説教「立派な行いを実践しつつ」

2013年6月9日、横須賀上町教会
聖霊降臨節第4主日

説教・「立派な行いを実践しつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書60章19-22節
    マタイによる福音書5章13-16節
賛美・(説教前)讃美歌21・544「イエス様が教会を」
    (説教後)讃美歌21・567「ナルドの香油」


マレーシアの首都、クアラルンプールにあります日本語キリスト者集会のボランティア牧師として、3月13日から6月4日まで、約三ヶ月間、務めてまいりました。昨年の9月、10月はスペイン・バルセロナに行ってきましたが、8時間の時差がありますので、帰国しましても、いわゆる時差ボケで過ごしていました。しかし、マレーシアは日本に対して1時間遅れであり、時差ボケということはありません。6月4日に帰り、すぐに普通の生活になっています。クアラルンプールではNHKのBSテレビが見られましたが、全ての番組が1時間早いので、時間的にも戸惑うことがありました。日曜日の「のど自慢」も午前11時15分から始まるので、時間感覚で戸惑うわけです。現地では、礼拝は午後4時からでした。礼拝は日曜日の午前という感覚ですが、不思議な感覚にさせられていました。
 4月の下旬から5月にかけては日本に一時帰国される方や外国に旅行される方が多く、いつもより少ない礼拝出席でしたが、それでも20名から25名位の皆さんが出席していました。日本語キリスト者集会ですから、集まる人々は日本人です。仕事のためマレーシアに来ることになった時、日本語の教会があるか、ネットやメディアで探され、出席することができて喜んでおられる皆さんがいました。皆さんは英語が話せますので、クアラルンプールには英語の教会は結構あるのです。しかし、やはり日本人として、日本語で共に礼拝をささげたいのであります。このことはマレーシアばかりではなく、世界の至るところで日本語集会が開かれているのです。スペインに行きました時にも、バルセロナ日本語で聖書を読む会、マドリッド日本語で聖書を読む会があり、日本人の皆さんが集まって集会、礼拝をささげているのです。
 クアラルンプール日本語集会の皆さんとのお交わりが深められましたが、案外、身近なところにおられて、その場所は知っているということになるのです。三浦海岸に親戚がおられるとか、百合ヶ丘におられたとか、と言われます。宮城県の陸前古川教会の牧師をしていましたので、その古川におられた方もいました。あるいは教団書記として、5月の教区総会の時期には教団三役が各教区総会を問安します。関東教区総会にも三回くらい問安していますが、その総会に出席されておられた方もいました。何よりも驚き、感動した出会いがありました。礼拝の説教で大塚平安教会やドレーパー記念幼稚園のことなども触れました。礼拝を終えて、お交わりの時、一人の男性の方が声をかけてくださいました。自分の兄達はドレーパー記念幼稚園を出たと言われるのです。年代を聞くと、どうやら私の園長就任と入れ違いのようです。そして、その方が言われるには、兄達はドレーパー記念幼稚園を出たが、自分は幼稚園には行きたくなかったので、行かなかったと言われたのです。その言葉を聞いて思い当たることがありました。1979年に大塚平安教会に就任しました。その頃、座間市の家庭集会が立野台地域で開かれていました。一人の婦人が幼稚園児くらいのお子さんを連れて家庭集会に出席されていたのです。お母さんが言われるには、この子は幼稚園に行くのが嫌であるというものですから、と言われていたことと一致するのです。クアラルンプールの教会で私に声をかけてくださった方は「新井さん」という方で、家庭集会に男の子を連れて出席されていた婦人も「新井さん」でした。その「男の子」が今のクアラルンプールで礼拝の司会をしたり、讃美歌指導をされている「新井さん」なのです。この出会いを、不思議な、驚くべきことだと思いますが、ここに一人の「立派な行いを実践しつつ」歩まれておられる方のお証を示されたのでした。お連れ合いは若い婦人会のバイブルカフェの中心になって担っておられます。まだ小さい二人の男と共に、いつも礼拝に出席されているご家族でした。マレーシアの地で、家族と共に神様のお導きをいただきつつ、力強く歩まれているお証を示されたのでした。

 信仰に生きるものは、どのような場に生きても喜びつつ歩むことが証しとなるのです。今朝の旧約聖書イザヤ書は神様の「栄光と救いの到来」を人々に示しています。イザヤ書は55章から66章までは第三イザヤという人が書いています。背景的には、聖書の人々が約50年間、バビロンで捕われの身分であり、その時代が終わって故郷に帰った人々に対する預言であります。捕囚から帰還し、かなりの時が経っています。最初は喜びつつ故郷に帰ってきたのでありますが、あまりにも異なる現実の生活でした。もはや昔の面影はありません。苦しい状況の中で生きることを余儀なくさせられていたのであります。そのような人々に神様の「ご栄光と救いの到来」を示しているのが、60章であります。今朝は19節からでありますが、60章の冒頭は大変美しい言葉で救いを述べています。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ書60章1-2節)。
 この60章は1節から3節までに全体の内容を記し、4節から7節で諸国民からの貢物があることを述べ、8節から13節では都エルサレムの再建が示されます。そして、14節から18節ではエルサレムの名誉の回復と平和の実現を示すのです。今朝の聖書の19節から22節では宇宙にまで言及して救いのメッセージを述べるのであります。「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない」と示しています。この言葉はヨハネの黙示録で引用されています。黙示録21章23節に「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」とイザヤ書を引用しているのであります。イザヤ書は太陽も月も照らさないと言い、「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる」と示しているのです。
 イザヤ書では「太陽は昼を照らす光とならず、月の輝きもない」と示し、ヨハネの黙示録では「都を照らす太陽も月も必要ではない」と示しています。太陽の光も、月の光も無いとすれば、どこに光があるのでしょうか。私達は原則として光とは太陽の光、月の光と思っています。しかし、聖書は私たちが思っている光の根源を示しているのです。その根源は旧約聖書の創世記に示されています。創世記1章1節以下に、「初めに、神は天地を創造された。血は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』。こうして光があった」と記されています。私達はこの「光」をどのように考えるのでしょうか。この「光」は太陽、月の光なのでしょうか。違うのです。なぜならば、創世記は後の1章14節になって太陽を造っているのです。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって地を照らせ」と記されています。従って、最初に「光あれ」と言われた光は太陽や月の光ではないのです。これは神様の「光」なのであります。だからイザヤ書にしてもヨハネの黙示録にしても「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない」と示しているのです。
 太陽の光、月の明かりは人間の喜びであり、また希望でもあります。しかし、日々の歩みにおいて、朝が来ること、夕闇がせまるとき、人間のさまざまな思いが渦巻くのであります。讃美歌21の218番は、「日暮れて闇はせまり、わがゆくてなお遠し、助けなき身の頼る。主よ共に宿りませ」と歌っています。日々の生活で、いろいろな人間関係、社会生活に疲れている人々なのであります。疲れていてもこの生活は担わなければなりません。まさにイザヤ書の背景の人々の姿でありました。現実を失望しつつ生きなければならなかったのであります。「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる」と言い、「主なるわたしは、時が来れば速やかに行う」と示しているのであります。だから、もはや現実に光が射しているのであるから、勇気と希望を持って歩みなさいと宣べ伝えているのであります。神様の光をいただき、あなたがた自身が光となりなさいと示しているのであります。「あなたの民は皆、主に従う者となり、とこしえに地を継ぎ、わたしの植えた若木、わたしの手の業として輝きに包まれる」というのであります。「わたしの植えた若木」は61章では「正義の樫の木」と言い換えています。61章3節に「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」と示されています。今は嘆きの最中にいますが、それは神様の光が現れるためなのであります。必ずや私の現実から光が放たれるのであります。人々に希望の光を与えるようになるのであります。

 「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と主イエス・キリストは示しています。マタイによる福音書は5章から7章まで、主イエス・キリストが山上において説教をしています。まず、「幸い」について教えておられます。そして、その後に「地の塩、世の光」としての教えをしています。「山上」と言いますから、高い山の上かと思われますが、なだらかな丘のことであります。そこに大勢の群衆がイエス様の教えを聞こうと集まってきています。イエス様はそれらの群衆を見て、山に登られ、腰を下ろして話し始められたのであります。従って、今イエス様のお話を聞いている人々は、まずお弟子さん達であります。そして、イエス様のお話しを聞こうと集まってきた積極的な人々なのです。ですから、イエス様は積極的にイエス様のお話しを聞こうとする人々に「あなたがたは地の塩である」と言われ、「あなたがたは世の光である」と言われているのです。これからそのような人になりなさいと教えておられるのではありません。あなたがたは、既に「地の塩、世の光」になっているといっているのであります。このことはイエス様の教えを聞いている人々が、イエス様の弟子であることを確認していることでもあるのです。お弟子さん達はもちろんでありますが、イエス様の教えを求めて集まってきた人々もイエス様のお弟子さんであると言うことです。この山上の説教はお弟子さん達への教えであるということです。これからそのようになりなさいと言うのではなく、既にそのようになっているということであります。
 お弟子さん達は「地の塩」なのです。ところが、塩であるのに塩気がなくなってしまうのであれば、もはや塩ではありません。「その塩は何によって塩味が付けられよう」と言うのです。塩が塩味を出すのであります。塩気のない塩には塩味が付けられないと示しているのです。「地の塩」と言われるとき、塩は何よりも味を出す働きがあります。腐敗を防ぐ働きがあります。あるいは象徴的に清めの働きをするのです。これらの塩の働きの根源は神様の御心であります。神様の御心は人々に希望を与え、御心に生きる人々には恵が施されます。しかし、御心から離れるならば、すなわち神様ではない偶像に心を寄せるならば、神様の審きがあるのです。イエス様の弟子として生きるならば、「地の塩」として歩まなければなりません。塩味のない塩は、もはやイエス様の弟子とは言えないのです。「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」と言われています。これは塩気のない塩そのものを言っているのですが、しかし人間に例えるとすれば、悲しいことでもあります。
 主イエス・キリストを信じて生きることこそ喜びであり、希望でありますが、その信仰を無理矢理に無くそうとすること、迫害というものがあります。これはローマ帝国時代のキリスト教迫害があります。旧約聖書でもダニエル書は信仰の迫害に対する励ましでありますが、その迫害に信仰を捨てざるを得ない人々もいたのです。新約聖書ではヨハネの黙示録がローマの迫害に生きる人々への励ましであります。励ましを受けながらも信仰を捨てた人々があるのです。日本では戦争中、キリスト教に対する迫害は厳しいものでした。「天皇陛下とキリストはどちらが偉いのか」と尋問を受けたり、天皇を神様として崇めない人は厳しく処罰されたのでした。遠藤周作という小説家が「沈黙」という作品を書いています。キリシタン迫害の物語です。その頃、幕府は信仰する者を棄教させるために「踏み絵」を用いました。最初は紙にイエス・キリストの十字架の絵や聖母マリアの絵が書かれており、その絵を足で踏むということでした。しかし、多くの人が踏むと紙は破けてしまうので、板に彫り付けたり、青銅で作るようになったということです。それはみごとな彫刻であったようです。従って、その彫刻を見るだけで信仰が励まされるという出来栄えでした。「踏み絵」を踏めば信者ではないことになります。しかし、信者はその信仰においてイエス様の「踏み絵」は踏めないのです。それで捕えられて拷問を受け、無理矢理に棄教させられるか、拷問により死んで行くのでした。拷問の恐ろしさに「踏み絵」を踏む信者もいました。「踏み絵」を踏んだ信者は、内面的には信仰をもって生きていたとしても、もはや信者ではなく、社会にあっても相手にされないような、無意味な人間になってしまうのであります。まさに塩気がない塩であり、投げ出される塩なのであります。
 「地の塩、世の光」としての教えを示されていますが、今朝の御言葉への向かい方は、「地の塩」になることの教え、「世の光」になることの教えではありません。イエス様の弟子として、既に「地の塩、世の光」であるのです。むしろ、塩でなくなることの警告、光の役目をしないことの警告でもあります。「ともし火をともして升の下に置く者はいない」とも示されています。ともし火、光は燭台の上に置くことにより、家中が明るくなるのです。「世の光」でありながら、その光を陰に置いてはいないか、テーブルの下に置いていないかとの警告であります。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と主イエス・キリストは私たちの弟子であることの確認を与えておられるのです。

 「地の塩、世の光」として歩んでいる私たちです。私たちに与えられている光を人々の前に輝かしつつ歩んでおります。そうすると人々が私たちの立派な行いを見て、人々はどう評価するのでしょう。あなたは立派です、と言われてはいけないと聖書は示しています。「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」ことなのです。神様の光であることを人々が信じるようになることなのです。すると「立派な行い」を奨励しているのでしょうか。確かにクリスチャンは品行方正であると言われていました。「立派な行い」とキリスト者は結びついているように思えます。しかし、「立派な行い」とはどのようなことなのでしょうか。人々が喜ぶような、称賛されるようなことをするのでしょうか。「立派な行い」からそのように理解するのでしょうか。そうだとすると、私達は信仰に生きるということは窮屈でなりません。いつも人目を気にして、立派な行いを心がけること、それができない自分を責めることになるのです。「立派な行い」とは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」ということなのです。主イエス・キリストの十字架の救いこそ、神様の「光」なのです。十字架のお導きを信じ、十字架に委ねて生きることが「立派な行い」なのです。信仰に生きることが「立派な行い」なのです。
 先ほども紹介しましたが、マレーシアの教会で、実に30年ぶりにお会いした新井さんとご家族でありますが、その家族を立派であると思うと共に、神様のお導きということを強く示されるのです。家庭集会に男の子と共に出席していた婦人、新井さんは、その後数年して召天されました。以来、新井さんのご家族とは触れ合うことがありませんでしたが、神様は男の子を導いておられたのです。かつての男の子は立派な行いを実践しつつ歩んでおられるのです。イエス様は「地の塩、世の光」の教えのまとめとして、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天の父をあがめるようになるためである」示しておられるのです。新井さんとご家族を示されて、私も「わたしたちの天の父をあがめるように」導かれたのでした。
<祈祷>
聖なる御神様。「地の塩、世の光」としての歩みを導いてくださり感謝いたします。立派な行いを実践しつつ歩ませてください。あなたの光を世の人々にいよいよ照らすことができますようお導きください。キリストの御名によりお祈り致します。アーメン。