の御心へと導かれるのであります。

 イエス様の御心、繰り返し教えられたことです。「あなたがたは自分を愛するように、隣人を愛しなさい」との御心であります。大変、良い、感銘深いお言葉であります。キリスト教に生きる人々は、このイエス様の教えに導かれているのです。大変、良い教えであると思っていますが、この教えが私達のチクリなのです。いろいろな人々と共に歩んでいますが、つい一人の存在を避けるようになり、自分の中から排除しているのです。その時、チクリと刺されます。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」とイエス様の御心が示されて来るのです。このチクリがあるから、祝福の人生へと導かれているのです。

4.

  チクリ、チクリと私達の胸をさすのはイエス様の御心ですが、その根源は主イエス・キリストの十字架の救いであります。私の奥深くにある自己満足、他者排除をイエス様はご自分の十字架の死と共に滅ぼされたのです。従って、私達は十字架を見つめるほどにイエス様による救いへと導かれるのです。十字架を見つめるほどに、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」というチクリの言葉が示されるのです。チクリをいつもいただきながら歩むとき祝福の人生であり、永遠の生命へと導かれて行くのです。十字架を見つめつつ歩みましょう。見失うことなく十字架を求めて、仰ぎ見つつ歩みたいのであります。

 絶えず人に対して注意を与えている人がいます。いわゆる「ああでもない、こうでもない」と言っては人の生き方を批判するのです。キリスト教の教会の中にはそのような人がいるものです。いろいろと人々の批判をし、いつも注意を与えているのです。あたかも神様の御心のような言い方で発言するので、ついその注意に従うことがあります。しかし、その注意は、その人の自己満足なのであり、極めて人間的なことでもあるのです。教会の中で言われるものですから、神様の御心と受け止めてしまう場合があるのです。あるいは教会の総会のような場で、み言葉を述べては自分の意見を言われる人がいます.みことばを武器にして自分の意見を正当化しているのです。それに対して、反論する人もみ言葉をかざしながら意見を述べているのです。お互いに大きな間違いをしていることになります。真の意見は、イエス・キリストの十字架の救いが原点となるということです。いろいろなご意見は、やはりそれはうるさい存在であり、真に「チクリ」ではありません。いろいろとうるさく言う人は、自分の思いが中心になっているのですから、その人の人生設計なのです。私たちにとって、真の「チクリ」はイエス様の十字架の救いが原点なのです。十字架によって私たちの歩みをチェックしてくださるイエスなのです。私達の前に掲げられている十字架は何があろうとも消えません。十字架を仰ぎ見つつ歩む私たちは、イエス様のチクリが与えられ、「生活の糧を与えられつつ」」人生が導かれるのです。

 その意味では教会は十字架を立てて、いつも「チクリ」を示されています。前任の大塚平安教会時代、その地で生まれ育った人が、教会の記念日にお出でになられて、つくづくと言われたものです。小さい時から、教会の屋根の上に掲げられている十字架を見ています。自分はキリスト教の信者ではないが、十字架を見ることで、何となく心が正される思いです、と述べておられました。私たちも、聖書を読まなくても、聖書を見ることで、すでにイエス様の「チクリ」が与えせられているのです。その意味でも聖書はいつも目に見える場所においておくとよいでしょう。忙しくて、朝、聖書を読む暇もないと言われる方がありますが、聖書を見つめるだけで良いのです。聖書に触ることができれば、さらに良いでしょう。それだけで今日一日の生活が導かれていくのです。

<祈祷>

聖なる御神様。イエス様の御心を与えられ感謝いたします。イエス様の御心により、しっかりとした人生を歩ませてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

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