説教「御国の保証」

2013年5月26日、クワラルンプール日本語キリスト者集会
「三位一体主日

説教・「御国の保証」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書6章1-8節
    エフェソの信徒への手紙1章3-14節
    マタイによる福音書11章25-30節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・259「天なる主イエスの」


 本日は三位一体主日であります。私達は毎週の礼拝にて信仰告白をしておりますが、私達の信仰の内容を告白するものです。その信仰の内容は父なる神様、子なるイエス様、導きの聖霊様であります。三様の言い方をしておりますが、私達が理解するための三様の言い方なのであり、一体の神様として信じているのであります。神様を仰ぎ見つつ歩む方がおられます。主イエス・キリストの十字架の救いを信じて歩む方がおられます。聖霊の導きを中心にして歩む方もおられます。三様のどれかを中心にしていますが、三様は一体の神様なのであり、時には父なる神様を仰ぎみるでありましょう。十字架の御救いをくださった主イエス・キリストを感謝しつつ歩んでいるでしょう。そして、日々の歩みは聖霊の力強い導きをいただいているのです。三位一体の神様への信仰を持って歩んでいるのであります。三位一体の神様は私達を永遠の生命へと導いてくださるのであります。そのため、私達が神様の子として歩むことが本日の示しとなっています。神の子となることは、天国を相続するものであります。天国を受け継ぐ者へと導かれたいのであります。
 以前、教会の集会で、司会者から一つの絵を見せられました。なんだか分からない絵でありますが、よくよく見ると、そこにはイエス様が書かれていることになります。最初に絵を見たとき、そこには自分の思い込みが働きます。ごちゃごちゃしている絵だな、最初は思います。なんだこれは、絵の内容を見つめます。そこで自分の思いが入ってきます。こういう絵なんだと理解しようとするのです。だから隠されるようにして描かれていることが見えなくなることもあるのです。このことは人を見る目に反省を与えているのです。人を見るとき、まず自分の思いで理解しようとしますから、今までの経験、出会いの人々から考えて、この人は分からないとの結論になってしまいます。そこには偏見が含まれているのです。今、自分の前にいる存在をそのまま受けとめることで、そこに真の出会いて導かれてくるのです。
 言葉の遊びになりますが、言葉のどこに力点を置くか。今、言葉を言いますから、どこに力点を置くでしょうか。「で・あ・い・で・あ・い」です。「出会い、出会い」と受けとめる人がおられたでしょう。しかし、「出会い、出会い」では意味がない。出会いの必要を強調しているようです。これは「出会いで、愛」と読むこともできます。つまり、出会いの人に愛を持って接することが示されるのです。もう一つ考えておきましょう。「ひ・び・き・あ・い」です。どのように読みますか。繋げれば「響きあい」です。しかし「響、愛」ともよめます。宝塚劇団の俳優の名前のようです。さらに「日々、気合い」とも読むことができます。どこに力点を置くかでありますが、三位一体の神様を信じる私達は、三位一体のどこに力点を置くのではなく、むしろ私達に力点が置かれなければならないのであります。私達が天国を相続するために、三位一体の神様が導いてくださっていることに力点を置かなければならないのであります。

 本日の旧約聖書預言者イザヤの召命であります。まず、イザヤは天上の世界を幻のうちに示されるのであります。「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた」ということです。ここでは神様があたかも人間のように記されていますが、幻として示されているのです。「上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた」と言われます。これは天使の存在であります。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と天使たちは唱えていたのでありました。神様のご栄光が地上にもたらされることで、地上は神の国となり、楽園になるのです。その時、イザヤは神様の声を聞きました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と言われています。地上に神様のご栄光を現し、神の国、楽園にするために誰がいくのかと問われています。するとイザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と召命に答えたのでした。従って、預言者イザヤの働きは神の国実現でありました。
 イザヤが召命に応えたとき、神様は言われました。「行け、この民に言うがよい。良く聞け。しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と」、不思議なことが言われています。「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」と言われるのです。この世の中を神様の国に導くことがイザヤの使命なのですが、神様は人々の心をかたくなにするといわれるのです。人々の心を素直にして、人々が喜んで神様の国に生きることが目的ではないでしょうか。神様が人間をかたくなにするとはどういうことなのでしょうか。神様が人々の心をかたくなにするといわれるとき、私たちはエジプトの王様、ファラオが示されてきます。
神様はエジプトで奴隷として苦しむ聖書の人々を救い出すためにモーセを立てます。モーセはファラオに奴隷の人々のエジプトからの解放を求めます。しかし、ファラオはそれを拒否するので、モーセは神様の力を現すのでした。水が血に変ったり、かえるの大群、ぶよの災い、あぶの災い、疫病、腫れ物、雹の災いを与えるのでした。災いが来る度にファラオは解放を告げるのですが、災いがなくなると心を翻してしまうのです。その時、神様は言われています。「わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう」と言われています。何故、神様がファラオの心をかたくなにするのでしょうか。それは口先だけのことではなく、真に事柄を受け止めさせるためなのです。奴隷の人々を解放することは、ファラオにはできないはずです。なぜならば奴隷を解放してしまったら、力を失うようなものなのでできないと言うことです。一時的に困難、災いが来たとき、確かに解放の約束はするものの、災いがなくなれば今まで通りに奴隷として取り扱うのです。
人々がイザヤの言葉を聞いて、「分かった」と言う時、何が分かったというのでしょうか。神の国、祝福の楽園を到来させるために、人々はイザヤの言葉をどのように受け止め、実践するのでしょうか。その問いかけがイザヤ書のメッセージなのであります。
このことは、最初に言葉遊びのようなことをしましたが、私達は常に自分の思いが前面に出てきて、今自分の目の前の真実を見失っているのです。それに対して、私達は「分かった」 と言っているのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と主イエス・キリストは人々を招いています。「あなたがたを神の国に生きる者へと導く」とイエス様は示しているのです。本日の新約聖書11章25節以下は主イエス・キリストの招きの言葉であります。招きの言葉を言う時、「天地の主である父よ。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われています。このマタイによる福音書11章のはじめに、バプテスマのヨハネが、彼は捕らえられて牢屋の中に居るのですが、ヨハネは自分の弟子をイエス様に遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」と尋ねさせるのであります。それに対して主イエス・キリストは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と答えられました。まさに主イエス・キリストが救い主であることを証ししているのです。イエス様はそのようにお答えになってから、バプテスマのヨハネを高く評価しています。ヨハネが悔い改めの説教をしたのに、人々は受け止めなかったのであります。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに悲しんでくれなかった」。これは子ども達の遊びであります。結婚式ごっこの遊びでは、誰かが笛を吹くと、みんなが喜びの踊りをおどるのです。葬式ごっこでは、悲しみの歌をうたうと、悲しみの声をあげるということです。世の中の人々はヨハネが神様のお心を示しているのに、少しも受け止めなかったことをイエス様が指摘しているのです。さらに11章20節以下でも、悔い改めない町を批判しています。
 神様のお心を受け止めない人々を示し、真に神様のお心をいただくのは、知恵ある者や賢いものではないと言われ、幼子のようなものこそ神様のお心を真にいただく者であることを示しているのです。コリントの信徒への手紙(一)1章18節以下、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と示されています。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」とも示されています。「幼子」とは、素直に神様のお言葉を受け入れる人です。また、当時の社会において貧しき人々であり、世の人々から片隅に押しやられている存在であります。当時の社会で「罪人」といわれる人々、病気の人々は社会からはみ出されて生きていたのであります。律法、戒律から外れる人々でありました。「知恵ある者、賢い者」は律法、戒律を厳格に守って生きる人々なのでありました。彼らはイザヤが示したように、「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」といわれる人々であります。分かったといい、見えている、聞こえているといっていますが、実は何も見えてないし、聞こえてもいない。真実見なければならないものを見ないからであります。聞かなければならない人の声を聞かないからであります。何よりも神様の御心を聞こうとはしないのであります。しかし、「幼子」といわれる人々は真に主イエス・キリストの御心を受け止めたのであります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われるイエス様の御声を真にいただいたのであります。
 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたに安らぎが得られる」と教えておられます。「休ませてあげよう」と言われていますが、「わたしの軛を負いなさい」と言われています。「軛」は牛や馬の首の部分に横木を当てて、重い荷物を引かせるものです。あるいは田畑を耕すためのものです。イエス様のもとに行くことは安らぎを得るためですが、そのためには軛を負うことになるというのです。イエス様が言われる「軛」とは、「自分を愛するように、隣人を愛する」ということなのです。この軛を担って生きることにより、神の国に生きる者へと導かれるというのであります。「自分を愛するように、隣人を愛する」生き方は自分との戦いであります。十字架の贖いをしっかり見つめて生きなければ、自分との戦いに負けてしまいます。
 自分との戦いをしている私たちを導くのが聖霊なる神様であります。本日の聖書、エフェソの信徒への手紙1章13節、「そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」と示されています。「御国を受け継ぐための保証」が聖霊の導きであると教えられています。保証、ギリシャ語では「アラボーン」という言葉です。アラボーンは「手付金」「保証金」の意味があります。今はローンと言い、分割均等に支払うことになっていますが、昔は月賦と言いました。最初は頭金と言いました。その後に月々均等に払うのですが、頭金は少し多めに払っておきます。それにより品物は先にもらえることになります。アラボーンは最初に何パーセントかを払うことにより、品物が先にもらえるのですから喜びであります。聖書は聖霊のアラボーンについて示しているのです。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証である」ということです。やがて御国に生きる者へと導かれているのですが、聖霊は今の時点で御国に生きる者へと導いていると言うことなのです。聖霊がアラボーンというとき、この聖霊は、「自分を愛するように、隣人を愛する」歩みを常に導いていると言うことなのであります。

 アラボーンとしての聖霊が私たちに注がれています。本日、私たちは礼拝に導かれ、アラボーンの聖霊をいただきました。神様の国を生きている保証が与えられているのです。あなたは心に痛みを持たれている人ですか。あなたは社会の中で、いろいろな問題、重い問題を担っておられる方ですか。あなたは家庭にあっても、家族のいろいろな関わりに心を痛めておられる方でありますか。あなたはこの社会の中で苦しみと悲しみを持って生きているのですか。さらに、あなたは自分自身に失望しているのではありませんか。聖霊が御国に生きている保証、アラボーンをくださっているのです。もはや、神の国に生きる者として、イエス様の軛を負うものとして、現実を導かれているのです。このアラボーンが現実のさまざまな問題、課題に勇気を持って生きるよう導いてくださっているのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と主イエス・キリストは私を招いてくださっています。
<祈祷>
聖なる御神様。三位一体の神様のお導きを感謝致します。いよいよ聖霊に導かれて御国に生きる確信を得させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。