説教「新しい教え」

2019年2月3日、六浦谷間の集会 
降誕節第6主日

説教・「新しい教え」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書13章1-11節、コリントの信徒への手紙<一>2章1-5節
   ルカによる福音書5章33-39節
賛美・(説教前)讃美歌21・289「みどりも深き」
   (説教後)讃美歌21・544「イエス様が教会を」

2月となり、明日の2月4日は立春を迎えますので、春に向けての思いが深まっております。やはり冬の時代は身を縮めて歩むことになりますが、春ともなれば背筋を伸ばしつつ、のびのびと歩むことが導かれるのであります。なによりも新しい教えを示されつつ歩みたいのであります。新しい教えをいただきつつ歩むとき、現実が力強く導かれるのです。
 先日の1月31日は2011日に召天された小林利夫先生の召天記念式および偲ぶ会が、日本聖書神学校で開催されましたことが心に示され、思いだしていました。小林利夫先生は横須賀上町教会と深い関係を持たれておりました。私も同教会に7年ほど関わりましたので、折にふれ小林利夫先生のことはお話しをしていました。常々森田裕明先生からも伺っております。森田裕明先生が卒業するときに小林利夫先生が日本聖書神学校の校長先生に就任されましたので、卒業証書は小林利夫先生のお名前で受理されました。森田裕明先生は卒業すると北海道の教会に赴任しますが、4年ほどして横須賀上町教会の牧師に就任されました。横須賀小川町教会とはごく近くであり、何かと同教会の小林利夫先生にはお世話になるのであります。特に森田牧師が大きな病気で入院、手術された時、小林先生が応援してくださり、その後も森田牧師の健康を見ながら同教会の講壇に立たれたのでありました。
 小林利夫先生は私よりかなりの先輩になりますが、何かとご一緒に仕事をして来ました。私が神奈川教区議長の時、神奈川教区としてキリスト者の老人施設を造る計画を持ちました。その時、小林先生はまだ横須賀小川町教会の牧師であり、その計画に参加してくださり、いろいろと物件を紹介してくださったり、御意見をくださったりしたのであります。神学校の校長先生を退任されてから、教区主事にご就任いただくために、葉山のお宅にお願いに行ったこともありました。日本基督教団の常議員や教師委員会の委員になるときは、私達神奈川教区の者たちが推薦させていただいたのであります。私にとりましては、小林利夫先生と同労者として、主の宣教を共にさせていただいたとの思いが深いのであります。小林利夫先生が横須賀上町教会にて説教されたように、私自身も同教会で講壇に立つことは神様のお導きであると受け止めています。
 1月31日の召天記念式および偲ぶ会に出席したとき、先生のご著書である「ついのすみか」をいただきました。また、「みことばカレンダー」もいただきました。おりおりに書かれた御言葉を日々の聖句としています。2日ずつ御言葉が書かれています。5日と6日の聖句は、「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」であり、ペトロの第一の手紙5章6節の御言葉です。日々、神様の御言葉により新しい姿へと導かれたいのであります。聖書の言葉は、私たちを新しい者へと導いてくださるのです。今朝は「新しい教え」との主題で聖書の示しをいただきます。小林先生の「みことばカレンダー」による聖書の示しも新しい教えに導かれます。常に聖書から新しい示しをいただきたいのであります。教団の「信徒の友」の「日毎の糧」による聖書の示しも新しい教えを示してくださるのです。

 神様の御言葉を新しく保つのか、おろそかにするのかで、新しい教えがわかれて来るのです。そのことを示すのが旧約聖書の示しであります。今朝は預言者エレミヤへの神様の示しが与えられています。エレミヤ書13章1節で、「麻の帯とぶどう酒のかめ」と標題がありますが、今朝は「麻の帯」を通しての示しであります。神様はエレミヤに麻の帯を買って、それを腰に締めなさいと命じます。エレミヤはその通りに麻の帯を買って腰に締めるのです。しばらくすると、神様は麻の帯をはずし、ユーフラテス川の岩の裂け目に隠しなさいと言われました。エレミヤは言われた通りに致します。そしてその後、神様は隠しておいた麻の帯を取りだしなさいと言われました。エレミヤが言われた通りにしますと、帯は腐り、全く役に立たなかったのであります。使わないものは腐食したり、使えなくなることは、私たちも知る通りであります。
 子供に対する例話ですが、まあ太郎さんと言う人がいました。太郎さんは、今は自分が丈夫であることを喜んでいます。しかし、心配になるのです。年を取ったらこの丈夫な体は駄目になる。だから今の丈夫な体を大事にしましょうと思うのです。手は二本あるので、一本あればよいと思います。一本は年を取ってから使いましょうというわけで、一本の手は使わないようにし、絶えずポケットに手を入れていました。足も二本あるのはもったいない。一本は年を取ってから使いましょうというわけで、一本は使わないでケンケンして動いていました。二つあるのはまだあります。目、耳、鼻等、二つあるものは使わないようにしたのです。目は眼帯、耳は耳栓、鼻の穴にも栓をしています。こんなふうにして、年を取りました。さて、若い時に丈夫であって、しまっておいた体の部分を使いましょうと、手を動かそうとしますが使えません。足も歩こうとするのですが歩けません。片方の目は見えなくなっていますし、片方の耳は聞こえなくなっているのです。言うまでもなく使わなかったからであります。
 神様がエレミヤに示していることはそのことなのです。神様の御言葉を受け止め、現実に与えられながら生きるときに、力となり支えとなるのです。神様はそのことを麻の帯を通して示しました。そして聖書の人々が神様の御言葉をおろそかにしていることを知らせるのでした。「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった」と神様はエレミヤに示しています。聖書の人々は常に神様の御言葉をいただき、しっかり身に付けて歩まなければならないのであります。さらに神様は言われました。「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光をしめすものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」と聖書の人々の堕落を示しているのであります。
 偶像、人の手で造った神々は、新しい教えを示すものではありません。偶像は人間の心を示すものなのです。人間は自分の思いを偶像に投げかけ、それがあたかも神様の答えであるかのようにしています。自分の思いなのですから、何の新しい教えではないのです。自分の欲望をそのまま偶像の神に投げかけ、偶像の神の答えとしている人間には新しい教えの歩みはないのであります。神様の教え、御言葉こそ新しい教えとしなければならないのであります。

 ルカによる福音書5章は、イエス様がお弟子さん達を選び、その宣教を深めているところであります。今日の示しは5章33節以下でありますが、前の段落では徴税人レビを弟子にしたことが記されています。レビはイエス様を自分の家に招き宴会を開きました。その時、レビと同じ職務をする他の徴税人達も一緒に宴会に臨みました。それを見た指導者達、律法学者たちは、イエス様の弟子たちに言うのです。「なぜ、あなたたちは徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と言うことです。当時の世界では、徴税人は罪人と理解されていました。ローマ帝国のために自分たちから税金を取り立てるからです。これはローマに支配されている以上、仕方ないことなのでありますが、面白くない思いが徴税人を罪人としてしまっているのです。罪人と言っていますが、これは病気の人、体の不自由な人々のことです。聖書の世界は因果応報的に考えている時代ですから、病気は罪の結果としています。本人か先祖が罪人なので病気になっていると考えているのです。レビはイエス様と食事をする時、仲間の徴税人や病気の人などを大勢招いたのでありました。その指導者達の問いかけに対してイエス様は答えています。「医者を必要としているのは、健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とお答えになりました。
 当時の人々は、自分は律法を守っている、だから正しい人間なのだと思っています。本当の自分を見つめないのです。だから、今イエス様が現れたのであり、イエス様から神様の御言葉を聞き、新しい教えに耳を傾けるべきだと示しているのです。人々はイエス様に言いました。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちと同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」と批判しているのです。それに対してイエス様は、新しい教えをする存在が今いるのに、どうして断食したり祈ったりするのかと言うことです。新しい教えを示す人がいなければ、断食をし、お祈りして神様の示しを求めるのです。しかし、今は新しい教えそのもののイエス様が現実におられるのです。そこでイエス様はたとえを持って示しています。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」と示しています。新しいものと古いものとは共存できないと示しているのです。同じようにぶどう酒のたとえも述べておられます。「だれも、新しいぶどう酒を旧い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならない」と示しています。
 これは当時の社会、律法に生きる社会を示しているのです。旧約聖書に示された十戒の基本的な生き方を守りつつ生きているのが社会の人々でした。「汝、殺すなかれ」との戒めに対して、普通の生活は殺すことなどしていません。だから人々は律法を守っていることになります。しかし、イエス様は、「わたしは言っておく。兄弟に腹を立てるものはだれでも裁きを受け、兄弟に『愚か者』と言うものは、火の地獄に投げ込まれる」と厳しく示しています。つまり、イエス様は表面的に神様の御心を守るのではなく、内面的に御心をいただくことを教えているのであります。盗むことにしても同じであります。人々は盗んではいませんが、絶えず他者の持ち物に心を寄せているのです。そうした、今までの律法の守り方ではなく、真に心から神様の御言葉を受け入れなさいと示しているのです。イエス様は新しい教えを述べているようですが、新しい教えではなく、今までの教えを新しい思いを持っていただくことを示しているのであります。新しい革袋として、イエス様の新しい教えをいただくことなのです。いままでの教えがイエス様によって新しく示されているということなのです。そのためには、自らを罪人としなければなりません。罪人を癒すお医者さんとしてイエス様を受け入れなければならないのであります。

 小林利夫先生について冒頭にお話ししました。先生は40年間牧師としてお働きになり、その後は神奈川教区の巡回教師、教区主事等を務めながら歩まれました。エッセイ集「ついのすみか」の中で、「出前説教」との題で執筆されています。巡回教師として教会の講壇に立つ場合、その教会には牧師がいなかったり、教師が就任していても補教師である場合、聖餐式を執行することはできません。それで正教師をお招きして説教をしていただくと共に聖餐式を執行してもらうのです。あるいは教会の牧師が病気であったりすると、応援に行き説教を担当します。その辺りの心境を「出前説教」の項目で記しています。出前説教で務めていることは「3S」と言うことでした。「3S」とは、「short、simple、spiritual」とのことです。その教会の牧師ではないので、長い説教ではなく短く、込み入ったものではなく簡単に、そして何よりも霊的な説教でなければならないとしているのです。私も小林利夫先生と同じく40年間、教会の牧師として歩んでまいりましたが、今は小林先生と同じように出前説教をする身になっています。この小林先生の「3S」に示されながら諸教会の講壇を担いたいと示されたのであります。
 それからエッセイ集の中で、これは本の題にもなっていますが、「終の住家」と題して記されています。ご自分の家から、家を出ていろいろな家に住むことになった経緯を記しています。多くは牧師館に住むことでした。その牧師館も天井裏であったり、市場の隣であったり、いろいろとご苦労の多い暮らしをされました。牧師は社宅のように教会が住まいを提供してくれるのですが、問題は牧師を退任してからです。大きな教会の牧師は退職金も多いので、マンションを購入したりすることができますが、多くの牧師は退任後の住居に頭を悩ますのです。小林先生の場合、神様のお導きがあり、葉山の御用邸の近くに家を購入することができました。皆さんから、葉山にお住まいになってよろしいですねと言われるそうです。確かに温暖な気候でよろしいのですが、風雨が激しく、下水道が整備されてないということなどで、決して良い生活ではないと記しています。そのように述べながら、「真の終の住家としての神の国は、単に未来的なものではなく、信じる者にとっては、現在的意味を持っている。この世の住家がたとえ『御殿』のような立派なものであったとしても、それは仮の住家にすぎない。人は必ず死の時を迎える。その時まで仮の住家に住みながら、天における真の住家の住み心地の『先取り』あるいは『味見』を許されているのである」と記されています。先取り、味見をしつつ79年の生涯を終えられましたが、主イエス・キリストの新しい教えを常にいただき、喜び、希望を持ちながら歩まれたのであります。
今朝はイエス様から新しい教えをいただく私たちを示されたのであります。イエス様の新しい教えは永遠の命へのお導きなのです。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様により新しい教えをくださり感謝致します。信仰による力強い人生を歩み、永遠の命を得させてください。主の名によりおささげします。アーメン。