説教「ささげる祈り」

2013年6月30日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第7主日

説教・「ささげる祈り」、鈴木伸治牧師
聖書・歴代誌下6章12-21節
     テモテへの手紙<一>2章1-8節
     マタイによる福音書7章7-12節
賛美・(説教前)54年版181「みたまよ、くだりて」
   (説教後)54年版308「いのりは口より」

 マレーシア・クアラルンプールでの日本語キリスト者集会(KLJCF)のボランティア牧師として、三ヶ月間のお務めをしましたので、まだ余韻が残っていまして、何かと思い出しつつ過ごしています。今朝は「祈り」を聖書によって示されますが、それにつけてもマレーシアを思い出しています。KLJCFの皆さんは祈ることは熱心でした。一般的に教会は礼拝が中心ですが、週日には聖書研究・祈祷会を開いています。礼拝をささげ、祈りをささげることは信者の務めであります。しかし、週日の祈祷会はいろいろな事情があって、出席者は少なくなります。仕事を持っている人は、夜の集会でも、なかなか出席できないのです。家庭の主婦の場合には、家事や育児で出席できません。祈祷会は限られた人しか出席はできないのです。礼拝の前、または後に祈祷会を開く教会があります。
 KLJCFを思い出す限り、祈りの群れであると示されています。週日の祈祷会はありません。しかし、諸集会が祈ることを中心に開いているのです。3月14日からマレーシアの生活が始まりました。そして16日には役員会が開かれました。役員会はまず祈祷会をしてから始まるのでした。その時は初めてでしたので、祈祷会の奨励の準備もありませんでしたので、その日は祈祷会に臨んだだけでした。その次の4月の役員会祈祷会、5月の役員会祈祷会には奨励を準備し、祈祷会に臨んだのでした。教会の課題、教会に関わる皆さんの動向を報告し、皆さんのためにお祈りをささげるのでした。祈祷会は婦人会でも行われていました。婦人会は毎週開催されています。信仰書の読書会、お仕事会、牧師のメッセージを聞く会等の内容ですが、加えて祈祷会が開かれていました。従って、その時も奨励をします。そして、祈祷会の前に祈りの課題を皆さんが報告し合います。役員会と同じように、教会の歩み、教会に関わる皆さんの動向等を報告し合い、その後は少人数のグループに分かれて祈祷会をするのです。少人数のグループに分かれても、そこで新たにお祈りに加えるべき課題が出され、それぞれお祈りするのでした。
 お祈りで考えさせられたことは、献金感謝祈祷です。KLJCFは献金感謝祈祷は講壇に上がってお祈りします。説教者と同じように、説教台でお祈りするのです。日本の教会では、ほとんどは講壇の下、だいたいは聖餐台の前でお祈りするのではないでしようか。日本の教会でも、講壇でお祈りする教会もあるのでしょう。今までの経験にはないことなので、当初は不思議に思っていました。しかし、献金感謝のお祈りは献身のしるしであり、お恵みの感謝でありますから、説教の応答であり、説教の場でささげることは当然と言わなければならないと思いました。もっとも、例えば高齢者が献金感謝祈祷と言うことで、講壇に上がるということは危険があるかもしれません。実際、連れ合いが一度献金感謝祈祷を講壇でささげたのですが、上り下りするのは、ちょっと心配でありました。
 KLJCFの祈祷の姿勢を示された三ヶ月間でした。いつも皆さんが心を合わせてお祈りしている姿が思い出されます。教会は祈る群れであり、その祈りは教会で深められるのです。今朝は祈りの原点、教会でささげられる祈りを示されるのです。

 今朝は「祈り」が示されます。祈ることは旧約聖書において、創世記4章においてカインとアベルの祈りが最初に記されています。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となったのであります。二人はそれぞれささげ物をしてお祈りいたします。アベルのささげ物が神様に顧みられ、カインのささげ物は顧みられなかったということが記されています。今朝はその聖書に触れませんが、人間が始まってから、既にお祈りがささげられていたのであります。その後、アブラハム、イサク、ヤコブの時代があり、モーセ出エジプト、カナンの定着があり、いつの時代でも神さまにお祈りがささげられていました。
今朝はソロモンのお祈りであります。ソロモンの父・ダビデは名君とされ、人々に良い政治を行いました。そのダビデの後を継いでソロモンが王様になったとき、神様はソロモンに「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。その時ソロモンは「今このわたしに知恵と識見を授け、この民を良く導くことができるようにしてください」とお祈りしたのであります。すると神さまは「あなたは富も、財宝も、名誉も、宿敵の命も求めず、知恵と識見を求めたので、その通りになる」と言われました。ソロモンは神様から豊かな知恵を与えられ、聖書の人々をよりよく導いたのでありました。一つの例を示されましょう。ある日、二人の女性がソロモン王に裁きを求めてきます。それは一人の赤ちゃんを互いに自分の子どもであると主張しているからです。二人の言い分を聞いたソロモン王は、この赤子を二つに切り裂いて、それぞれの母親に与えなさいと家来に命じるのです。一人の母親はそうしてくださいと言い、一人の母親は、もう自分の子どもだといいませんから、そのようなことはしないでくださいと懇願します。ソロモン王は、この赤子の母親はこの人だと言って、切り裂くことをしないでくださいと懇願した母親に渡すのでした。こうした人道的な裁きが世界にまで聞こえ、外国の王様たちがソロモンの知恵を聞きに来たと言われます。神様に知恵を求めたソロモンが祝福されたのです。
 そのソロモンは神殿と宮殿を造るのです。ダビデの時代、ダビデは自分は屋根のある家の中にすんでいるのに、神さまの契約の箱は幕屋に収められている。だから神殿を造ることを思い立ちました。幕屋は奴隷の国エジプトを脱出して40年間荒野の旅をしますが、神さまがくださった契約、十戒を納めた箱は幕屋、テントに収めていました。いわゆる移動式お宮さんと言うことです。折りたたんでは移動し、宿営する時には組み立てていたのです。ダビデの時代になっても、神さまの契約の箱は幕屋に安置されていたのです。だから、そのために立派な神殿を造ろうとしたのです。ところが神様はナタンという預言者を通じて、神様は人間が造ったものの中には住まわないと言われるのでした。それでダビデは神殿造りをあきらめました。ところがソロモンが王様になると、神殿と宮殿を造ってしまうのです、ダビデの時には神様は阻止するのですが、ソロモンの神殿造りには何も言いません。それはソロモンの神殿造りが神様の御心に適っているからでありました。神様の御心に適う神殿造りが完成したとき、ソロモンは人々を集め、神様に心からお祈りをささげたのであります。その祈りの中にソロモンの神殿造りと、神様の御心が示されているのです。ソロモンはイスラエルの全会衆と共に神殿の前でひざまずき、両手を天に伸ばして祈りました。特に6章17節から示されます。「イスラエルの神、主よ、あなたの僕ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、昼も夜もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが御名を置くと仰せになったところです。このところに向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を許してください」とソロモンは祈ったのであります。
 神殿の中にお住まいになる神様にお祈りをささげるのではなく、神様がこの神殿にお名前を置いてくださっているので、神様の御名に向かってお祈りをささげるのであります。その祈りを神様がお聞きとげくださり、何よりも罪の赦しを与えてくださるのであります。ソロモンはまず罪の赦しを願い求めています。祈りは人間の望むことをお願いするのでありますが、ソロモンの祈りの基本は罪の赦しでありました。人間の罪のゆえに、天が閉ざされることがないように、まず罪の赦しを願うのであります。

 主イエス・キリストは「主の祈り」を教えてくださいました。マタイによる福音書6章に記されています。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と教えておられます。その中に罪の赦しが祈られているのです。まず、罪の赦しを願い求めることがお祈りであるのです。
 今朝の聖書は「主の祈り」を基本にしながら、熱心に祈ることが教えられています。マタイによる福音書7章は「人を裁くな」の教えから始められていますが、人を裁く罪を示しているのです。その上で「求めなさい」と教えているので、この「求める」ということは「罪の赦し」であります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と教えています。何を求めているのかは示されていませんが、それを「罪の赦し」として私達は示されています。罪とは人間関係において生じてくることなのです。「主の祈り」を示されるのは、マタイによる福音書5章から始められて7章で終わる「山上の説教」においてであります。「山上の説教」は「幸い」の教え、「地の塩、世の光」の教えがあり、私達が社会の中で生きる指針を示しています。そして、それは社会の中で人間関係における指針であるのです。5章21節以下では「腹を立ててはならない」と教えています。目に見える形で人を傷つけることばかりではなく、腹のうち、心の中で他者をおろそかにすることも罪であることを示しているのです。今までは表面的にしか戒めを守ってはいませんでした。「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と定められていますが、普通の生活においては殺してはいないのです。だから自分は戒めを守っているということになるのです。しかし、イエス様は内面的に戒めを守ることを教えられました。「姦淫してはならない」、「誓ってはならない」、「復讐してはならない」等、人間関係における生き方を示しつつ「主の祈り」を教えておられるのです。従って、7章7節で教えられている「求めなさい」は何を求めるかが示されてきます。人間関係の祝福の関係が導かれるよう祈り求めるということであります。
 「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者には良い物を下さるに違いない」と示しているのであります。「良い物」とは神さまの赦しであり、新しい人間関係なのであります。「だれでも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」とイエス様は教えてくださいました。心から求め、祝福の人間関係へと導かれるのであります。祈りの人生は祝福の人生なのであります。祈りの人生は勇気が与えられ、力が増し加わるのであります。

 「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」とテモテへの手紙(一)2章で示しています。人間は際限なく祈り、願いを神様にささげています。しかし、願う私たちに神様がどんなにかお応えになっているかを知ることが少ないのであります。まず、祈る前に答えられている現実を確認することが必要なのであります。従って、「願いと祈りと執り成しの」お祈りを私達は常にささげているのですが、「感謝」の祈りをささげることが奨励されているのです。第一テサロニケの信徒への手紙5章16節以下では、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と示されています。ここでも「感謝」をささげることが勧められているのです。
 大塚平安教会在任中、時々、お祈りをさせてくださいと言いつつ教会に来られる方がありました。教会員ではありません。中にはカトリックの信者の方もおられ、この教会はプロテスタントですよ、と言いますが、それでも良いと言われるのです。お祈りに来られた方はベンチの一番前に座り、しばし頭を垂れてお祈りしています。大塚平安教会の講壇の中央の壁には大きな木の十字架が掲げられています。大塚平安教会の40周年記念の時に、聖壇の改築をしました。今までは中央の壁に金具で十字架が掲げられていましたが、白い壁に、なんとなく小さめな十字架であったようです。それで示されるままに大きな木の十字架を掲げる事にしたのです。そして、その左右には柱を六本ずつ立てました。イスラエルの12部族と共に、12人のお弟子さんを示しています。さらに十字架の後ろには梯子をかけました。これは創世記28章に記されるヤコブの夢に現れる梯子です。新共同訳聖書では「階段」と訳していますが、口語訳聖書は「はしご」としています。その「はしご」を天の使い達が上り下りしている様を示されたのでした。また、イエス様ご自身も、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(ヨハネによる福音書1章51節)との示しをいただいたのです。
 教会でお祈りをささげるという事、まさに十字架に向かってお祈りをささげる導きが与えられるのです。十字架は罪の赦しです。ソロモンのお祈りで示されましたように、神様がご自分のお名前を教会におかれていますが、神さまが教会の中に十字架を置かれており、それは神さまのお名前なのです。十字架はイエス様が私達の罪を許してくださり、救いへと導いて下さったのです。いよいよ十字架に向かってお祈りをささげましょう。
<祈祷>
聖なる御神様。神様のお名前が置かれている教会、それは十字架でありますが、私達のお祈りをお聞きください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。