説教「日曜日の祝福」

2019年2月10日、六浦谷間の集会 
降誕節第7主日

説教・「日曜日の祝福」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記20章8-11節、コリントの信徒への手紙<一>3章18-23節
   ルカによる福音書6章1-11節
賛美・(説教前)讃美歌21・432「重荷を負う者」
   (説教後)讃美歌21・507「主に従うことは」

今朝は「安息日」についての示しであります。この日曜日に導かれることは、礼拝を通して神様の御心を示されることであります。聖書が示す「安息日」の恵みを示されるのであります。ところで「安息日」の読み方はいろいろあります。日本語の読み方は、「あんそくじつ」「あんそくにち」「あんそくび」と読んでいます。新共同訳聖書は「あんそくび」としています。「文語訳聖書」、「口語訳聖書」、「新改訳聖書」では「あんそくにち」であり、「フランシスコ会訳聖書」では「あんそくじつ」と読んでいます。ここでは新共同訳聖書に従って、「あんそくび」と読むことにします。安息日の始まりは旧約聖書によるものであり、ユダヤ教では旧約聖書の通りに受け止めています。安息日は金曜日の夕方から始まり、土曜日の夕方に終わるのです。何故、この日があるかは、旧約聖書創世記の神様の天地創造に由来しています。神様が天地をお造りになる初めの日は日曜日でありました。まず、「光あれ」と言われ、光と闇を分けられました。光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれたのであります。それが第一日です。次に神様は「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」と言われました。それにより大空の上と下に水を分けられたと言うのです。つまり、古代の人は大空に水があると考えていたのです。それが雨となって落ちてくるということです。これで第二日です。第三日は「天の下の水は一つ所に集まれ。渇いた所が現れよ」と言われました。つまり海と陸が造られたのであります。そして、「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種をもつ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」と言われました。第四日は太陽、月、星等が造られます。それにより毎日になります。第五日は「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」と言われました。さらに「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ」と言いました。そして、この第六日には人間もお造りになったのであります。こうして日曜日から始めて金曜日の第六日に天地をお造りになりました。創世記2章1節から3節に、「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」と記しています。ここに安息日の根拠になる示しがあるのであります。
 聖書の人々がエジプトの奴隷から解放され、神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地へ旅発つ時、神様は人々に十戒をお与えになりました。十戒は人間が生きることの基本的な約束であります。第一戒から第四戒までは神様を中心とする戒めです。第五戒から第十戒までは人間を中心にする戒めです。第一戒は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、第二戒は「あなたはいかなる像も造ってはならない」、第三戒は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」です。そして、第四戒に安息日に関する戒めがあるのです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章)。
 この安息日規定がありますので、ユダヤ教ではこの日を絶対的な日としています。安息日には一切の働く事が禁じられているので、金曜日の内に食事の支度をしておきます。交通機関、バスや鉄道、飛行機まで運休すると言われています。新約聖書の時代にイエス様との間に安息日論争がありますが、安息日問題は現代においても存在しているのです。

 今朝の旧約聖書は先ほど引用した出エジプト記20章8節から11節です。十戒の第四戒になりますが、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と戒められています。安息日を心に留めるということは、神様の天地創造の恵みを示されることであります。そこで、私達は天地創造の恵みと言うものを心に留めなければなりません。天地創造をお恵みだと受け止めるだけではなく、天地創造が示す所のお恵みと言うことです。創世記の天地創造の記録を読んで、これが天地の始まりであるとは考えられません。これは神話の世界であります。科学的に考えれば、天地がこのようにできたとは考えられないのです。いわゆる進化しつつ今のようになったのであります。箱根の湯本に地球博物館があり、見学しています。原始時代のものが展示されているのです。それらが進化して今日があることを示されるのであります。しかし、科学者たちも太古の世界を想像しますが、やはり最初は神様が創造されたと言わざるを得ないのであります。
 このように天地創造については未確定でありますが、創世記は天地創造を示すことによって、神様が確実にこの世に、人間に介入していることを証ししているのであります。創世記の示しによりますと、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇は深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記しています。つまり、最初は混沌であり、何が何だかさっぱり分からなかったのであります。創世記を書いている人も見たわけではありません。信仰において、そうであったろうと記しているのです。何が何だかさっぱり分からない状況の中に、神様は「光あれ」と言葉を与えられたのであります。すると、混沌であった状況に光が現れ、昼と夜に分けられたのであります。混沌の中に神の言葉が与えられる。するとはっきりとするようになるということです。神様は次々に言葉を与えられました。形あるものが現れてくるのです。つまり、神様の言葉が方向づけるということであります。私たちもこの社会を考えるとき、その動き、流れに対して、何が何だかさっぱり分からないのです。だからこそ神様がこの状況の中に言葉をくださっているのであります。天地創造の神様のお働きはそこにあるのです。神様が私の現実に言葉をくださり、私を方向づけてくださっているということなのです。
 さらに植物にしても、動物にしても、人間にしても、神様の言葉によって造られているということを示されなければなりません。大切な神様の言葉が、地上の存在の根源であるということです。従って、私達は一つひとつの存在を尊重し、大切にしなければならないのであります。天地創造の示しとして、もう一つ大切なことがあります。それは人間の創造であります。創世記は1章1節から2章3節までの天地創造を書いた人と2章4節以下を書いている人が異なります。従って、2章4節以下で、「これが天地創造の由来である」として、別の書き方で天地創造を記しています。特に人間創造は意味深く示しています。2章7節、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者になった」と示しています。土で人の形を造りましたが、まだ人間ではありません。その人の形に神様の命の息を吹き入れたのであります。それにより人は生きた者となったと示しているのです。人間は神様の命の息をいただいて生きるものであると示しています。
 安息日を覚えるということは、神様の言葉によって形あるものができ、人間は神様の命の息をいただいて生きた者となることを心にとどめることであるのです。その意味でも安息日は大切であり、絶対的な日として定められているのであります。

 安息日は人間に方向づけと命の根源を示すものです。新約聖書において安息日論争が展開するのは、安息日を真にとらえているかと言うことになるのです。当時の人々は十戒に示されている戒めとしての安息日であり、それに対して主イエス・キリスト安息日の真の意味を示されているのであります。今朝の新約聖書ルカによる福音書6章1節から11節であります。安息日論争が展開されています。一つのことは、労働問題です。ある安息日に、イエス様と弟子たちが麦畑を通った時、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べ始めました。するとそれを見たファリサイ派の人々、戒律を厳格に生きる人々ですが、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と抗議するのでした。つまり、麦の穂を摘むということは労働行為であるのです。安息日はいっさい働くことが禁じられています。それに対してイエス様は、「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことはないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」と言われたのです。戒めによって禁じられていたパンを食べることは、ダビデ王は超法規的に破ったのです。王様であるからです。戒めよりも、生きることが優先されたということです。「人の子は安息日の主である」と結んでいます。つまり、ここにダビデ王以上の存在がいることを示しているのであります。戒めよりも人が真に生きることが大切なのであります。
 それに続いても安息日論争が展開されています。イエス様は安息日に右手の萎えた人を癒されました。人々はイエス様がこの人をどうするか批判的に見つめていたのです。人々の批判を見抜いたイエス様は、「あなたたちに尋ねたい。安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことが。命を救うことか、滅ぼすことか」と言われつつ、手の萎えた人を癒されたのであります。安息日は神様の命の息をいただいていることを示される時なのです。神様の言葉によって方向づけられることなのです。安息日こそ一人の存在が喜びつつ生きることが導かれることなのです。表面的に戒律を守る、守らないことではなく、安息日の真の意味を受け止めて生きるべきなのであります。当時のユダヤ教の人々は、イエス様の問いかけを聞こうとはしませんでした。安息日に真の命を与えておられるイエス様の前に立ちはだかっていたのであります。主イエス・キリスト十戒安息日の戒めが示されているとしても、安息日の真の意味を教えておられるのであります。単に神様が休まれたから、人間はいっさいの働きを禁じるというのではなく、安息日を起点として歩み始めることなのです。安息日に新しい命をいただいて歩み始めることを示されているのです。イエス様は今朝の聖書以外でも、安息日を真の喜びの日としています。安息日に病気の人が癒され、布団を片付けています。安息日に布団を片付ける労働を祝福されているのです。

 安息日は金曜日の夕刻から始まり土曜日の夕刻までであります。今日のユダヤ教もその通りに守っています。しかし、キリスト教は日曜日に礼拝をささげています。それは、主イエス・キリストが金曜日に十字架にかけられ、埋葬され、三日目の日曜日に復活され宝です。そのため、キリスト教では日曜日にご復活の主を仰ぎ見つつ礼拝をささげるようになったのであります。従って、日曜日はご復活の主イエス・キリストを仰ぎ見つつ神様を礼拝する日にしたので、自ずと日曜日がお休みになりました。このお休みは次第に世界に広がって行き、日曜日は公休日になったのであります。私達、キリスト者にとっては礼拝をささげる日が日曜日であります。
 日曜日は一週間の働きをしてのお休みと言うことで、意義のある日であることは言うまでもありません。だから、のんびりと休むことは大事なことであります。週日に仕事をしているので、家族との触れ合いが持てない人にとっては、唯一の時なのです。また、子供たちにしても、毎日学校に通いつつ過ごしていますが、日曜日には好きなスポーツや遊びで過ごすことは喜びであるのです。昔は、教会、教会学校に多くの子供たちが出席していました。教会学校は礼拝をささげ、その後は楽しく過ごす時を与えてくれるからです。しかし、その後は地域的な活動が盛んになり、地域の子供活動のため教会学校から離れて行くのです。さらに勉強にも力を入れなくてはならず、塾に通ったりします。そして部活と言い、日曜日でも学校に行っては練習したりするのでした。日曜日は教会で礼拝をささげる日であるから、日曜日の午前中の活動は、学校や地域の活動を中止するよう裁判に訴えた牧師がいました。もちろん、勝てるはずがありません。裁判にもならなかったということです。
 私どもの娘の羊子は中学生になり、ブラスバンドの部活に入りました。しかし、日曜日は教会の礼拝に出席するので、日曜日の部活はお休みするとはっきり宣言したのであります。部活の先生も友達も理解してくれたようです。その姿勢は立派であったと思います。生まれたときから礼拝の生活であり、日曜日は礼拝をささげながら成長してきたのでした。幼稚園の頃から教会学校の礼拝奏楽を担当しているのです。彼女はスペインに渡りましても、礼拝出席を大切にし、プロテスタントの教会に巡り合えないので、カトリック教会の礼拝に出席し、奏楽を担当しているのです。皆さんから喜ばれているのです。
 日曜日は安息日であるのです。安息日は神様が天地を創造されてお休みとしたのでありますが、安息日を心から受け止めることにより、真に生きる者へと導かれるのです。天地創造の神様は、人間に言葉を与えて生きる指針、方向を与えておられます。そして、命の息を与えて生きる者に導かれるのです。安息日を覚えることの意味なのです。私達が日曜日に礼拝をささげるのは安息日と同じであります。ご復活の主イエス・キリストが生きて働き、私たちを導いてくださることを礼拝により示されます。神様の御言葉を与えられて新しい歩みが導かれるのであります。新しい命が与えられ、真に生きる者へと導かれるのであります。混沌としたこの社会の中に神様は御言葉を与えておられます。新しい方向を与えてくださっているのです。新しい命をいただいて歩みましょう。
<祈祷>
聖なる神様。主のご復活の日に私たちを御前に導いてくださり感謝致します。新しい方向を与えられ、新しい命を歩ませてください。主の御名によりおささげします。アーメン。