説教「誇りが与えられているので」

2016年10月23日 六浦谷間の集会
「降誕前第9主日

説教、「誇りが与えられているので」 鈴木伸治牧師
聖書、箴言8章22-31節
    ヨハネの黙示録21章1-4節
     マタイによる福音書10章26-33節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・218「夜を守る友よ」
    (説教後)讃美歌54年版・433「みどりの柴に」   


 本日は前週16日より始まりました教育週間の最終日でもあります。同じく16日より始まりました信徒伝道週間は昨日の22日まででした。教育週間は日曜日から日曜日までの8日間になっています。二回の日曜日でキリスト教教育を祈り、その使命を深めるということです。横浜本牧教会についてはまだよく存じませんが、前任の大塚平安教会時代、教育週間の意義を深めていました。まず、パンフレットを発行し、幼稚園や教会学校の子供たちの家庭に配布していました。キリスト教の中で成長した子供たちが、社会の人々に喜ばれる存在になっている事実をいくつか紹介し、キリスト教教育の大切さをお知らせしたのでした。今朝はキリスト教教育週間を覚えつつ御言葉を示されるのであります。
 大塚平安教会は創立の当初よりキリスト教教育に深い関わりを持ちつつ歩んでいます。綾瀬市の地域にキリスト教の福音が宣べ伝えられるのは、1929年であります。このことについては前週も示されました。救世軍の出身である近藤義一さんが伝道を開始したと記録されています。その伝道にはメソジスト教会の牧師達が関わるようになります。1932年に日本メソジスト大塚講義所が設立されました。いわゆる伝道所であります。それと共にミス・ドレーパーさんが季節託児所を開設した年でもありました。大塚平安教会の前史として、ギデオン・ドレーパー宣教師がこの界隈で伝道したことを示されなければなりません。農民福音学校を開設して、当時の青年達に、今で言うカルチャーセンターとしてキリスト教を宣べ伝えながら、教養を与えたのであります。そのドレーパー先生と一緒にこの界隈に来たのが娘のウィニフレッド・ドレーパーさんでした。当時、この地域は養蚕が盛んでした。養蚕で忙しいときには、子ども達は所在なく過ごしていました。それを見たミス・ドレーパーさんは季節託児所を開いたのでした。それは養蚕で忙しい時だけでした。1939年、お父さんのギデオン・ドレーパー宣教師が病気になり、一家はアメリカに帰国したのでありました。政治的にも雲行きが怪しくなってきたこともあると思います。従って、季節託児所はミス・ドレーパーさんによって約7年間続けられたことになります。
 その後、1949年に大塚平安教会が設立されます。そして、1953年に季節託児所が復活するのです。1962年、幼稚園が開設されました。当初は宗教法人大塚平安教会付属幼稚園でありましたが、1977年に学校法人大塚平安学園に移行しました。幼稚園は学校法人として独立していますが、幼稚園は大塚平安教会を基にしながら歩んでいるのであります。
 教育週間に当たり、大塚平安教会が当初からキリスト教教育を祈りつつ取り組んできたことを示されます。幼稚園において、イエス様のお心により日々の歩みが導かれ、多くの子供たちを送り出しています。この10月から横浜本牧教会附属早苗幼稚園の園長を担うようになりましたが、教会は130年の歴史があり、幼稚園も遅ればせながら設立されていますので、長い歴史を歩んでまいりました。そして、この横浜本牧教会も宣教師の働きがあって設立されています。宣教師たちはキリスト教を宣べ伝えるとともに、幼児教育に力を注ぎました。次代を担う子供たちが神様の御心にあって成長するならば、日本の国は祝福の国となるのです。その祈りを増し加えながらキリスト教教育を推進したのであります。
 私は小学校3年生より日曜学校に通いつつ成長しました。そして、今日までキリスト教の信仰を持ちつつ歩んでいるのです。この長い人生を振り返ったとき、私は自分の中に据えられている土台、すなわち主イエス・キリストの十字架による救いが私の「誇り」となっており、「誇りが与えられているので」今までの人生が導かれてきたと思っています。「誇りが与えられているので」明日の歩みも力強く歩めると信じているのであります。

 キリスト教教育週間に当たり、大塚平安教会や横浜本牧教会が取り組んでおりますキリスト教教育について示されました。それではキリスト教教育と言った場合、「教育」とは何でありましょうか。何を教育するのでしょうか。いうまでもなく、神様のお心なのであります。それは別の言葉で言いますと「知恵」であります。聖書の中で「知恵」という言葉が示されますが、それは神様のお心を示しているのです。箴言1章7節に、「主を畏れることは知恵の初め」と示しています。さらに箴言2章2節以下、「知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声を上げるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう」と示されています。知恵はすべての基であるのです。知恵は神様のお心であるからであります。
 今朝はその箴言を示されています。8章22節からであります。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初(たいしょ)、大地に先立って」と示しています。22節から31節まで読みますと、「わたし」という一人称で記されています。「わたし」とは誰なのかと思います。実は、擬人的に記されていますが、「わたし」とは「知恵」なのであります。「知恵」が自分を証しているのです。「知恵」は天地が造られる前から造られていたというのです。「わたしはそこにいた。主が天をその位置に備え、深遠の面に輪を描いて境界とされたとき」と示しています。つまり、神様の天地創造の時、「知恵」が伴われて天地が造られたことを示しているのであります。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主が造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」と示しています。これは「知恵」が人を支配することによって、神様の御栄光が現され、神様の喜びとなることを示しているのであります。
 神様の「知恵」、神様の御心が人間に行き渡るとき、それはどんなに小さな存在でも神様の御手の中にあることを示されることになるのです。また、どんなに大きな存在でも、「知恵」にあっては、何もできないのであります。「知恵」は大きな存在であり、人々を確実に祝福へと導くのであります。「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか」と8章1節は示しています。神様の御心である「知恵」は私たちに勇気を与え、新しい一歩を歩みださせるのであります。もっと具体的に示されるならば、「わたし」と言っているのはイエス・キリストであるということです。イエス様が神様の知恵であり、イエス様によって、人生の土台が与えられるのです。

 イエス様の土台が与えられており、それによって「誇りが与えられているので」、「人々を恐れてはならない」と示しています。マタイによる福音書10章26節以下が今朝の聖書です。神様の「知恵」が私たちを包んでくれているのです。「人々を恐れてはならない。覆われているものであらわされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」と示しています。マタイによる福音書10章はイエス様がお弟子さん達に教えられているのです。10章の始めにイエス様が12人のお弟子さんを選んでいます。そして、イエス様はこの12人を町や村に派遣することになりました。派遣にあたり、その心構え等をお話しするのであります。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と派遣の内容、その働きを教えています。そして、派遣に当たっての心構えも教えています。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」のです。余分なものを持つことにより、その余分なものに依存するからであります。ただ御言葉に依存することです。「知恵」に依存しなさいということであります。
 10章16節からは、「知恵」に導かれる歩みでありますが、迫害があることをを示しています。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」というのです。お弟子さん達の働きを妨害し、迫害するだろうと厳しく言っています。そのように示した後で、26節以下の今朝の聖書になります。「人々を恐れてはならない」と力強い示しを与えています。恐れなければならないのは、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方であるということです。つまり神様を畏れるということです。死後の世界をもご支配なさる神様を中心にしなければならないということです。そして、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と言われました。一アサリオンはローマの貨幣単位で、一番低い単位であります。一番低いお金で、しかも一羽ではなく二羽であります。いわゆる価値がないということです。しかし、価値のない二羽の雀は人間の理解でありますが、神様は人間が価値のないと判断しても、大切になさっていることを教えておられるのであります。ルカによる福音書にも同じような部分が記されています。ルカによる福音書12章2節以下です。ここでは、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか」と記されています。マタイは一アサリオンで二羽の雀です。従って、ルカは二アサリオンでは四羽の雀ということになります。しかし、ルカは一羽おまけして五羽にしています。つまり、ルカは人間の価値観からすれば、雀の価値のなさを強調しているのです。おまけまでつける雀の価値です。マタイにしてもルカにしても、人間の考えでは価値のない存在でも、神様は人間の価値観を否定しているのです。雀ですら神様が大切にしてくださっているのです。だから「恐れるな」と言われ、「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と示しているのです。
 このようにして主イエス・キリストはお弟子さん達を世の中に派遣するに当たり励ましました。まさに、この世の中は何が起きるか分かりません。しかし、神様の「知恵」、神様のお心に生きる限り、恐れるものは何一つないことを教えておられるのです。まさに、この「知恵」に生きること、「誇りが与えられているので」新しい一歩を踏み出せるのです。

 今日、いとも簡単に人が殺されています。何が起きるか分かりません。日ごろの用心を心がける私たちであります。人は基本的には共に生きていかなければならないのです。人と人との関わりを持ちながら世の中が形成されるのです。人の事など知りませんというのではなく、人と共に生きていることを受け止めなければなりません。
 最近、幼稚園の職務をするようになり、電車で行き来することもあります。駅のホームには電動車椅子の人が電車を待っています。やがて電車が近づくと、駅員の人が来て、電車とホームに渡り廊下を置きます。電車とホームの間が空いているので、このようにしないと電車に乗れないのです。そして、その人が降りるときにも駅員さんが来て、渡り廊下を置き、降りることができるのです。今はほとんどの駅にはエレベーターがあるので、後は自由に駅を出ることができるのです。このように駅員さんが介助してくれるのですが、目の見えない人の事故が、このところ相次いで起きています。盲導犬を連れて電車に乗ろうとしていたわけですが、ホームから転落してしまったのです。痛ましい事故です。盲導犬を連れているので、声もかけにくいのかもしれませんが、危険な時には声をかけてあげる必要があるのです。私たちは共に歩む事を示されながらも、まだまだ必要なことがあると思うのです。
神様の知恵をいただいて生きるときにも、私たちは弱さを覚えずにはおられません。以前、一人の女性からお電話をいただきました。その女性は泣きながらいわれました。通りを歩いていると、倒れている人を見かけました。その人が倒れているのはお酒に酔って寝ているのか、急病なのか分かりませんが、自分はただ恐ろしくなって、気がついたら家に帰ってきていました。その倒れている人が気になって、自分はその時、どうしてその人のそばに行き、声をかけたり、また救急車を呼んだりしなかったのか、それを思うと自分の弱さが悲しくて、どうしてよいか分からないのです、と電話の声は泣きながらいわれました。だから、教会に行きたくても行かれないのですとも言われました。私はその時、教会に来ている人たちは、私を含めて、あなたと同じように、どうしてよいか分からないから教会に来て、神様のお心を示されているのですよ、とお話しいたしました。改めて私たちの主にある姿を示されたのであります。
 主イエス・キリストは私たちの弱さの故に十字架にお架かりになったのであります。常に自己満足に生きる私たちに十字架が示されています。私たちはいつもイエス様の十字架の原点に立たされているのです。その原点は、私たちを実践的に神様の知恵に生きるよう導いているのです。この社会に生きるものとして、私の存在は大切であります。自分の存在を雀のように小さくしても、「その一羽さえ」神様は覚えてくださっています。神様の知恵、十字架を仰ぎ見つつ歩むことが、私たちの歩みなのであります。私という存在は小さくはありません。大きな存在なのであります。神様の知恵をイエス様の十字架によって与えられているのであります。十字架を仰ぎ見るほどに神様の知恵が示されて来るのです。そのような人生が与えられている私たちは、「誇り」が与えられているということです。「誇りが与えられているので」、与えられている歩みを、喜びつつ進みたいのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。私の存在を大切にしてくださり感謝します。神様の知恵を力強く実践できますよう導いてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。