説教「忍耐の果実」

2019年2月17日、六浦谷間の集会 
降誕節第8主日

説教・「忍耐の果実」、鈴木伸治牧師
聖書・箴言3章1-8節、コリントの信徒への手紙<一>4章8-16節
   ルカによる福音書8章4-15節
賛美・(説教前)讃美歌21・224「われらの神」
   (説教後)讃美歌21・402「いともとうとき」

今朝は主イエス・キリストの「教え」をいただきます。イエス様の「教え」は今朝ばかりではありません。毎週、礼拝に招かれ、神様に向かう時、イエス様の教えが与えられているのです。今日は改めてイエス様の教えを示されるのであります。ルカによる福音書8章にもなるとイエス様の宣教活動が盛んになっている状況であります。ルカによる福音書はイエス様の降誕物語から始めています。ヨセフさんとマリアさんが人口調査のためベツレヘムの町に行きましたが、滞在中にイエス様がお生まれになったのであります。それも宿屋さんには泊まる所がなく馬小屋の中でした。その後、ナザレに帰り、そこで成長しますが、12歳のイエス様についての報告があり、バプテスマのヨハネから洗礼を受けます。その後は荒れ野に行かれてサタンの誘惑があり、サタンを退けられたのであります。そして、ついに人々の前に現れて宣教を開始しました。マタイによる福音書、マルコによる福音書は、主イエス・キリストが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて宣教を開始したことが記されています。ルカによる福音書は、イエス様が荒れ野で誘惑を受け、悪魔を退けるのでありますが、それからは霊の力に満ちていました。その姿でガリラヤに帰られたのであります。霊的な人として評判が高まりました。イエス様の教えから始まったのではなく、霊的な存在として世に現れたことをルカは強く報告しているのであります。ルカはこの後、使徒言行録を書きますが、使徒言行録は聖霊行伝とも言われるほど、聖霊の導きを証しているのであります。ルカはその意味でも、まず主イエス・キリストを紹介するのに、「霊に満たされた方」としているのであります。
 霊に満たされた方が奇跡を行い、神様の御心を人々に示されるのであります。これは宣教者の基本的な姿でなければなりません。優れた説教とはどういうものなのか。人々が聞いて喜び、胸を打つような説教は、優れたものと言えるでしょう。しかし、忍耐して聞いていないと分からない説教もあります。つっかえつつ説教をする牧師もいます。昔、植村正久牧師と言う方がおられましたが、名説教家と言われています。朴訥な話しぶりであったと言われますが、その説教により多くの人が救われているのであります。霊的な説教であるのです。心を揺さぶるような語りかけの説教に魅了致しますが、そういう説教が必ずしも救いに導くことにはならないのです。その説教者に魅せられますが、主イエス・キリストの十字架の救いには至らない場合もあるのです。
 新約聖書の中で5千人、7千人の群衆にお話をしているイエス様について記されていますが、人々の心を揺さぶるような説教をしたとは思われません。むしろ、たんたんと神様の御心を人々に示されたのであります。霊的な存在としてお話されていますから、人々も霊的に導かれ、そこで真に御心が示されていたのであります。

 今朝は聖書の「教え」について示されるのであります。「教え」については神様ご自身が旧約聖書において示されているのであります。箴言が今朝の示しであります。箴言の「箴」は針と同じ意味であります。従って、針のようにチクリと来る言葉を示しているのであります。ともすると自分の生活に埋没してしまうのでありますが、そういう中で箴言を示されて、目覚めると言わけです。日本語では箴言と訳されているのでありますが、ヘブライ語は「マーシャール」であり、この言葉をどのように訳すのかは、苦労があるようです。この言葉は「比較」、「類例」などの意味があります。確かに箴言は比較が頻繁に出てきます。深い真理を分かりやすい事柄と対照させて教えていると言われます。格言であり、箴言としてチクリと呼び覚ますのです。
 箴言の冒頭に「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」とありますから、ソロモンが書いていると思われますが、これは後の人が書いたものです。確かにソロモン王は神様から知恵をいただき、知恵を持って人々を治めました。この箴言の中にもソロモン的な示しがありますが、後の人たちがまとめたものでした。聖書の人々がバビロンに捕われ、苦しい生活をしましたが、この箴言が書かれるのはその後の時代です。もはやバビロンに捕われているのではなく、エルサレムに帰った人々なのです。帰還したものの、社会的にも不安定です。宗教的にも定まらない状況でもありました。そうした中で、真の神様の御心に生きることを示し、神様を中心に生きることが、どのような生き方なのかを示しているのです。神様の御心から離れている人々にとっては、針のようにチクリと来る言葉なのであります。
 今朝の箴言は「父の諭し」として、子供に示しているのであります。「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう」と教えています。「わたしの戒め」とは十戒で示されている人間の基本的な生き方なのです。十戒は第五戒から人間関係の戒めであります。その最初の戒めは、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」と教えられています。父と母は、長い人生の中で神様の御心を教えられて生きてきたのです、神様の御心を宿す存在として、御心を教えられる存在として敬うということです。神様の御心を持って生きるならば、祝福の長生きが与えられるということです。第五戒にそれを示しており、その後の「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「隣人について偽証してはならない」、「隣人の家を欲してはならない」と教えられますが、省略されていますが、その後には「そうすれば主が与えられる土地に長く生きることができる」と教えられているのです。神様の御心に生きることは祝福の長生きであるということです。今、この箴言も「わたしの教え、戒めを納めなさい」と示し、「そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられる」と示しているのであります。旧約聖書の基本的な教えであります。
 「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ」ということ。これは神様の慈しみです。いただいている神様の慈しみをおろそかにしないで、「首に結び、心の板に書き記すがよい」と諭しています。神様から慈しまれていることを決して忘れてはなりません、と言うことであります。「そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう」と諭しています。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け」とも諭しています。「そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」と言うのであります。「自分の分別に頼るな」と言うことです。すべて神様の御心に委ねて生きることを示しているのであります。さらに、「自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ」と教えます。自分を過信すること、人間の知恵は何ほどのものではないことを知ることです。「主を畏れる」ことであるということです。これは箴言全体の示しであります。1章7節、「主を畏れることは知恵の始め」と示されますが、9章10節、15章33節にも記されています。「主を畏れる」生き方は、偉大な存在を見つめながらの生き方なのであり、勝手な生き方から離れるのであります。
 こうして今朝の箴言は「戒めを心に納め」、「主を畏れる」ことを示しているのであります。この教えに生きるならば、「命の年月、生涯の日々は増す」のであります。神様の教えをしっかりいただいて生きることを示しているのであります。

 聖書の基本的な教えを旧約聖書により示されました。基本的な教えは主イエス・キリストも人々に示しているのであります。イエス様の宣教は、ある時には神様の大きな業を示します。奇跡物語であります。そして、神様の御心を優しく人々に示しています。優しく示すのでありますが、イエス様は「たとえ話」をもって神様の御心を示すことが多いということです。ルカによる福音書8章4節以下15節は、「種をまく人」のたとえ話であります。大勢の人々がイエス様のもとに集まってきたので、それらの人々にたとえをもってお話されました。ある人が種を蒔きに行きました。その種が四つの場所に落ちたという設定です。ある種は道端に落ちました。日本の種まきのように、畝を作り丁寧にまくのではなく、種をばらまくようにまきます。岩波書店の商標マークが「種まく人」ですが、空に向けて大きく蒔いている状況です。従って、風に乗って道端に落ちる種もあるのです。道端ですから、人に踏みつけられ、やがて鳥が来て食べてしまうのです。他の種は石地に落ちたと言います。石地は畑の端になります。そこは良く耕されてはいないので、土の下は石がごろごろとあるのです。従って根を張り、芽を出しますが、十分に水分を吸収できないので枯れてしまうのです。他の種は茨の中に落ちました。茨は雑草です。雑草と共に成長しますが、その雑草に押しつぶされてしまうというのです。他の種は良い土地に落ちたと言いますが、もともとはよい土地に蒔いているのですから、大かたは良い土地にまかれるということであります。中には道端、石地、雑草の中に落ちる種もあるということです。よい土地にまかれた種は百倍の実を結んだとお話されています。
 このたとえ話を聞いた大勢の人々はどのように受け止めたのでしょう。そうだ、そうだと聞いていたでありましょう。よい土地にまかれなければならないのであると感心した人もあるでしょう。そうであれば、このお話は一般的なお話であり、当たり前のことをお話したにすぎません。だから、この当たり前のお話には意味があるのだろうと、お弟子さん達がたとえ話の意味を尋ねたのでありました。そこでイエス様は、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」と説明しています。つまりイエス様のお話を真の神様の御心として、真に神の国に生きる喜びが与えられるのです。しかし、人々は単に心に響くお話しか求めていなかったのであります。「見ても見えない、聞いても理解できない」人々、これは私たちも反省しなければならないのです。主イエス・キリストの教えは、私達が神の国に生きるためなのです。
 そこでイエス様はお弟子さん達に「種を蒔く人」のたとえの意味を示されました。道端に落ちた種は、土の中に入ることができないのであり、御言葉を最初からはねつけているのであります。悪魔が御言葉を奪い去ると説明されています。石地に落ちた種は芽が出ます。しかし、石地ですから根を張ることができないのです。だから弱い存在であり、問題があれば御言葉が無くなってしまうのです。茨の中に落ちた種は、成長するものの、周りに対する気遣いが多く、実を熟することができない状態を示しているのです。そして、良い土地に蒔かれた種は実を結ぶと示しています。注意したいのは、マタイによる福音書、マルコによる福音書にも、このたとえ話が示されていますが、良い土地に蒔かれた種の、実の結び方が異なるのであります。マタイによる福音書は、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである」と示しています。マルコによる福音書は、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」と示しています。今朝、私達が示されているルカによる福音書は、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と示しているのであります。
 マタイは「悟る人」であり、マルコは「受け入れる人」であります。しかし、ルカは「善い心で御言葉を聞く」人なのであります。ただ蒔かれるということではなく、積極的に蒔かれることを待ち望んでいるのであります。そして、「よく守り」と示されるように、努力して御言葉を守りつつ歩むのであります。そして、「忍耐して」御言葉による人生を生きるのであります。御言葉を蒔かれ、悟り、受け入れても、生活の上で、社会の人間関係においての戦いがあります。ルカは、御言葉に対する取り組みを示しているのであります。従って、たとえの説明の中では、「実を結ぶ」と言っているのであり、百倍とか30倍、60倍とは言いません。それぞれの姿において「実を結ぶ」のであります。その人の信仰の人生において実を結ぶことが導かれるのであります。

 私達は御言葉に対して「道端」であり、「石地」であり、「茨」であると決めつけてはなりません。よく、そのように自分をあてはめる人がおられます。「立派な善い心で御言葉を聞く」姿勢を持たなければならないのです。そして、いただいた御言葉を守り、忍耐して生きることが求められているのです。御言葉を聞いたから、すぐ百倍の実が与えられるという短絡的な姿勢であってはならないのです。御言葉をいただいたら、その御言葉によって養われることなのです。信仰生活の実りというものなのです。
 主イエス・キリストの教えは、神様の御心であります。私達は福音書で教えられているイエス様の教えを喜ぶのでありますが、私達は主イエス・キリストの十字架の贖いが根底になっていることを忘れてはならないのであります。十字架の救いが基となって、イエス様のたとえ話をいただかなければならないのであります。ルカによる福音書は、「御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」としています。御言葉をいただいて生きるということは、ああそうですか、と簡単に言うことではありません。御言葉をいただいて、忍耐をもって実践することなのです。そこには自分との戦いがあります。自分の自己満足と戦いながら、忍耐しながら、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶことができるのは、イエス様の十字架の導きであります。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様の御教えを感謝致します。十字架のお導きにより、教えを実践できますようお導きください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメ