説教「神様の愛がゆきわたり」

2016年10月16日 六浦谷間の集会
聖霊降臨節第23主日

説教、「神様の愛がゆきわたり」 鈴木伸治牧師
聖書、エレミヤ書29章4-14節
    フィリピの信徒への手紙3章12-21節
     ヨハネによる福音書17章20-26節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・217「あまつましみず」
    (説教後)讃美歌54年版・506「たえなる愛かな」   


 毎年、10月は覚えつつささげる礼拝が続きます。前週は神学校日、伝道献身者奨励日であり、神学校及び神学生を祈りつつ礼拝をささげたのであります。今朝からの一週間は信徒伝道日であり、さらに教育週間として歩みであり、今朝はそれらの歩みを覚えつつ礼拝をささげているのであります。前週も伝道を示され、今朝も伝道をすることを示されています。伝道は一人牧師が行うことでは、もちろんありません。教会に導かれている皆さんの使命なのであります。私は力がなく、人に伝道することなどできません、と言われなくてもよろしいです。伝道するということは、証をしたり、人々を教会にお連れすることだけが伝道というのではありません。伝道とは、自分の存在を証しするということなのであります。日曜日には教会に導かれて神様を仰ぎ見る、その生き方が伝道なのであります。昔、青山教会に仕えていた頃、老夫婦がいつも揃って礼拝に出席していました。お二人が言われるには、「我が家は、日曜日は留守なので、誰も来ないことになっている。近所の人も出入の業者も、あの家に日曜日に行っても、教会に行っているので、留守であることを知っている」と言われるのでした。教会に来て何をすることが目的ではなく、礼拝をささげることであります。その生き方が大きな伝道でもあるのです。
 その意味でも教会に常に結びついて歩むことが大切であります。時々、二ヶ月に一度ですが、三崎教会に招かれ、礼拝説教をさせていただいています。2012年からであります。初めて三崎教会に伺ったとき、久しぶりにお会いした方がおられました。私が神学校を卒業して、最初に赴任した教会、青山教会の教会員の方であります。実に45年ぶりの再会でした。青山教会時代、もちろんその頃は、この方も私たちも若かったのですが、今も変わらずに信仰生活をされておられること、それ自体も大きなお証であると示されました。今は三崎教会に比較的近い老人ホームに居住されています。ですから日曜日には三崎教会の礼拝に出席されているのでした。しかし、今でも青山教会の教会員であり、少し前までは時々ではありますが青山教会に出席されていたのでした。しかし、三崎から青山教会まで、2時間は要します。電車で行くにしても、乗り換えたりして行かなければなりません。最近は行く力が無くなったと言われています。間もなく90歳にもなれられるのでした。やはり、導かれた教会に所属している喜びがあります。近くの教会の礼拝に出席しても、所属する教会を喜ばれているのです。
 そのような方もおられますが、今まで皆さんとのお交わりを喜ばれながらも、他の教会に転会される方もおられます。どうしても牧師の姿勢が理解できないし、また説教を聞いても力にならないというのです。それで他の教会に転会して、信仰の歩みが導かれているのです。たとえ教会から遠くに住むようになり礼拝に出席できなくても、いつまでもその教会に所属している生き方、それも大きな証であります。しかしまた、他の教会に転会して信仰が養われること、それも大きな証であるのです。どのような姿勢であろうとも、教会を中心にして、そして御言葉によって養われる生き方、そういう信仰の人生が、伝道になるのです。今週は信徒伝道週間でありますが、何よりも信仰者自身が、神様の御心をいただく喜びの生活が導かれなければならないのです。人生の基を礼拝におき、ささげながら歩む事を示されているのです。そのような人生計画、導きを与えられたいのであります。神様の愛がゆきわたっている、この自分が神様の愛に生かされていること、その歩みこそ伝道あるということです。

 旧約聖書エレミヤ書は「神様の愛がゆきわたる」ことを示しています。このエレミヤ書29章は預言者エレミヤがバビロンに捕われの身で過ごしている人々に手紙を送っており、励ましの内容であります。内容は「神様の愛がゆきわたる」ことのメッセージを与えているのです。29章の前、28章には偽りの預言者が登場しています。ハナンヤという偽りの預言者でありました。ハナンヤはバビロンで捕われの人々は2年もすれば解放されるとの偽りの預言をし、人々の気休め的なことを述べているのです。しかし、神様はエレミヤを通して、真実の預言を語らせるのであります。そして29章になって、エレミヤがバビロンで捕われの生活をしている人々に「神様の愛がゆきわたる」ことを、神様のお心として示しているのであります。
 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはエルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」とエレミヤは書き記しています。偽りの預言者ハナンヤは2年もすれば解放されるのだから喜んで待ちなさいと示しました。しかし、エレミヤは解放されるまで70年はあるというのです。70年という年数は、旧約聖書は人の一生を70年と考えていました。つまり、捕われの人々はそのバビロンの地で死ぬことになるのですが、しかし、だから子孫を増やし、後の時代のために備えなさいと将来の希望を示しているのです。現実は捕囚という奴隷の状態です。重くのしかかるような現実に、生きる気力が失われてきます。しかし、だからと言って現実を放棄してはいけません。むしろ、子孫の祝福のために現実を強く、喜びをもって生きること、それが必要であります。そのために家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べること、結婚して子孫を残すことを示しています。さらに、捕囚として生きている町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい、と示しています。「その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」と励ましているのです。
 社会が悪い、政治が悪いと言い、現実を嘆く人がいます。しかし、悪い悪いと言いつつ生きている現実を社会や政治の責任とするのではなく、社会のために、政治家のために祈ることであります。どうかよい社会にならしめてください。為政者に神様の知恵が与えられ、人々の生活に潤いを与えてくださいと祈ることなのであります。今、この時代に生きている者として、日本の社会、世界の歩み、現実の状況を祈ることが私たちの務めであることを示すのがエレミヤ書の示しなのであります。そして、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない」と示しています。あなたがたは、いつまでも苦しく生きているのではない、と示しています。「神様の愛をゆきわたらせる」ために導いておられるのであると示しているのであります。

 「神様の愛をゆきわたらせる」導きをあたえているのが主イエス・キリストであります。私たちにとって、毎日の生活が何不自由なく過ごすことでありましょうか。痛みもなく、何の問題も抱えないことでありましょうか。毎日、喜びつつ生活することでありましょうか。確かにそのような生活は喜びであります。その平和を祈るために、お正月には神社仏閣に何百万人の人々がお参りに行くのです。基本的に家内安全、交通安全、商売繁盛、一家安泰等が人々の幸せであり、そのような生活を求めているのです。それはいうまでもなく必要なことであります。しかし、聖書が示す「神様の愛」は、人々そのものが祝福に生きることなのであります。それは、例えば私が病気であり、苦しみつつ生きていたとしても、神様の愛の中に生きていることなのです。だから、そのような状況でありましょうとも、祝福の人生であるのです。その祝福の人生こそ、主イエス・キリストが示す永遠の命をいただくということなのです。
 ヨハネによる福音書17章はイエス様の最後のお祈りであります。その前の14章。15章、16章ではお弟子さん達に別れの説教をしています。14章1節で、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」と言われつつお話しを始めています。イエス様は天に行かれるのでありますが、そのために別れの説教をするのであります。天に行くのは、あなたがたのために場所を用意するためだといわれているのです。そして、別れの説教を終えるにあたり、16章33節で、「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と示されております。私たちが平和を得るために、神様の愛の中に生きるために、主イエス・キリストは神様のお心を示されたのであります。神様の愛の中に生きる、すなわち、永遠の命を得るためであります。神様の愛の中に生きるために別れの説教をしたイエス様は、今朝の17章で神様に長いお祈りをささげています。17章の長いお祈りが終わると、18章でいよいよ裏切られて逮捕されることになるのであります。
 まさに最後の祈りを神様にささげています。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」と冒頭に祈っています。「子」とはいうまでもなく主イエス・キリストであります。イエス様が人々に永遠の命を与える権能を与えられているのです。お別れの説教のおしまいに、イエス様によって「神様の愛」が得られると教えておられます。そして、お祈りの冒頭で「永遠の命」を与えると示しているのであります。すなわち、私たちが主イエス・キリストを信じるということは神様の愛をいただくことであり、神様の愛に生きることは永遠の命をいただくことなのであります。
 イエス様は祈ります。「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」とお祈りしています。イエス様が与えてくださる神様の愛により、永遠の命をいただくこと、人々がみな平和に生きるようになる、それが神様の愛なのであります。そのために神様は主イエス・キリストをこの世に生まれせしめ、人間を愛してくださっているので、イエス様により十字架の救いを与え、永遠の命を与えておられるのであります。

 神様の愛は、それぞれの場に教会を建てることであります。10月から横浜本牧教会付属幼稚園の園長に就任しました。2010年4月から9月まで、横浜本牧教会の代務牧師、そして幼稚園の園長を担いましたので、今までの牧師が9月末で退任しましたので、代務牧師は小林誠治先生がなられ、私が園長に就任しました。私自身教会の代務牧師を担っていますので、教会の歴史を認識しておくべきですが、まだ不十分ですので、横浜本牧教会ではなく、前任の大塚平安教会について示されておきたいと思います。
 大塚平安教会の地、綾瀬市大塚ですが、この地にキリスト教が宣べ伝えられるのは1929年であります。救世軍の信仰を持っていた近藤義一さんやメソジスト教会の牧師達が開拓伝道を行いました、合わせてドレーパー宣教師家族がこの地に訪れ、人々に福音を広めたのであります。教会員の大矢幸男さんが当時のことを大塚平安教会50周年記念誌に記していますので、拾い読みになりますが、示されておきましょう。
 「ドレーパー先生との交流は昭和14年秋に帰国するまで続く。当時の世相では外人というだけで社会は好意を寄せる。先生の笑顔に接し、日本語の見事なこと(外人特有のなまりはない)。ドレーパー先生は足には自信があったらしい。ハイヒールでコウモリ傘を持って、東西南北10キロ位は歩いて伝道した。女子のための講習会、編み物や料理などを開いた。そして講習会に出席とした姉妹達の家を訪問した。男子の福音学校も毎年開講した。主にキリスト教と農業、麦作りと肥料、農家の経営について等のお話をした。集まった青年は多いが受洗には矢張り遠かった。しかし、戦後集まった青年の中より信者が出て、よいキリスト者家庭が生まれ、今も会員であることを知り、祈りに応える主のみ声が身にひしひしと感じます。先生が大塚に来て、第一にされたことは農繁期託児所である。忙しいので放りぱなしの状態に驚いて、幼児教育の必要を感じたのである。(中略)年に2、3回開かれた託児所、その費用も先生のポケットマネーなのか、宣教師の費用から出ていたのかは知らない。大塚にそそがれた莫大な伝道費は今も心を痛める。祈りによってそそがれたドレーパー御一家には忍の伝道であり、愛の伝道であった。その収穫はまったくない」と記しています。大矢幸男さんは「その収穫はまったくない」と記していますが、そうではありません。収穫は現在の大塚平安教会であり、ドレーパー記念幼稚園であるのです。神様の愛が、綾瀬市大塚の地に遣わされた宣教師により、人々が主イエス・キリストの永遠の命をいただく者へと導かれているのであります。今朝は信徒伝道日にあたり神様の愛をいただく歩みこそ、伝道の基であることを示されました。
<祈祷>
聖なる神様。神様の愛に導かれ感謝いたします。この神様の愛を多くの人々に伝える力と知恵をお与えください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。