説教「生涯のささげもの」

2013年6月16日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第5主日

説教・「生涯のささげもの」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記26章1-11節
     マタイによる福音書5章21-26節
賛美・(説教前)54年版177「神の気息よ」
    (説教後)54年版495「イエスよ、この身を」

 しばらく六浦谷間の集会はお休みでしたが、再びこのところで礼拝をささげることのできるお導きを感謝しています。マレーシア・クアラルンプールにある日本語キリスト者集会のボランティア牧師として、3月13日に出発しました。その前の日曜日は3月10日、第二日曜日でありますので、横須賀上町教会の礼拝説教、聖餐式のお務めを致しました。ですから3月3日に六浦谷間の集会の礼拝をささげて以来、しばらくお休みにしていました。そして、6月4日に帰国しましたが、迎える6月9日は横須賀上町教会の礼拝でしたから、本日の16日の礼拝を持って六浦谷間の集会の礼拝再開ということになります。隠退牧師としてマレーシアの教会に赴きましたが、帰国しましても、説教者として、与えられた場所があることを感謝しています。
 本日は礼拝をささげましてから、私の姉、朝子の埋葬式がありますので赴くことになっています。姉は去る4月30日に、79歳でしたが天に召されました。マレーシアにおいてボランティア牧師としてお務めをしている最中であり、葬儀には列席することができず、帰国しまして、前週の6月9日、横須賀上町教会の礼拝が終わりましてから、姉の家に行きお花をささげたのでございました。姉の家は衣笠という町にあり、横須賀上町教会からは比較的近い所にあるのです。そして本日は仏教でいう四十九日であり、埋葬式を行うことになったのでした。
 私は五人兄弟の末っ子です。すぐ上の兄は日本の敗戦後まもなく、小学校三年生で亡くなっています。そして長姉の美喜子は1997年、16年前になりますが68歳で召天しています。その後、二番目の姉の清子、三番目の姉の朝子と共に三人で連絡を取りつつ過ごしてきたのです。上の姉二人と私はキリスト教の信仰が与えられましたが、三番目の姉の朝子はキリスト教には関係なく、むしろ仏教的に歩んでいました。2006年に六浦の家は築60年以上も経ていましたので建て替えました。今までは父や母の信仰において仏壇が据えられておりました。姉の朝子は六浦の家に来ては仏壇に手を合わせ、父や母に声を出して語りかけていたのです。ところが家を新築した時、もはや父も母もいませんので、仏壇は設置しませんでした。そのためもあり、姉の朝子はこの六浦の家には来ることがありませんでした。父や母の写真が飾られているとしても、仏壇にいる父や母ではないからです。そのことで姉の朝子には申し訳ないと思っていたのです。いずれ父や母、そして姉の美喜子の記念会を開きたいと思っていましたが、今度は朝子も加えた記念会を、私たちがまだ健在の時に開きたいと思っています。姉の朝子は自分の信念において、自分の人生を立派に生きたと思っています。
 説教の導入として、個人的な家族のことをお話していますが、今朝の聖書は「生涯のささげもの」としての私たちの生き方を示しているのです。自らを顧みながら、今生きており、これからも、もう少し生きるとしても、生涯をどのように生きるのか、との示しを聖書を通して与えられるのであります。

 本日の旧約聖書申命記26章1節から11節は表題に記されているように、「信仰の告白」であります。この申命記は、聖書の人々がエジプトで奴隷の境遇にあり、その苦しみの中から神様によって救い出された後、指導者モーセが神様の導きを示し、今後は神様の御心によって生きるように教えているのであります。すなわち、「信仰の告白」を唱和しつつ歩みなさいということです。旧約聖書において信仰告白とは、歴史の導きを感謝することなのです。エジプトを脱出した聖書の人々は、神様の導く「乳と蜜の流れる土地」であるカナン、パレスチナへと導かれます。この申命記の時点では、まだその土地には入っておらず、目の前にしているのです。これから約束の土地で生きるにつき、あなたがたは信仰告白を繰り返し唱和しつつ歩みなさいと教えているのです。
 「あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい」と示しています。そして初物をささげながら祭司に言います。「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告します。わたしは、主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」と述べるのです。導かれた土地に住むことの感謝であります。祭司が初物の籠を受け取り、祭壇に供えた時、人々は信仰の告白をするのです。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました」と歴史を述べ、苦しい歴史でありましたが、神様がお導きをくださり、奴隷の状態から救い出し、「乳と蜜の流れる土地」へと導いてくださったことを繰り返し朗唱するのであります。今、初物ささげるということは、導かれて恵みに生きていることの証しなのであります。それと共に、初物をささげるということは、共に生きる姿勢を神様に示しているのです。
 「あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられる全ての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい」と示しています。レビ人は祭司族として嗣業すなわち収穫するための土地は与えられていません。ただ神様に仕え、そのお仕事をするからです。ここには記されていませんが、人々は十分の一をささげて、レビ族を養うのです。そのレビ族と共に寄留者を覚えなさいということです。やはりここでは省略されていますが、ささげものはレビ族、寄留者、そして寡婦や孤児にもわけ与えられるのです。そのことは今朝の聖書の後、12節から記されています。「十分の一の納期である三年目ごとに、収穫の十分の一を全部納め終わり、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、彼らが町の中でそれを食べて満ち足りたとき、あなたの神、主の前で次のように言いなさい」と示しています。十分の一を納める、それは必要を求めている人々に与えられるのです。
 教会も基本的には十分の一をささげることが奨励されています。生活費の中で十分の一をささげるということは、多いと思うかもしれません。しかし、汗を流して得た収入でありますが、神様のお恵みと思わなければならないのです。全ては神様のお恵みであれば、十分の一をささげることは、当然のことと思わなければならないのです。
 以前のことですが、一人の青年からお便りと共に献金が送られてきました。就職して初めてのお給料をいただいたというのです。当初、お給料をいただき、まず両親へとして袋に入れます。次に弟達にお小遣いということで、それぞれ袋に入れます。そして、自分のために衣服費、交際費、観劇代とか振り分けるのですが、そこで気が付きました。そうだ、献金をささげなければ、と思うのです。もはやささげる献金はありません。それで、最初からやり直します。そして、最後に献金となると、やはりいくらもささげることができないのです。献金を最後にするから、幾らも残らないことに気がつき、今度はまず献金を袋に入れます。そして、自分が使うべきお金は少なくなってしまうのですが、「気持ちが変わらないうちにおささげします」とお手紙にしたためて送って下さったのです。この姿勢が十分の一献金なのです。とても良いお証で、皆さんにお話ししています。
 聖書の人々は恵みの十分の一をささげながら、信仰告白をするのです。今、ここにいる自分を導いてくださる神様は歴史を通してお恵みをくださっているのです。その事実を朗唱しつつささげものをするのです。ささげられた物は恵みに乏しい人々にわけ与えられるのです。旧約聖書の人間の生き方を示されています。

 この旧約聖書の人生観を基本にしながら、主イエス・キリストが教えておられます。マタイによる福音書5章21節からはイエス様による律法の再解釈として教えられています。「腹を立ててはならない」との教えです。これは「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている」と引用しながら、イエス様が新たなる教えをしているのです。もともと十戒にその戒めがあります。第六戒として「殺してはならない」と示されています。その戒めを示され、「人を殺した者は裁きを受ける」と言われるようになっているのです。しかし、十戒は裁きが目的ではなく、人が良い人生を生きるための指針なのです。裁きを受けるから人を殺すな、という教えになっていますが、そうではなく、良い人生を生きるための戒めなのです。
 この5章21節からの教えの前に、イエス様は律法に関わることを教えておられますので、注意しておく必要があります。それは17節からですが、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と示しています。律法すなわち十戒は廃止するどころか、今のあなたがたの戒めであるということです。律法学者やファリサイ派の人々は律法を中心に生きていますが、表面的な生き方なのであり、真に十戒を受け止めなさい、と示しているのです。それで具体的に律法を取り上げ、どのように十戒から教えられるかを示しているのです。
 イエス様は「殺すな」の教えに対して、「裁きを受けるから」守るではなく、「殺すな」の真髄を教えておられるのです。「裁きを受ける」というのであれば、「わたしは言っておく。兄弟に対して腹を立てるものはだれでも裁きを受ける」と教えておられます。表面的に殺してはいなくても、心の中で人を蔑むようであれば、それも殺したと同じであることを示しているのです。イエス様はこの後も十戒の教えを取り上げながら、今を生きる姿を教えておられるのです。27節からは「姦淫してはならない」と教えておられますが、この教えも表面的なことではなく、内面的な教えとして示しておられるのです。31節以下は「離縁してはならない」、33節以下は「誓ってはならない」、38節以下は「復讐してはならない」です。いずれも十戒の教えを内面的に受け止め、実践することなのです。そして、結論として、43節以下に「敵を愛しなさい」と教えておられるのです。
 このように十戒を全身で受け止め、実践しつつ生きること、それが私達の「生涯のささげもの」なのです。旧約聖書の人々は、神様にささげものをしながら信仰の告白をしました。私達は、私自身を生涯のささげものとして、基本である十戒を守り、隣人と共に生きることが求められているのです。十分の一をささげることは隣人と共に生きるためです。十戒を基本として生きるならば、それが私達にとって十分の一をささげて生きることになるのです。
 「生涯のささげもの」としての人生は、神様の祝福をいただき、主イエス・キリストが十字架の贖いにより導いてくださっていますから、人間の基本的な生き方である十戒を守りつつ生きることです。イエス様は十戒を二つにまとめています。「神様を愛し、人々を自分と同じように愛しなさい」ということです。そのイエス様の教えをしっかりと受け止めて生きることです。今朝の聖書のまとめの部分、マタイによる福音書5章43節以下でイエス様は教えておられます。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」と示しています。自分を超えて、イエス様の教えのように「隣人を自分と同じように愛する」ことが積極的な生き方なのであり、「生涯のささげもの」としての人生なのです。自分の思いを超えるならば、神様のお導きが聞こえてきますし、見えてくるのです。

 昨年の8月頃でしたが、日本基督教団世界宣教委員会の幹事をされておられる加藤誠先生からお電話をいただきました。マレーシア・クアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として、三ヶ月間担ってもらいたいということでした。実は9月10月にスペイン・バルセロナにいる娘の羊子のもとに夫婦で行くことになっており、その時はお断りしました。そのような事情がありますが、その他には、隠退している今、あまり職務を持ちたくないと思っていたのです。時々、諸教会から説教の依頼がありますが、そのようなことでしたら引き受けるのですが、はっきり言えば、牧会を再びするということは、億劫であるとの思いがありました。しかし、連れ合いが、「行ってきたら」と勧めてくれましたので、最後の力を振り絞るつもりで、承諾したのでした。今、その三ヶ月を振り返った時、まさに神様のお導きであると思いました。帰国して、大塚平安教会の方からお便りをいただきました。「お帰りなさい!お働きを全うされ、無事ご帰着なさいました由
衷心よりお慶び申し上げます。彼の地での伝道牧会まことにご苦労様でございましたが、むしろ大きな御祝福に満ちた日々でありましたことと拝察しております。ご隠退後に次々にお働きの場が与えられることは、神様は隠退をお認めにならないのでしょう」とのお便りでした。自分で隠退を決め、だからこれはできないというのではなく、神様のお導きに委ねることが大切なのであり、生涯のささげものとしての自分を忘れていたのです。この方のお便りで示されたのでした。連れ合いの「行ってきたら」の勧めは神様の声でありました。生涯のささげものとしての自分を神様が導いておられるということです。
 主イエス・キリストは私達を生涯のささげものとして導いてくださっているのです。イエス様の十字架の贖いを示されれば、自分の都合は言うことができないのです。
<祈祷>
聖なる御神様。お導きを感謝致します。今度は何を持っておささげするのか、御示しくださいますようお願い致します。主イエス・キリストによっておささげします。アーメン。