説教「主を土台とする人生」

2013年7月7日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第8主日

説教・「主を土台とする人生」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書7章1-7節
    使徒言行録19章11-20節
    マタイによる福音書7章15-29節
賛美・(説教前)54年版182「来ませ、みたまよ」
   (説教後)54年版304「真実なるみかみを」

 本日は七夕と言うことで、竹飾りがあちらこちらで見ることができます。七夕は仏教のお盆行事の一つであると言われます。7月7日に行うのは新暦であり、一月遅れの8月7日は旧暦であり、日本では二つの七夕祭りが行われています。神奈川県では平塚の7月七夕祭りが賑わいを見せています。東北では仙台の七夕祭りが賑わいを見せ、その頃は東北各地でお祭りがあり、8月の初めは大勢の人々が東北を訪れます。大震災から二年を経ていますが、復興を支援する意味でも、お祭りの賑わいを理解しています。40年前には宮城県古川市の教会で牧会していましたので、日曜日の礼拝が終わるとまだ小さかった子供たちを連れて、七夕飾りの賑やかな町を見学して歩いたものです。
 七夕には色々な伝説がありますが、笹には先祖の霊が宿るとされ、その先祖の霊に対して願い事を書くことが七夕の短冊とも言われます。七夕には牽牛・織女が出会うというロマンもあります。二つの星、一つは牽牛すなわち耕作であり、もう一つは織女すなわち蚕織であり、それらに因んで種物(たなつもの)、機物(はたつもの)で、合わせて「たなばた」と言うことになったと説明されています。
 このような仏教の行事ですが、一般社会の風習でもあり、キリスト教の幼稚園でありますが、神様へのお祈りとして子供たちが短冊を書いていました。しかし、幼稚園における七夕飾りは小規模に行っていました。今、私はキリスト教・シニアホーム「神の庭・サンフォーレ」が今年で15周年を迎えていますので、その歴史を書いています。このキリスト教老人ホームの建設を課題とし、調査研究する時から関わっており、今は「支える会」の委員長を担っていますので、歴史を振り返り、現在への道のりを記しているのです。いろいろと調べているうちに、会報「神の庭」の第一号に居住者の皆さんが七夕の短冊を書き、それが紹介されていました。入居者の皆さんの思いを知るために、いくつかを紹介しておきましょう。「感謝と愛の心を失わずに」、「神様の豊かなお恵みがありますように」、「神さまの最上のわざができますよう御導きください」、「何時も平和でありますように」、「終わりの日まで、すこやかに歩ませてください」、「光を求めて召される日まで」、「人が何と言はうとも、今日も又日ねもすキリスト・イエスの後背を見つめて生きんこの私」、「希望・信仰・愛情・幸福、四つ葉のクローバー」等入居者の皆さんの思いが伝わってきます。
 高齢者ホームは、今やあちらこちらにありますが、キリスト教のシニアホームはそんなに多くはありません。油壺にエデンの園があり、これは浜松の聖隷事業団が運営しています。また、新横浜にカルデヤと言うキリスト教のシニアホームがあります。神奈川教区にある者として15年前にキリスト教シニアホーム「神の庭・サンフォーレ」が設立され、私達は「支える会」を組織して支援しているのです。キリスト教の信仰を持って今日まで長く生きて来られた皆さんが、礼拝をささげつつ、それを喜びつつ生活されているのです。皆さんの土台は主イエス・キリストなのです。そのことを示されながら、今朝の聖書に示されるのであります。

 人生の土台は主なる神様の御心をいただき、歩むべき道と行いを正して生きることなのです。それが旧約聖書における人の生き方なのであります。今朝はエレミヤ書7章による示しであります。エレミヤは神様に示されるままに人々に言います。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉により頼んではならない」と預言者エレミヤは人々に教えています。これは人々が、我々には主の神殿があるから大丈夫だと思っているので、それに対する警告でありました。神殿があるから、安泰であるし、悪いことも起こらないと思っています。しかし、神殿があるから安泰だと言いつつ、盗み、殺し、姦淫、偽り、偶像に香をたいているのです。そして、主の神殿に来ては「救われた」と言っているというのであります。11節、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる」とエレミヤは述べています。神殿は神様が名を置いておられるところです。これは前回もソロモンのお祈りを通して示されています。ソロモンは立派な神殿を完成させました。しかし、ソロモンは神さまがこの神殿の中にお住まいになるなどと思いません。神様が神殿に目を注ぎ、神さまのお名前を神殿においてくださるので、そのお名前に対してお祈りをささげたのでした。エレミヤの信仰も同じであります。だから、名を置いておられる神殿に祈りをささげるのであります。神様の名が置かれているのに、祈ることもせず、ただ神殿の存在を喜んでいる人々に対する示しであります。
このことは主イエス・キリストも示しています。マタイによる福音書21章12節以下はイエス様が神殿から商人を追い出すことが記されています。イエス様は神殿の境内に入ると、そこで売り買いしている人々を追い出したと記されています。「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言われました。エレミヤ書の引用であります。神殿の存在を喜びながら、むしろ自分達の利益の場にしていることに対するイエス様の示しでありました。エレミヤの場合も、主の神殿だとの気休め的な姿勢に対する批判であります。主の神殿に向かうならば、主の御心を実践することこそ大切なことなのであります。「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる」と示しているのですが、現実は、人々がむなしい言葉により頼んでいるのであります。人生の土台は神様のお心なのです。神殿という建物が土台となるのではないということ。神様のお心を行うことが人生の土台となっていくことを示しているのであります。「わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか」とも言われています。神殿は建て物にすぎないのです。建て物には過ぎないのですが、ここには神さまのお名前が置かれており、神さまの御心が示される場であると信じて、神さまに心を向ける所なのであります。

 人生の土台は主イエス・キリストのお言葉を聞いて行う者であるとマタイによる福音書7章は示しています。7章24節、「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と主イエス・キリストは教えてくださいました。イエス様はマタイによる福音書5章から7章に至るまで、「山上の説教」としてお話しをされているのです。これはマタイという人の編集でありますが、イエス様の御心を集中的にこの所に集め、そして最後のまとめとして記しているのが7章24節以下の「家と土台」であります。イエス様の御心をいただいて、いただくばかりではなく、「聞いて行う者」が人生の土台を持つ者だと示しているのであります。
 今朝は7章15節からであります。まず、「実によって木を知る」との教えがあります。イエス様の御言葉を聞いて行うとき、そこには祝福の果実が生まれてくるのです。従って、ぶどうの木からはおいしいぶどうの実ができるのです。茨からぶどうの実は取れないのであります。イエス様の御心に生きなければ、祝福の果実ができないと言うことを示しているのです。イエス様の御言葉を聞いて行うなら、必ず良い実を結ぶということなのです。ぶどうの木のたとえはヨハネによる福音書にはっきりと記されています。ヨハネによる福音書15章5節、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と示しています。イエス様のぶどうの木につながることにより、豊かな実、祝福される人生へと導かれることが示されているのです。
 さらに21節からは「あなたたちのことは知らない」として示しています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と示しています。ここでも主の御心を行うことが示されているのです。ただ、神様、神様というだけではいけませんと言うのです。神様のお心をいただいているのです。御心のように生きることなのです。
 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」と主イエス・キリストは示しています。イエス様の言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ていると言われます。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった、と言われます。ここで注意したいのは、「倒れなかった」であり、「倒れ方がひどかった」ということであります。イエス様のお言葉を聞いて行う人は、「倒れないでしょう」と言い、聞いて行わない人は「倒れるでしょう」という未来形ではなく過去形になっています。つまり、この山上の説教で示されることは終末の教えであるのです。「倒れ方がひどかった」と言われるとき、もはやそこには救済の道がないのです。三匹の子豚の童話があります。三匹の子豚がそれぞれ自分の住処を造ります。藁で作った住処は狼が来て、すぐに吹き飛ばされてしまいますが、すぐに別の住処に逃げていきます。その住処も小枝で造った簡単なもので、これも狼に吹き飛ばされてしまいます。しかし、三番目の住処は煉瓦で造られた堅固なものですから、狼は吹き飛ばすことが出来ないのであります。ここには救済の道が示されています。しかし、イエス様のたとえ話は救済がないのです。終末の教えであるからです。終末においては、人間同士助け合うことはできないのです。神様の審判であるからです。そのために岩の上に建てられた家、神様の御心をしっかりといただき、実践する人生を生きなさいと示しているのであります。

 先ほどもキリスト教シニアホーム「神の庭・サンフォーレ」について触れました。毎年、会報「神の庭」を発行していますが、このホームに入居し、信仰の人生の最期の場として過ごされた方の追悼文を主事の鳥羽徳子牧師が記しているので紹介しておきます。
 黒田益枝さんは2012年3月24日に逝去されました。95歳と言うことでした。2007年に「神の庭・サンフォーレ」に入居されます。ご両親が日本聖公会の信者であり、従って黒田さんは洗礼名・スザンナを持っておられます。生まれた時からキリスト教の世界におかれ、また信仰を持って今日まで生きて来られたのです。秦野聖ルカ教会に多くの係累を持っておられたようで、「牧師夫人になった人が3人いるのよ。知っているでしょ」と鳥羽主事がお仲間のように話されていたということです。讃美歌271番「いさおなきわれを」、520番「しずけきかわのきしべを」をいつも歌われていました。讃美の会ではいつも愛唱讃美歌の405番「また逢う日まで」をリクエストしていました。
 今井園枝さんの追悼文からも示されます。父上様はお坊さんでしたが、40歳で亡くなりました。今井さんは若い時、カネボウの舎監をされていた時、ある日寮生たちが集団でどこかに出掛けて行きました。不思議に思い跡を追いました。すると寮生たちは教会に入っていったというのです。ここでドイツ人の幼児教育専門家のキュックリヒ宣教師と出会ったのでした。この時に触れたキリスト教は心の中に深く刻まれました。ご子息を明治学院中学校に入学させ、その入学式の時に校長先生が言われた言葉、「今日からは親も子も共に礼拝するように」との言葉が、長い間、心に刻まれていたキリスト教が芽生え、成長することとなるのです。そして新丸子教会で1958年のクリスマス礼拝で洗礼を受けられたのです。それから53年間、生涯を通して教会の礼拝に連なり、家族の全員がクリスチャンになられたのです。「クリスチャンになってよかった」と鳥羽主事にいつもお話されていました。毎月行われる讃美歌の会では、躊躇なく244番「ゆけどもゆけども」を選ばれていました。会堂にあるオルガンがメンテナンスを必要としていることを気にかけて、「直してあげたい」と言われていました。2011年9月に召天されました。所属する新丸子教会で葬儀が行われています。ご家族が今井さんの意思を尊重して、召天記念としてオルガン修理費としての献金をささげられました。
 「神の庭・サンフォーレ」に入居されている皆さんが、最期まで信仰の喜びを持ちつつ生活されていたことを示されるのです。皆さんが信仰の土台を持たれているからでした。
人生の土台は主イエス・キリストの示す神様の愛に生きることなのです。神様の御心に従うことなのです。人生の土台は信仰の人生であります。信仰は主イエス・キリストの十字架の救いを信じて生きることであります。主の十字架により救われた者は、自分を愛するように他者を愛して生きる者へと導かれているのです。愛して生きるということがきついのであれば、他者を受け止めて、祈りつつ歩むということであります。神様が主イエス・キリストの十字架により、この私に人生の土台を与えて導いてくださっているのです。人生の土台を持っている私たちです。日々の歩みが力強く導かれているのです。勇気を持って新しい一週間を歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。人生の土台を与えてくださり感謝いたします。主の御言葉を実践しつつ歩むことを得させてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。