説教「祝福をいただく人生」

2013年6月2日、クワラルンプール日本語キリスト者集会
聖霊降臨節第3主日

説教、「祝福をいただく人生」 鈴木伸治牧師
聖書、申命記24章10-22節
    ルカによる福音書16章19-31節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・452「ただしく清くあらまし」


 本日は6月の第一主日であり、三位一体後第一主日になります。今後の教会の暦は、日本基督教団では聖霊降臨節として歩むことになります。キリスト教の暦がありまして、クリスマス、イースターペンテコステの三大祭りを中心にして教会の暦が作られています。今年は5月19日に聖霊降臨祭を迎え、前週は三位一体祭でした。父なる神様、子なるイエス様、導きの聖霊様は、私達に取りまして一体の神様であると言うことです。三様のお姿がありますが、唯一なる神様なのです。聖霊降臨祭を迎えてからは、この聖霊なる神様のお導きをいただきつつ信仰の歩みが導かれていくのであります。
 私は本日の講壇でボランティア牧師としてのお務めが終わります。三ヶ月間、このクワラルンプール日本語キリスト者集会において、皆さんと共に信仰の歩みが導かれましたこと、心から感謝しております。外国で生活する中でも、やはり日本語で礼拝をささげたい、との思いは、信仰者として自ずと導かれて来るのです。KLJCFの歴史を読ませていただく時、マレーシアに派遣されているキリスト者の人々が、日本語の礼拝をささげたいということで1983年から集会を持つようになり、神様のお導きのもとに今日のKLJCFになりました。ここに導かれ、日本語で礼拝をささげておられる方々は祝福の人生を歩まれているのです。マレーシアに派遣されておられる方、また自ら進んでマレーシアに住んでいる方がおられますが、日本語で礼拝をささげる喜びを持ちつつ歩んでおられるのですから、本当に祝福をいただく人生を歩んでおられるのです。
 日本語で礼拝をささげたい、との思いは世界のそれぞれの国々で集会が導かれています。アジアではフィリピン、台湾、シンガポール等に日本基督教団から宣教師を派遣していますが、他の教派がアジアのいろいろな国々に宣教師を派遣しています。ヨーロッパではベルギー、ドイツへ派遣していますが、他の教派がいろいろな国々に派遣しています。専任の牧師がいなくても、日本語の集会を開いている人々がいるのです。スペイン・バルセロナには二度ほど行っておりますが、バルセロナ日本語で聖書を読む会という集会が開かれています。月に一度でありますが礼拝をささげています。たまたまバルセロナを訪れている牧師に説教を依頼したり、近くの国で伝道している牧師に来てもらったりしています。このような集いはマドリッドにもあり。マドリッド日本語で聖書を読む会として集会を開いているのです。牧師がいなくてもキリスト者が集い、日本語で礼拝をささげつつ歩まれておられること、祝福の人生であります。このマレーシアにおきまして、日本語の礼拝をささげておられる皆さんも祝福をいただく人生を歩まれておられることを示されています。
ところで、次週の6月9日は第二日曜日であり、日本基督教団では「子どもの日・花の日」としています。私のキリスト教への道は、この6月の第二日曜日が原点であることについては、5月12日のオープン・チャーチの礼拝説教でお話させていただきました。この花の日に、入院していた私の母を近くの日曜学校の子供たちがお見舞いしてくださったのです。母は大変感激し、退院しますと私をその日曜学校に連れて行き、花の日のお礼と、これからは息子が通いますから、よろしくお願いしますというのでした。それからは日曜日になると、私は母によって教会へと通わされたのであります。
私のキリスト教への導きは6月の第二日曜日、「子どもの日・花の日」でありますので、牧師現役の頃は、この日を大切にしていました。以前は病院に子供たちと共に訪問しました。しかし、その後、病院訪問は困難になり、教会と関わる施設に訪問するようになりました。大塚平安教会は綾瀬ホーム、さがみ野ホームという知的障害者施設と関わりがあり、牧師はそれらの施設に出掛けて行き、利用者の皆さんと礼拝をささげていました。ですから「花の日」には教会学校の子どもたちとこれらの施設を訪問していました。施設の利用者の皆さんにお花を一人一人に差し上げ、一緒に讃美歌を歌い、しばしの交わりをして帰ってくるのでした。子ども達が他の存在と触れ合うこと、これはとても大切なことであるのです。子ども達は自分の好きなお友達と過ごしているわけですから、自分の思いではない人々と接することが大切なのです。幼稚園でも教会学校でも、また大人の礼拝でも、そこで示されることは他の存在に心を向けることが聖書のメッセージとして示されるのです。「お友達を愛しましょう」と教えることは、何も教会でなくても、この社会に生きる者は常に示されていることです。特に一昨年の大震災後の日本は、「絆」とか「手を差し伸べる」ことを合言葉のように言われています。社会でも教えられていることですが、聖書のメッセージは他の存在を見つめ、共に生きることを繰り返し示しているのです。

 本日の旧約聖書申命記は24章10節からですが、24章5節からは「人道上の規定」として教えられていることであり、本日の聖書もこの規定として示されているのです。本日の聖書の前の部分5節からは、結婚した人の取り扱いです。結婚したら一年間は兵役を免除しなさいということです。結婚生活を祝福するということです。6節は、挽き臼を質にとってはならないということです。挽き臼は穀物を粉にする道具ですから、これがなければ食べることができないからです。そして、本日の聖書10節は、お金を貸して担保を取る場合、その家に入ってはならないということです。お金を借りている人は大切なものがあるわけで、それを担保に持って行かれては困るからです。しかも、担保は日が暮れるまでには返しなさいと言われています。14節以下は搾取してはならないという教えです。賃金はその日のうちに支払わなければならないという教えです。こうして他者の存在に心を向けるのは、18節で示されているように、「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい」ということなのです。かつてあなたがたも苦しんで生きていた。だから苦しみから救い出されたあなたがたは、今も苦しんでいる人々を見つめ、手を差しのべなさいと教えられるのです。
 19節は「畑で穀物を借り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」と教えています。レビ記19章9節では、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない」と教えられています。収穫をするときは、雑に収穫しなさいというわけです。落ち穂にしても、刈り残しにしても、それらを拾い集める人がいるということです。それらの人々のために、雑な仕事しなさいというわけです。この情景を描いているのがミレーの「落ち穂拾い」という名画です。三人の女性が落ち穂を拾っていますが、向こうの方には山のように積まれた穀物があり、そこで作業をしている人々が描かれています。日本の畑では考えられないことです。日本の畑の収穫の後は、きれいに整備されて、落ち穂一つありません。聖書の人々が他の存在を見つめて生きる教えが絵になっているのです。あなたも貧しかった、あなたも救われたのであるから、ということが前提になっているのです。本日の聖書では、他にオリーブの実についても全部取ってはならないと教えています。他の場所では、ぶどう畑の教えもあり、やはり摘み残しなさいと教えています。「あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである」と神様が示されているのです。
 一昨年、4月5月にスペイン・バルセロナに行きました。娘がバルセロナでピアノの演奏活動しているので、一ヶ月半ばかり過ごしてきました。滞在中、スリにあいました。ズボンのポケットに入れていた携帯電話とズボンの後ろポケットに20ユーロ札三枚を入れていたのですが、掏られてしまったのです。実に巧妙な手口でした。その辺りは割愛しますが、日本に戻って出入りの生命保険屋さんにそのことを話しました。そしたら、その方もバルセロナに行った時、スリに遭い10万円も掏られたというのです。その時、その方が言われたことですが、「掏られてしまったけれど、それによってご飯を食べられる人がいるんだと思えば良い」ということでした。これは、ちょっと違うのではないかと思います。悪事を働いて生きることを肯定しているようで、それは他の存在を見つめることにはならないということです。聖書は他者の存在を見つめて生きることが祝福の道であることを示し、そのように行きなさいと示しているのです。

この旧約聖書の神様のメッセージを主イエス・キリストは意味深く教えています。本日の新約聖書ルカによる福音書16章19-31節、「金持ちとラザロ」のイエス様のたとえ話です。イエス様がこのたとえ話をされるとき、それがそのまま天国と地獄の教えではありません。さらに金持ちは地獄に落ち、貧しい者は天国に迎えられることを教えているのでもありません。むしろ、金持ちとか貧しい者とかを考えないほうが良いのです。そもそもイエス様がこのたとえ話を示したのは、前の段落、14節以下に記されるように、そこにいるファリサイ派の人々がイエス様のお話をあざ笑ったからでありました。何故あざ笑ったのか。イエス様が「不正な管理人」のたとえ話をしたからでした。
「不正な管理人」のたとえ話は、同じルカによる福音書16章1節以下に記されています。「ある金持ちに一人の管理人がいた」とイエス様のお話が始まります。この管理人が無駄使いをしていると告げ口をする者があったので、主人は管理人に会計報告の提出を求めました。すると管理人は出入りの主人に借りのある人を呼び、証文を書き換えてあげるのです。油百バトスを主人から借りている人に対して、50バトスと書き換えてあげます。他の人にも証文を書き換えて上げます。もちろん書き換えてもらった人は大喜びです。そうすることによって、この管理人は主人から辞めさせられることになったとき、書き換えてあげた人達に迎えられるのであります。これは明らかに不正を行っているように思えます。ところが主人はこのやり方をほめたのでした。なぜ、主人はこの不正な管理人をほめたのでしょうか。これが問題です。証文を書き変えてもらった人達は、もちろん大喜びです。主人が貸している証文を書き変えてしまったのですから、損をしているのは主人だと思います。ところが主人は損をしていないのです。主人は財産の管理を管理人に任せています。その管理によって、主人の受けるべき収入があるのです。主人は不正な管理人のやり方をほめているのですから損をしてないのです。では誰が損をしているのか。この管理人が損をしていることになります。証文を書きかえる。しかし、主人には今まで通りの財産収入を渡すのです。すると、自分の受けるべき収入が無いということになります。自分を犠牲にして、出入りの人々、主人に借金をしている人々の便宜を図ったということになるのです。結局、このたとえ話は、神様のお心に生きる人を示しているのであり、「人は神と富とに仕えることはできない」と教えているのであります。それを聞いたファリサイ派の人々があざ笑ったのでした。イエス様がお金を持ってはいけないような言い方をしたからでありました。そこで「金に執着するファリサイ派の人々」があざ笑ったのです。ファリサイ派の人々は富というもの、お金は神様の祝福と信じていました。そのために働き、そして戒律を厳格に守るのです。お金には常に執着する人々なのです。あざ笑ったのは、イエス様の教えばかりではなく、聖書は15章1節からの状況が続いているのであり、イエス様が罪人といわれる人々と交わっていたからでもありました。
このようなファリサイ派のあざ笑いに応えて教えたのが「金持ちとラザロ」のたとえ話でありました。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやってきては、そのできものをなめた」と記されています。
ここに金持ちがいます。イエス様はこのお話をしたとき、金持ちが紫の衣や麻布を着ているから悪いといっているのではありません。また、ぜいたくに暮らしているから悪いと言っているのでもありません。だから地獄に落ちたとは言ってはいないのです。問題は、ここに貧しい人ラザロがいるということであります。食べるものがなく、残飯で飢えをしのごうとしており、全身できもので痛みを持ち、苦しんでいる人がいるのです。しかし、金持ちはラザロを見なかったし、気がつくこともありませんでした。あるいはそのような人が大勢いるので、見慣れた風景であったのでありましょうか。イエス様がこのたとえ話をしたのはその点なのです。
やがて金持ちもラザロも死にました。ラザロは天国に迎えられ、金持ちは地獄に落ちたとしています。このことから、私たちは、この世で良い思いをし、幸せに生きたものは、あの世で苦しみが待っていると思う必要はありません。この世で苦しみ、貧しく生きたものが、あの世で幸せになるということを示しているのでもありません。私たちは金持ちであっても良いのであり、どんなに財産があっても良いのであります。そういうことではなく、私たちが隣人にどう向くかが問われているのであります。もし、私たちが隣人に対して無関心でいるなら、神様も私たちに無関心であります。この世で隣人の声を聞かないなら、神様も私の声を聞かれないのです。
私たちがイエス様から「金持ちとラザロ」のお話を示されるとき、もう一度「不正な管理人」(ルカ16章1節〜)のお話が示されます。明らかにイエス様は二つのたとえ話を別々の意味で話されたのではなく、一対のお話をされたのであります。「金持ち」に対するものは、お金を自由に動かすことのできる「不正な管理人」です。そして、ラザロに対する存在は管理人によって利を得た業者であります。というより、その土地の人々、また貧しき人々ではなかったでしょうか。主人から借金をしながら生きている人々なのです。不正な管理人は自分のためだとしても、まずそのような人々に目を留め、苦しみを担ってあげたと理解したいと思います。それに対して、「金持ちとラザロ」の金持ちは、隣人には一切心を向けなかったのであります。少しでも隣人を見つめれば、そこに貧しきラザロがいることを知るのです。ルカによる福音書は、この後の19章で「徴税人ザアカイ」について記しています。これはたとえ話ではなく、今までのイエス様のたとえ話を現実に生きる証を示しているのです。金持ちであったザアカイさんがイエス様と出会ったとき、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と告白したのでした。今までは自分しか見つめなかったザアカイさんは、貧しきラザロさんを見つめることができたのです。

貧しきラザロ、それはまた私たち自身であります。この私という貧しきラザロをいつも見つめてくださり、こころにかけてくださるイエス様がおられます。私という貧しきラザロがイエス様のお心にとめられているように、私たちも隣人の貧しきラザロさんに心を向けなければなりません。隣人の生き方を受け止め、隣人を見つめるものが神様の祝福に与るのです。その生き方を導くのが主イエス・キリストの十字架であります。ともすると「金持ち」のように貧しきラザロを見ない私たちでありますが、その私のためにイエス様は十字架にお架かりになり、私の中にある「金持ち」を滅ぼされたのです。そして「永遠の住まいへの導き」をいただいているのです。 
 他の存在を見ない金持ちの姿は、私たちの中にあるのです。私は、この聖書を読むとき、いつも思い出されることがあります。二番目の娘が小学校4年生か5年生頃かと思いますが、友達を連れてきました。その友達は玄関を入り、私の顔を見ても何も言わず、黙って娘について部屋に入って行きました。しばらく部屋で過ごしていました。そして、友達が帰るので、玄関で送りだしたのでした。その友達は私の顔を見て、それで黙って玄関を出て行きました。入って来たときも挨拶をするわけではなく、帰るときにも「さようなら」と言うわけでもなく、ただポカンと口を開けて私の顔を見ただけでした。4年生、5年生になれば、挨拶くらいはできると思うわけです。変わっている子だなあ、そんな思いをもったのでした。その子が帰ってから、「どうして、あのような子が友達なのか。少し変わっていると思うけど」と、そんなことを娘に尋ねたのでした。すると娘は、「だから友達なんだよ」と言うのです。学校でも、いつもポカンとしているような子で、だから友達もできないし、誰も遊ばないと言うことでした。「だから声をかけて連れてきた」との娘の言葉を聞いたとき、胸を刺される思いでした。まさに娘は神様のお心を実践しつつ歩んでいることを示されたのでした。他の存在を見つめて歩むことが祝福であることを示されているのに、自分の中にある「金持ち」の姿を示されたのでした。私の「金持ち」の姿を主イエス・キリストが十字架によって導いてくださっているのです。
 <祈祷>
聖なる御神様。貧しきラザロとして私を見つめてくださり感謝致します。隣人をいつも心に留める者へと御導きください。キリストのみ名によっておささげ致します。アーメン。