説教「祝福をいただく群れ」

2013年6月23日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第6主日

説教・「祝福をいただく群れ」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書49章14-21節
     使徒言行録4章32-37節
     マタイによる福音書6章25-34節
賛美・(説教前)54年版180「はとのごと降る」
    (説教後)54年版90「ここもかみの」


 マレーシア・クアラルンプールにある日本語キリスト者集会のボランティア牧師として、三ヶ月間のお務めが終わり、帰国してからかれこれ三週間になりますが、今の時点でも余韻を喜びながら過ごしています。いつも25、6名の皆さんと礼拝をささげる喜びをいただいていました。諸集会や食事の交わりが深められ、皆さんは主にある歩みを喜ばれていました。まさに祝福の群れであると示されたのであります。
 先日、バルセロナ日本語で聖書を読む会の中心になっておられる下山由紀子さんから、月報100号をお送りいただきました。この集いは22年前に発足し、今も祝福のうちに集会が導かれています。月報を作成するようになってから8年半ということですが、この6月号をもって100号にもなったのであります。さっそくお祝いのメールを送りました。私も過去二回、バルセロナを訪問していますが、その時、二回ずつ説教させていただきました。5、6名の出席者で集会を開き、あるいは10名、15名の出席もありました。スペインの方と結婚されている人がおられますので、これらの皆さんが中心メンバーであり、一時的にバルセロナに来られている皆さんが出席され、祝福の群れとなっているのです。今後も、月に一回の集いですが、いつまでも祝福の群れとして導かれるようお祈りしています。
 何処の教会もこのような集いが導かれています。教会が大きいとか小さいとかは関係なく、主にある祝福の群れが導かれているのであります。もちろん、礼拝を共にささげることが豊かな祝福でありますが、信者の交わりが深められることは大きな祝福であります。私の神学生時代、西荻窪にある曙教会に出席していました。本当に小さな教会でした。神学校の教授が牧会する教会でありました。そんなに小さな教会でありますが、伝道所ではなく第二種教会でありました。教会員の家の応接間を礼拝堂としていたのであります。六畳くらいの広さでありました。そこに10人くらいの皆さんが出席して礼拝をささげるのです。応接間でありますのでベンチではなく、ソファーがおかれておりました。礼拝前に教会学校が開かれ、子ども達と礼拝をしますが、その後で相撲を取ったりして遊ぶので、大人の礼拝でソファーに座ると、つい居眠りをしてしまうことがありました。その狭い応接間でクリスマスやイースターのお祝いもしました。狭いながらも皆さんが心から喜びあって祝会をするのです。教会に集められた皆さんが、ともに喜び合う群れ、祝福の群れが教会です。今でも同じような体制で礼拝がささげられ、交わりが導かれているのです。大きい教会に多くの人が集うことは祝福ですが、小さな教会もまた祝福の群れであるということであります。
 そうであれば、この六浦谷間の集会も祝福の群れであります。2010年11月28日から始めた集会です。私共夫婦のたった二人だけの集会でありますが、時には知人や家族が出席して、10名も出席された集会もありました。出席された皆さんは、この祝福の集いをいつもお心に示されてお祈りしてくださっているのです。私達はどこかの教会に所属し、そこが祝福の群れであることを示されていますから、その集いを基として、日々喜びつつ歩むのであります。

 祝福の群れに導かれることは、何よりも神さまの顧みがあるからです。神様がこの群れを顧みてくださっているので、祝福の群れへと導かれているのであります。今がどのような状況であろうとも、神さまは変らずに見守ってくださっているのであり、祝福を与えてくださっているのであります。
 旧約聖書イザヤ書は第二イザヤの預言書でありますから、聖書の人々がバビロンの国に捕われの身分となっていることが背景にあります。捕われの身分、それを捕囚と称しています。聖書のユダの国がバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれました。そこで奴隷のように働かされて生きていたのであります。しかし、鎖につながれているとか、牢屋に入れられているというのではありません。それぞれの生活があります。バビロンの国のためにいろいろな職務を持ちながら生活しているのです。普通の生活のように思えますが、しかし捕われの身分であり、やはり自由が拘束されています。捕われの人々は異国の空の下で、希望もなく生きるほかはありません。そのように力をなくし、希望をなくしている人々に第二イザヤは神さまの御心を示し、励ましを与えたのでありました。
 イザヤ書49章9節後半からは「シオンの回復」との表題が付けられているように、都エルサレムの回復が示されています。都エルサレムはバビロンによって破壊されているのであります。破壊されたエルサレムには人の行き来が途絶え、そのためエルサレムへの道も荒廃しています。49章11節では、「わたしはすべての山に道をひらき、広い道を通す。見よ、遠くから来る。見よ、人々が北から、南から来る。天よ、喜び歌え、地よ、喜び踊れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった」と示しています。都エルサレムへの優しい道になり、通りやすい道になったので、多くの人々がその道を通って帰ってきますよ、と述べているのであります。だから、自分は見捨てられたと思ってはなりませんと述べているのが、今朝の聖書であります。
 「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れた、と」。そのように言われていることに対して、第二イザヤは「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないだろうか」と言い、「たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」と神さまの御心を示しているのであります。神さまはあなたを決して忘れない、とは聖書が繰り返し示しています。詩編9編13節は「主は流された血に心を留めて、それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない」と歌っています。ルカによる福音書12章6節では、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と主イエス・キリストも示されているのです。
 問題は私たち人間であります。私たちが神さまを忘れてしまうということであります。日々、幸せであり、喜びつつ歩むとき、その恵が神さまからの賜物でありますのに、何か自分の成果であり、あるいは「ついている」との思いで喜んでいるのです。聖書は繰り返し神さまの恵を忘れないように示しているのであります。従って、旧約聖書信仰告白は、救いの導きを朗誦することでありました。弱い、貧しい私たちを、神さまが大きな支えの御手とお恵みをくださったので、今の私たちがありますと告白するのです。神さまを忘れてはならない、と繰り返し教えているのは、人々が偶像の神々に心を寄せるからであります。自分の思いをかなえてくれると思われる偶像に心を寄せるので、神様を忘れ去ってしまうのであります。自分の思いをかなえさせる神さまであるからです。自分の思いではなく、神さまの御心に生きることが人間の歩む道であります。

 神さまの御心に生きるとき、他の存在と共に歩むことが導かれてくるのであります。今朝の使徒言行録4章32-37節は最初の教会の生活が示されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と報告しています。信者の生活については、この使徒言行録3章43節以下にも記されています。そこでも、「信者達は皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った」のであります。ここでは特に共なる信仰について報告されています。「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」のであります。「パンを裂く」とは食事のパン裂きと共に主の聖餐にあずかることでもあります。私たちは、パンと言えば柔らかい、ふっくらとしたパンのことしか思いませんが、聖書の世界のパンは固いパンであります。「裂く」という表現がまさに適当であります。パンを裂き、主の御体をいただき、さらに分け合って食事としていたのであります。そのような信仰者の基本的な交わりがありました。そして、持てるものを捧げ合って共に歩んでいたのであります。
 今朝の4章では、持ち物をささげることが特に記されています。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒達の足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」と報告されています。特にバルナバについて報告しています。キプロス島生れのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いたのであります。このヨセフは使徒たちからバルナバと呼ばれていたのであります。バルナバとは「慰めの子」との意味であります。バルナバ使徒たちが中心になっている原始教会にあって、忠実に信仰の歩みをしていたのでありました。そのバルナバへの信任が深まり、後にバルナバエルサレム教会から派遣されて異邦人の教会アンティオキア教会を訪問したのでした。外国人の教会であるアンティオキア教会の信仰の群れを視察し、励ますことが目的でした。このバルナバの大きな働きはパウロ使徒たちに引き合わせたことでありました。パウロはイエス様を信じる人々を迫害していた人です。その彼が復活のイエス様に出会い、その時から主イエス・キリストを信じる人へと導かれました。しかし、イエス様を信じる人々は迫害者であったパウロとは交わりませんでした。だれからも相手にされないようなパウロでしたが、そのパウロを探し出し、アンティオキア教会で共に福音を語る働きをし、そしてパウロ使徒たちに引き合わせたのであります。
 自分自身をささげ、持ち物をささげ、信じる者たちが共に歩むこと、最初の教会の姿でありました。それは、自分が神さまから決して忘れられてはいない存在であることを示されているからです。先ほどもルカによる福音書12章6節の、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と主イエス・キリストの教えを示されましたが、今朝のマタイによる福音書6章25節以下は、神さまが私たちを決してお忘れにならないことを示しているのであります。
 マタイによる福音書6章25節以下が今朝の聖書です。「思い悩むな」の表題が付けられています。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と示されています。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」との示しです。命そのものが何よりも大切であることを示しているのです。命そのものは神さまがお守りくださっているのです。「空の鳥を良く見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値ある者ではないか」と言うのです。鳥ですら神さまが大切に養ってくださっているのです。ましてあなたがたにはなおさらですというのです。今度は野の花を示します。「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と諭しています。神様は人間であるあなたを決してお忘れにはならないと教えているのです。
 人間が神さまを忘れてしまうので思い悩むのであります。しかし、神さまを忘れている人間に対して、神さまは決してあなたを忘れていないとイエス様が教えておられるのであります。神さまのお恵みを忘れて、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い悩む私たちに、これらのものがみな私たちに必要であることを、神さまが私を忘れておられないので、御存知なのです。だから、神さまを忘れている私たちは、「何よりもまず、神の国と神の義」を求めることが必要なのであります。私たちの求めている物はみな加えて与えられるので、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とイエス様は教えておられるのです。

 祝福の群れは、神さまが私たち一人ひとりをお忘れではないこと、しっかりと受け止めています。与えられた主の群れの一員になって、礼拝をささげ、交わりを深めつつ歩んでいるのです。その生き方がどんなにか祝福であり、平安の歩みなのであります。
 先ほどもバルセロナ日本語で聖書を読む会の祝福の歩みについて紹介させていただきました。実に驚くべきことを知らされました。今、バルセロナに滞在している一人の女性が、この集会に出席されているというのです。娘の羊子が知らせてくれたことですが、昔、私が園長であったドレーパー記念幼稚園を卒業し、その後も私が牧会していた教会学校に出席されていたのです。ふとしたことから下山由紀子さんに出会い、以後集会に出席されておられるということです。下山さんが差し上げた新約聖書を懐かしく、そして一生懸命に読まれているとのことです。神さまの長い、深いお導きを示され、心から感謝しています。
私たちは祝福の群れに導かれています。導かれた原点は主イエス・キリストの十字架の救いをいただいたということです。救いをいただいた人々が集められる場所、それが教会であります。祝福の群れであります。この祝福の群れに存在することで、神さまがこの私をしっかりと覚えてくださり、支えてくださることを示されるのであります。
<祈祷>
聖なる御神さま。私たちを祝福の群れに導いてくださり感謝いたします。この祝福の群れに多くの人々を迎えることを得させてください。主の御名によって祈ります。アーメン。