説教「共におられる主」

2023年5月21日、六浦谷間の集会

「復活節第7主日

                      

説教・「共におられる主」鈴木伸治牧師

聖書・エゼキエル書43章1-6節

   使徒言行録1章6-11節

   マタイによる福音書28章16-20節

賛美・(説教前)讃美歌21・336「主の昇天こそ」

   (説教後)讃美歌21・405「すべての人に」

 今朝は主イエス・キリストの昇天について示されます。今年のキリスト教の暦は4月9日に主イエス・キリストは復活され、その後40日間、ご復活を人々に証しされました。そして前週の5月18日に天に昇られたのでありました。昇天とは天にあがられるということです。イエス様については「昇天」ですが、私達が死んだときは「召天」と述べています。私達の力で天に招かれるのではなく、神様によって天に召されるのです。信仰による人生は、その最後は天に召されるという祝福をいただくのです。信仰に生きた人は、天に召されるということ、私達がその様に定義しているのではなく、聖書に示されているのです。イエス様がこの世に現れたのは、神様のお導きであり、人間が滅びないで、永遠の生命を得るためでありました。すなわち、イエス様は私達を天に召すために来られたということです。そのために、まずイエス様ご自身が天に昇られたのです。今朝はイエス様のご昇天を示されながら、私達の信仰の人生を導かれたいのです。

昇天にあたりイエス様が言われたこと、これはかねてよりの約束ですが、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」ということであります。弁護者、パラクレートス、助け主という言い方で聖霊が与えられることを示されていました。昇天にあたり、約束の聖霊を待つ励ましを与えて天に昇られたのでした。従って、イエス様は天に昇られていなくなっており、約束の聖霊はまだ与えられておりません。聖霊降臨までの10日間は空白の日々なのです。しかし、イエス様から示されたように、彼らは一堂に会し、常に祈りつつ過ごしていたのでした。空白の日々だからこそ、ひたすら心を神様に向けて祈っていたのであります。

 今朝は主のご昇天を示されています。5月18日が昇天日ですから、5月28日の聖霊降臨日までの10日間は、空白の日々となります。今まではご復活のイエス様がお弟子さん達を励まし導かれていたのです。しかし、今は昇天されてしまったので、今までのようにご復活の主は現れないのです。聖霊降臨後は聖霊の力強い導きをいただくことになりますが、まだ聖霊は降ってはいないのです。

 この時、エゼキエルは神様の顕現を証しし、神様の存在を力強く示しているのです。エゼキエルという預言者は、聖書の人々がバビロンに滅ぼされて、多くの人々がバビロンに連れて行かれましたが、エゼキエルもその一人なのです。捕囚の民と言っていますが、捕囚となって5年後に神様の召命をいただくのです。希望を無くして生きている人々に、神様の御心を示し、導くことでした。預言者として活躍したイザヤ、エレミヤは神様のみ言葉をそのまま語りましたが、エゼキエルは黙示的に、幻を通して神様の御心を示すのです。今朝の聖書、エゼキエル書43章も幻のうちに神様の御心を示しているのです。その幻は、エルサレムの神殿を基としています。そこに神様のご栄光を示されるのであります。その幻は、召命を受けたとき、エゼキエルはケバル川の河畔に住んでいたのですが、幻のうちに御心を示されるのであります。1章4節、「わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起し、火を発し、周囲に光を放ちながら、吹いてくるではないか。その中、つまり火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった」と幻を説明します。この幻はさらに続くのですが、一連の幻を示された後に、神様のみ声が聞こえるのです。これはエゼキエル書2章になって示されています。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」と言われ、希望を無くしている人々に力を与え、神様を仰ぎ見つつ歩むように導きなさいと使命を与えられるのでした。

 今朝の聖書は栄光に輝く神殿を幻のうちに示されます。その神殿は、「ここにわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である」と神様は示しています。栄光に輝く神殿、まさに人々の希望であります。捕囚から解放されて、栄光に輝く神殿に集まるということなのです。そこに人々の生きる希望があるのです。少人数の礼拝において、神様がその集会に御足を置かれていると示しているのです。

 新約聖書はマタイによる福音書28章16節以下でありますが、ここにはイエス様が天にあげられることについては記されていません。ここではイエス様がお弟子さん達を宣教に遣わす大伝道命令が記されているのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエス様はお弟子さん達に命令されているのであります。マルコによる福音書ルカによる福音書も、それぞれ最後はイエス様の昇天を証しして終わっていますが、マタイによる福音書は宣教の大伝道命令を与えているだけで昇天については記しません。しかし、この大伝道命令を与えて、イエス様が昇天されたことは、他の福音書使徒言行録によっても示されることなのです。

 使徒言行録では、イエス様が天にあげられる前に、お弟子さん達はイエス様に尋ねています。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と聞いています。するとイエス様は、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と言われたのであります。そう言われてから天に上げられたと記しています。つまり、私達が主イエス・キリストの昇天を示されるということは、栄光に輝くイエス様を思いうかべることですが、何よりもイエス様の昇天により、イエス様から宣教の大使命を与えられていることを確認することなのであります。すべての人々に主イエス・キリストの十字架による贖い、救いを与えることです。それと共に「あなたがたに命じておいたこと」を人々に示すこと、それが大伝道命令ということです。

 イエス様が命じたこと、このマタイによる福音書の中にも繰り返し示されています。5章43節、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えています。イエス様はいろいろな教えをしているようですが、根底にあるのは「他者を愛する」ということです。ヨハネによる福音書ははっきりと示します。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15章12節)と命令として教えているのです。

 今朝は主イエス・キリストのご昇天を覚えての礼拝ですが、この日こそイエス様の大伝道使命を深く受け止める日なのです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主イエス・キリストは私達に大伝道命令を与えておられるのです。

エス様の大伝道命令を受け止めましょう、と言うと、何か大がかりな伝道集会のようなことを考えてしまいます。今でも行われますが、大きな伝道集会です。多くの人々が集まり、最後には決心者を募ったりします。それはそれで伝道の成果があるでしょう。しかし、伝道は主イエス・キリストを信じる者が、その生活において救いの喜びを証しすることなのです。

「伝道」との言葉から、何かそれなりの集会とかを考えなければならないと思います。神学校を卒業し、最初の教会は東京の青山教会でした。伝道師・副牧師を4年間務めた後は宮城県の陸前古川教会に赴任します。33歳の頃で、初めて牧師としての働きについたのですから、それはもう張り切っていました。宮城では主任牧師として、伝道に力を入れて励みたいと思っていました。丁度その頃、ある団体が、日本全国にトラクトを配布する運動を展開していました。トラクトというのはキリスト教を分りやすく紹介しているチラシのことです。それを街の全戸に配布するなら無料で差し上げるということでした。その頃、古川市の人口はどのくらいであったか覚えがありませんが、それこそ何万枚も送ってもらいました。当初は、結構配ったと思いますが、続けられませんでした。今では郵便ポストにチラシを入れることは普通のようです、昔はポストに知らない人がチラシ等を入れるということは勇気が必要です。誰も見ていないのを確認して配ったものです。いつの間にかやめてしまいました。チラシを配らなかったことで後ろめたいものがありました。

伝道とは何か、いつでも示されています。大塚平安教会に就任して、やはり伝道集会、チャペルコンサート、キャンドル・サーヴィス等、多くの人々を招くために案内書を配布しました。教会の皆さんに配布してもらったのです。しかし、チラシをたくさん配布したという、満足感はありましたが、それが伝道なのかと思うようになっていました。チラシを配ったからではなく、必ず集会に知人を連れてくることなのです。伝道集会にしても、チャペルコンサートにしても、キャンドル・サーヴィスにしてもほとんど教会員であり、新しい人は少ないということです。

伝道をするということは、共におられるイエス様のお導きを人々に知らせるということなのです。十字架の救いを人々に知らせることなのです。

<祈祷>

聖なる神様。主のご昇天の導きを感謝致します。共におられるイエス様を喜びつつ歩ませてください。主イエス様の御名により、アーメン。

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