説教「神様の御心はそこに、あそこに」

2022年1月23日、三崎教会

降誕節第5主日」       

                      

説教・「神様の御心はそこに、あそこに」、鈴木伸治牧師

聖書・申命記30章11-14節

   ペトロの手紙(一)1章3-12節

   マルコによる福音書1章21-28節        

賛美・(説教前) 讃美歌21・204「よろこびの日よ」

   (説教後) 讃美歌21・521「とらえたまえ、われらを」

 先日はトンガの噴火により、津波が発生し、日本の国、特に太平洋側は津波が押し寄せました。三浦半島、三崎も危険な状況であるとの報道で心配していました。何回も危険報道がありました。そしたら、後で知らされたことですが、神奈川県は誤作動で、誤って何回も危険の報道をしたということでした。大きな被害はなかったので良かったと思います。私たちは言葉の世界に生きているので、その言葉の諸問題を示されています。

 テレビでは毎日のように「振り込め詐欺」の被害を報じています。巧みに言い寄っては騙すこと、人間不信に陥ります。人の言葉が信じられなくなっているような社会になっています。詐欺ということでは、私が若い頃、私の母が詐欺にあったことが思い出されます。ある日、私を訪ねてきた若い男が母に「お兄さんいますか」と言いました。母は「伸治(のぶはる)のことですか。今は出かけています」と言うと、その男はそれからは「伸ちゃん」というようになり、母はすっかり信用してしまうわけです。結局、幾らかのお金を貸したのでした。もちろんそのような男は知りませんので、交番に母と共に出かけて行き、詐欺にあったことを届けたのでした。今から60年も昔のことです。いつの時代でも、人をだましてお金を巻き上げることがありますが、今の時代は気が遠くなるようなお金が巻き上げられているのです。人の言葉は信用できないのです。まして知らない人の誘いの言葉は信用できないということです。しかし、人間の中に生きているのですから、基本的には人間を信用しなければならないのです。信じるの「信」は人偏に「言う」と書きますから、人の言葉は信じるに値する、ということから「信」の言葉ができているのです。人間の言葉を信用する基となるのは、私達にとって神様の御言葉であるということです。神様の御言葉が基となって、人間の言葉を信用し、共に生きる者へと導かれたいのであります。

 神様の御心が示され、御心により生きること、それが祝福の人生であると聖書は示しています。今朝は旧約聖書申命記の示しであります。申命記との題が付けられていますが、ヘブライ語原典は「言葉」であります。申命記1章1節に「モーセイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」と記されていますが、この「言葉」がそのまま題になっていました。日本語で申命記としていますが、申命記の申は「申す」と言うことであり、その「申す」は「重ねて言う」との意味合いがあります。従って、「重ねて神様の御言葉を示す」ことが申命記なのであります。エジプトの奴隷から解放されて、まず人々に与えられたのは十戒でありました。その十戒を基にして神様の御言葉が語られているのであります。この申命記の中で、御言葉を語っているモーセが繰り返し神様のご命令である御言葉を語っているのであります。

 「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」と申命記30章11節で示しています。神様が与えた戒めを難しく考えてはいけませんと言うのです。実際、最初に与えられた十戒は、人々が毎日の生活の中で、普通に生活していれば、守っていることの戒めでした。「汝、殺すなかれ」、「汝、盗むなかれ」という戒めなのです。普通の生活をしていれば殺すことも、盗むこともないのです。しかし、自分を中心にすることによって、神様の御心から反する姿が出てくるのです。「この戒めは難しすぎるものではない」と言われますように、生活の中でそのまま受け止めることなのです。「それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取ってきて聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うに及ばない」と示しています。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と言われています。御言葉は遠くにあるのではなく、あなたの生活の中にあると言われています。

 私の生活の中に御言葉があるのです。わざわざどこかに出かけていく必要はありません。神様が私の生活の中に御言葉を下さっているのです。私が人と話しているときにも御言葉が示されているのです。家庭で家事をしているときにも御言葉は示されているのです。社会の中で働いているときにも御言葉は私の中に置かれているのです。その御言葉が突然響いてくるのです。突然、私に迫ってくるのです。実に御言葉は常に私に与えられていることを認識しなければならないのです。30章16節には「わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える」と示しています。神様を愛すること、すなわち神様に心を向けること、それにより神様の御声がはっきりと聞こえてきますよと述べています。それが、まさしくあなたの命であると言うのです。神様に心を向けていることにより、私の生活の中にはいつも御言葉があると言うことです。

 新約聖書マルコによる福音書は主イエス・キリストが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われ、宣教を開始されたことが記されています。そして、すぐに4人のお弟子さんをお選びになり、町々、村々に教えを開始して行ったのであります。イエス様の福音が始まっていったのであります。

 今朝は1章21節からであります。「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」のです。会堂はユダヤ教の会堂です。イエス様が教えを始められましたが、ここでキリスト教として教え始めたのではありません。時の社会に現れた主イエス・キリストは、今まで律法により生きている人々に、改めて律法による生き方を示しているのであります。しかし、今まで通りではなく、改めて律法の示すところを見つめなおし、神様の御心を示したのであります。そのことについてはマタイによる福音書5章に示されています。「『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と示しています。普通に生活していれば「殺す」ことはありません。しかし、友達に対して憎しみを持ち、怒りを持つことも「殺す」ことなのだと示しているのです。表面的な結果ではなく、心の中まで戒めを受け止めることを示しているのです。

 そのようにイエス様が権威ある者として教えておられると、汚れた霊に取り付かれた男が叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と言いました。そこで、イエス様はその汚れた霊を追い出すのであります。イエス様は人の内面にある罪ある姿に焦点を当てているのです。それが汚れた霊でした。汚れた霊に取り付かれている人々が多くいますので、イエス様は福音を宣べ伝えるのであります。福音が始まりました。多くの人々、汚れた霊の人たちがイエス様によって癒されていくのであります。私の中に御心が置かれること、御心によって生きること、それが今朝の示しであります。モーセ申命記において繰り返し神様の御心を示し、教えました。主イエス・キリストは人間の汚れた霊、すなわち自分中心の生き方、内面にまで律法の光を当てたのです。「あなたがたは神様を愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と教えます。表面的ではなく、全身で友を受け止めなさいと示しています。

 神様の御言葉は私達の生活の中に示されています。生活の途上、人々の関わりの中で、神様の御言葉が導いてくださっているのです。

 神様の御言葉はどこにあるのか、「ここに」とか「そこに」というのは何所か、素朴に思います。神様の言葉が物体のように、何所かに置かれているようです。それを見つけようとしているのでしょうか。時々、お祈りについて示されることがあります。その時、「大福」のたとえをお話しています。太郎さんが大福を食べたいので、いつも「大福を与えてください」とお祈りしているのです。しかし、太郎さんは大福を食べる機会がないのです。神様はお祈りを聞いてくれないのだ、と思ってしまうのです。しかし、神様はお祈りを聞かれないのではなく、別の形でお応えになっているのです。大福に代わる食べ物です。小さい子供が、寝る前に甘い食べ物をお母さんにねだりますが、お母さんは与えないでしょう。その代わりお水を少し飲ませてあげるとか、添い寝して本を読んで上げるとか、子供の願いに答えているのです。この例話と同じです。神様の御心を求めている私達は、自分の思っているような神様の御心を待っているのです。自分の思いではない、神様の御心は「ここに」、「そこに」示されているのです。この現実の中に御心が与えられているのです。自分の思いで御心を求めている私達です。神様の御心はそこに、あそこに示されているのであります。

<祈祷>

聖なる神様。十字架の御救いを与えられ、お導き下さり感謝いたします。み言葉を常にいただかせてください。キリストの御名により。アーメン。