説教「喜びの人生を選びつつ」

2017年9月10日、横浜本牧教会
聖霊降臨節第15主日」 

説教・「喜びの人生を選びつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・列王記上3章10-15節
     ローマの信徒への手紙8章18-25節
     マタイによる福音書13章44-52節
賛美・(説教前)讃美歌21・494「ガリラヤの風」
    (説教後)545「まことの神」


今朝も横浜本牧教会の講壇に立たせていただき、み言葉を取り次がせていただくお恵みを感謝しています。昨年の10月から、月に一度でありますが、説教を担当させていただき、もう一年も経たとの思いです。2010年4月から9月まで、代務者と幼稚園園長を担わせていただきました。そのときは毎週、説教を担当させていただきましたが、半年でしたので、瞬く間に過ぎてしまいました。月に一度にしても一年間も横浜本牧教会の講壇に立たせていただきますと、なんか、この講壇に愛着のようなものを感じ、喜んで務めさせていただいているのです。
 先日のことですが、幼稚園が終わり、当日は半日でしたので、いつもは連れ合いが作ってくれるお弁当を持参していたのですが、その日はコンビニにお弁当を買いに行きました。そうしましたら園児がお母さんの自転車に乗せられて私を追い越していきました。その園児が、振り返りながら、「園長先生、からだ、大事にね」と言いつつ遠ざかって行ったのです。園児が励ましの言葉を贈ってくれた、すごく嬉しく思いました。幼稚園児との思いでいますが、その園児が園長の体を気遣ってくれたのです。本当にありがたく思いました。子どもたちなりに年取った園長を受け止めてくれているのだと思いました。
 8月13日はこちらの教会の講壇に立たせていただきましたが、8月27日は大塚平安教会に招かれまして、久しぶりに講壇に立たせていただきました。娘の羊子が大塚平安教会にもご挨拶に伺いたいとの思いがあり、大塚平安教会に伺うことになったとき、教会は羊子に礼拝奏楽を要請してくださり、親子で務めさせていただきました。大塚平安教会は2015年6月に新会堂が完成しました。私はこの大塚平安教会に30年間、牧師として、また幼稚園園長として務めてきたのです。私は2010年3月に大塚平安教会を退任しました。その2、3年前より建築計画が進められており、複雑な土地の状況があり、なかなか進められなかったのですが、それらがクリアされ2014年から建築工事に入ったのであります。そして献堂式がささげられました。献堂式にお出でくださった周辺の牧師たちは私に対して、お祝いの言葉をくださるのでした。退任しましても長年大塚平安教会の牧師であったからです。ところが、献堂式では祝辞をいただくのですが、一番最初に祝辞を述べることになったのです。一般的には、祝辞というものは、他の教会の人が述べるのでありまして、大塚平安教会の者として皆様からお祝いの言葉をいただいたのに、あたかも他所の人のように祝辞を述べることの意味に疑問を持ちました。もうこの教会の牧師ではない、との思いを示されたのでした。8月27日に大塚平安教会の講壇に立たせていただいたときにも、よその教会の講壇に立たせていただいているとの思いでした。
 そこで、先ほど紹介した園児の言葉に戻るのですが、「園長先生、からだ大事にね」との涙が出る言葉は、横浜本牧教会に関わっているとの思いが強まるのです。今朝は「喜びの人生を選びつつ」としていますが、喜びの人生を選ぶのではなく、神様のお導きにより、喜びの人生が与えられていると示されなければなりません。今は、この状況へと神様が導いてくださっているということです。お導き、お恵みを一つ一つ数えながら歩みたいのです。

 今朝の旧約聖書は喜びの願い事についての示しであります。旧約聖書では名君と言われたダビデ王様がいました。ダビデ王は神様のお心に従い、聖書の国を治めた人でした。ですから、後の時代の人々は、再びダビデのような王様が現れることを願いました。それがメシア待望思想になって行きます。救い主出現の願いになって行ったのであります。そのダビデの子供がソロモンです。ダビデ王に継いでソロモンが王様になったとき、神様はソロモンが寝ている夢枕に現れ、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。神様がソロモンに、願うものは何でも与えると言っているのであります。言われるままにソロモンは願い事を神様に申し上げました。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。また、あなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父タビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」とお願いしたのでありました。すると神様は、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と言われたのであります。これらの神様のお言葉とソロモンの願いは夢の中で示されたことでありました。しかし、この夢の通りにソロモンは祝福され、人々の希望となったのでありました。ソロモンは絶えず神様のお心、すなわち知恵を求めて歩みました。人々の希望となりましたが、ソロモン自身の希望でもあったのです。ソロモンの希望とは、旧約聖書の時代には天国、永遠の生命への希望はありませんでしたので、神様の祝福をいただくことでありました。神様の祝福をいただくために、神様の知恵を求め、その知恵を国民に示したのであります。
 今朝の聖書は列王記上3章1節から15節まででありますが、その後の16節以下にソロモンの知恵による裁きが示されています。二人の女性が一人の赤ちゃんを抱いて王様のもとに裁きを求めてやってまいりました。二人は同じ家に住んでおり、二人とも前後して赤ちゃんが生まれました。ところが、その後一人の赤ちゃんが死んでしまいます。それで二人の女性は生きている一人の赤ちゃんは自分の子供であると主張しているのです。一人の女性は、朝起きたら横にいる赤ちゃんが死んでいたと言い、しかしよく見るとこの赤ちゃんは自分の子ではなく、もう一人の女性の子供であるというのです。しかし、もう一人の女性は死んだ子供は自分の子供ではなく、生きている子供が自分の子供であると主張します。ソロモン王様は言い争っている二人の女性に対して、お裁きを言い渡します。家来に剣を持ってくるように命じます。そして、生きている子供を剣で二つに切り裂き、一人に半分を、もう一人に半分を与えるように命じるのです。生きている子供の母親は、「王様、お願いです。この子供を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言いました、しかし、もう一人の女性は、「この子供を私のものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言うのです。王様は「この子を生かしたまま、先の女に与えよ。この子を殺してはならない。その女性がこの子の母である」というのでした。この王様のお裁きは国中に知れ渡り、ソロモン王様を畏れ敬うようになったのであります。神様の知恵が王様のうちにあって、正しい裁きを行うのを人々は深く受け止めたのでありました。祝福の歩みを選んだということです。

 神様の御心に生きることは神様の祝福でありました。それが旧約聖書の生きる姿でありますが、新約聖書時代になりますと、御心に生きる道は主イエス・キリストによって示されるようになりました。マタイによる福音書13章44-52節は「天の国」についての主イエス・キリストの教えであります。このマタイによる福音書13章は全体的に「天の国」についての教えであります。13章1節以下では「種を蒔く人」のたとえが示されています。種を蒔く人が種蒔きに出て行きます。蒔いているうちに、ある種は道端に落ち、他の種は、石だらけで土の少ないところに落ち、他の種は茨の間に落ちます。それらはみな悪条件ですから成長せず、実を結びません。しかし、良い土地に落ちた種はすくすくと成長し、百倍、六十倍、三十倍になったということであります。良い土地は神様のお心をいただく人々であります。実を結ぶことは祝福でありますが、天の国に生きる者へと導かれていると教えているのです。13章31節以下は「からし種」と「ぱん種」のたとえが示されています。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」と教えています。このたとえは、からし種が次第に大きくなるということではなく、小さいからし種に対して、大きな天の国の祝福ということであります。つまり、今の自分は真に小さな存在でありますが、天の国という大きな祝福へと導かれているということなのであります。イエス様のお心をいただいて生きる私は、この社会の中で片隅に生きていると思っています。しかし、たとえ片隅に生きているような私でありますが、天の国という大きな祝福へと導かれるということなのです。その後の「パン種」のお話も同様であります。
 今朝の聖書は13章44-52節でありますが、「天の国」のたとえとして示されています。13章全体が「天の国」の教えであると示されています。その場合、「種を蒔く人」のたとえは、神様のお心をいただく私たちの姿勢、御言葉を素直にいただいて生きることでありました。「からし種」のたとえは、この世に生きる私たちの存在がどんなに小さなものでも、天国の大きな祝福を与えられるという教えでありました。それに対して、今朝の「天の国」のたとえは、天の国に生きる者になるという教えであります。まず、認識しておかなければならないことは、イエス様が教えておられる「天の国」とは、死んで彼方の国、すなわち永遠の命でありますが、死んでからのことではなく、生きている今において永遠の命に至る歩みをするということなのであります。そのことを前提にしてイエス様の教えておられる「天の国」を示されたいのであります。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」というお話しです。イエス様の時代、お金にしても宝物は壷に入れ、地面に隠すのでありました。タラントンのお話しの中で、1タラントン預けられた人は、それを地面に隠したのでありますが、それは当たり前のことでもあったのです。強盗等に奪われないためです。しかし、地面に隠した持ち主が死んでしまったり、いなくなってしまったりすると、地面に隠されたお金は誰にもわからなくなってしまうわけです。このたとえの場合も、大分前に地面に宝を隠した人がいなくなり、その後別の人がこの畑を持つようになったのです。それで畑は小作人に貸していたのです。小作人は畑を耕していたら、偶然に宝を発見することになりました。不思議に思うのは、借りている畑で発見したのですから、その宝を持ち帰ればよいわけです。ところが、この小作人は持ち物をみな売り払い、この畑を買いました。自分の畑にして、生きる基としたということであります。畑と宝は密接に結びついているのです。
 小作人は持ち物をみな売り払いました。それは今までの自分ではなく、新しい生き方へと導かれたということです。この畑をよりどころとし、宝のあるこの畑は自分に真の希望を与える場であるのです。天の国を生きる場がこの畑であり、そして永遠の天の国へと導かれていくのであります。畑の宝は主イエス・キリストの十字架の救いです。私たちの真の希望は自分の欲望を満足させるものではありません。今この現実の中で天の国を生きるということであります。この私のために十字架にお架かりになった主イエス・キリストの教えを実践しつつ歩むということです。「あなたは自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」とイエス様は天の国へと道を開いておられます。

 久しぶりに大塚平安教会の講壇に招かれ、皆さまと共に礼拝をささげることができまして感謝しています。私が講壇に立つということで、わざわざ出席された方もあり、親しくお交わりいただいた皆さんとお会いできてうれしく思いました。当日は金子さんと言う方もご出席でした。金子さんはオリブ工房の聖書の集いでお会いしています。お住まいが大塚平安教会の近くであり、時々、大塚平安教会にご出席ということでしたが、偶然に私の説教であることを知り、礼拝が終わりまして親しくご挨拶くださいました。皆さんが礼拝に出席されつつ歩まれていること、「喜びの人生を選びつつ」歩まれていることを示されています。今朝、皆さんが礼拝に出席されていること、「喜びの人生を選びつつ」歩まれておられる証しなのです。いつも御心をいただきつつ歩む人生が、どんなにか祝福であるか、示されています。信仰の道をお選びになることで、 一人の方を思い出しています。2010年4月からこちらの教会の代務者を務めさせていただきましたが、就任後間もなく、一人の兄弟をお訪ねしました。末期の癌ということでした。お連れ合いがこちらの教会員でありました。キリスト教の話しを聞きたいということでした。時には礼拝に出席されていたようです。そして余命がわずかなことを知り、イエス様の十字架の救いへと導かれて行くのです。そして、ペンテコステ礼拝で洗礼を受けられたのです。8月には天に召されて行きました。召される前、病院にお見舞いしました。もう召されることは明らかでしたので、私は「すべてイエス様に委ねましょう」と申し上げました。するとその方はベッドの中にがくんと沈むようでした。力が抜けたというか、イエス様にすべてを委ねたのでした。イエス様を信じること、これはお導きです。しかし、自分もまたイエス様を選ぶことなのです。「喜びの人生を選ぶ」ことなのです。祝福の人生へと導かれるのです。主イエス・キリストは十字架にお架りになったのは、私達が「喜びの人生を選びつつ」歩むためなのです。
<祈祷>
聖なる御神様。今朝も宝のある畑に導いてくださり感謝いたします。主の教えにより、天の国への道を歩むことを得させてください。主イエス・キリストによって。アーメン。