説教「救いはすべての人々に」

2013年7月14日、横須賀上町教会
聖霊降臨節後第9主日

説教・「救いはすべての人々に」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記21章9-21節
    マタイによる福音書8章5-13節
賛美・(説教前) 讃美歌21・355「主をほめよ、わが心」
   (説教後) 讃美歌21・448「お招きに応えました」


 聖書はすべての人々の救いを示しています。神様は地球上のすべての人々が、主イエス・キリストの十字架による救いを与えられることをお望みであります。すべての人々が主イエス・キリストの十字架の救いを与えられるならば、この地球は平和が実現し、神の国が地上に実現するのであります。しかし、地球上は危機に満ちています。国と国との戦争もありますが、国の指導者に対する国民の抗議、それが国内の戦争となっている国々がいくつもあります。国民の声を聞くことなく、指導者の都合のよい政治は国民の怒りとなるのです。そういう中で、最近のホットニュースはイラン・イスラム共和国の選択でした。国民は対話路線の大統領を選んだのでした。戦争はすべてを破壊し、自ら苦しめなければならなくなっているのです。改めて、神様の主イエス・キリストによる救いを示され、救いの喜びを世の人々に宣べ伝えていきたいのであります。
 それぞれの教会は地域に建てられている教会として、その使命を深めて主イエス・キリストの福音を述べ伝えているのでありますが、教会の歴史的使命があり、置かれている状況があります。大和で伝道していた日本フルゴスペル教団純福音大和教会が私が牧会していた大塚平安教会のすぐ近くに引っ越してきました。6月29日に、いわゆる開所式を行うので、お出でいただきたいとの案内がありました。ご挨拶に来られたのですから、当日伺いましたが、私は午後から予定が入っているので、最初だけ顔を出し、すぐ失礼しました。連れ合いが最後まで出席しました。韓国系の教会で、心を揺さぶるような信仰を奨励する教会であります。賛美の時には手を打ち鳴らして、ライブのように高揚しつつ礼拝に参加するのであります。数日後、集会を開いたということで、その教会の伝道師が韓国系の食べ物を持って来てくれました。大和にいるとき、ホームレスの人々に提供していたとのことです。しかし、大塚平安教会周辺はホームレスの人はほとんど見かけませんので、広く地域の人々に食べ物を提供するとのことでした。公園で行おうとしたら禁止されたとのことで、教会の中で行ったということでした。2、30人が来たとも言っておられました。これもひとつの伝道であります。
 横浜の寿町ではキリスト教の皆さんが、年末に炊き出しといい、ホームレスの人々に食べ物を提供すること、川崎の桜本教会が週二日、食事を提供したり、衣類を配布したりする、これらは伝道の取り組みとして関わっているのであります。150年前に宣教師が日本に来て伝道をしようとしたとき、日本はまだキリスト教禁止の高札が掲げられていたのです。公然と主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることができなかったのであります。それで宣教師達は日本の必要な課題に取り組んだのでありました。教育、福祉、医療等に取り組みました。学校を造り、福祉活動を行い、医療を提供したのであります。日本の文化の基礎を造ったのが宣教師の働きでありました。基となっていることは、主イエス・キリストの十字架の救いです。すべての人々を救うために働き人が立てられているのです。
 主イエス・キリスト御自身、すべての人々に救いを与えました。イエス様のご復活後、パウロが働き人となり、いわゆる地の果てまで福音をもたらしたのであります。パウロユダヤ人伝道というより外国人伝道を推進したのであります。しかし、外国人というより、もはやユダヤ人が中心ではなく、すべての人々への福音が聖書の示しになっているのであります。そのことは、既に旧約聖書において示されているのであります。

 今朝の旧約聖書創世記はハガルの救済物語であります。このことにつきましてはアブラハム物語を知る必要があります。聖書において、最初の人はアダムとエバでありますが、これは神話的物語であります。聖書の民族の最初の人がアブラハムという人であります。ある時、神様はアブラハムに言います。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と示したのであります。アブラハムはこの神様の言葉に従って故郷を後にしました。その時、75歳であったといいます。アブラハムの妻サラ、甥のロトも一緒に旅だったのであります。途中、ロトとは、使用人の争いがあったりしたので、二人は分かれることにしました。神様から祝福の導きをいただいて、故郷を後にしたアブラハムであり、「あなたを大いなる国民にする」との約束を与えられています。大いなる国民にすると言われながらも、アブラハムとサラには子どもが与えられませんでした。それで、妻のサラがあせるようになり、サラに仕えるハガルから子どもを産むことを考えたのであります。ハガルは身ごもります。そうするとハガルは主人のサラを軽んじるようになるのです。そのため、主人であるサラはハガルに冷たく当たります。それでハガルはサラから逃亡したのでした。逃亡したハガルに神様の御使いが語りかけます。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから」と言うのです。この時、ハガルは自分のような奴隷の身分の者に、神様が顧みてくださるということで涙を流して喜んだのであります。それによりハガルはアブラハムの下に戻り、子どもを産んだのであります。その時、アブラハムは86歳でした。その後、妻サラに子供が与えられます。生まれた子どもがイサクでした。アブラハムが100歳、サラが90歳のときであったといわれます。気の遠くなるような話しですが、神様の御業として示されています。イサクが生まれたとき、ハガルの子どもイシュマエルは14歳でした。そこでまたサラの思いが強くなってきます。自分の子どもイサクがハガルの子どもイシュマエルにからかわれ、いじめられているとも言うのです。そのようなサラの執拗な言い分に、アブラハムは一家の平和のためにハガルとイシュマエルを追い出すことになったのです。
 そこで今朝の聖書になります。アブラハムは妻サラがハガルとイシュマエルのことで、苦情を日夜言うようになり、心を痛めました。しかし、その時、神様はイシュマエルにも祝福を与えるとの約束を与えたのでした。それで、アブラハムは神様の約束を信じて、ハガルとイシュマエルを去らせることにしたのでした。創世記21章14節、「アブラハムは次の朝早く起き、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。皮袋の水がなくなると、彼女は子供を一本の潅木の下に寝かせ、『わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声を上げて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った」のであります。荒れ野をさまよい歩き、食べるものも、飲む水も無くなったとき、もはや前のものが見えなくなりました。子どもが死に、自分も死ぬ、その時間を待っていたということです。しかし、神様はハガルがイシュマエルを産むとき、顧みを与えてくれました。今また、ハガルが進むべき道を見失ったとき、導きを与えられるのであります。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と言われたのであります。(イシュマエルは14歳になっているのですが、あたかも赤子のように記されています。)
 こうしてハガルとイシュマエルは生きる道が開かれたのであります。聖書はアブラハムの一族であるイスラエル民族が選びの民として記されます。この民族を通して人間の生きる道を示されたのであります。しかし、この民族だけにとどまりません。イシュマエルの民族、古くはカインの民族、エサウの民族等、直接聖書の民ではない人々をも導いておられることを示しているのであります。すべての人々が神様のお心によって生きるためなのです。地球上の人間が神様の祝福によって生きるためなのであります。

 そのような旧約聖書の基本的なメッセージをイエス様はそのまま人々に示しています。マタイによる福音書8章は、イエス様が5章から始まる7章までの山上の説教が終えられ、山から降りたイエス様の働きが示されています。山から下りられると、まず病気の人を癒しています。そして、今朝の聖書8章5節以下は「百人隊長の僕をいやす」との表題で記されています。百人隊長は聖書の民族ではなく外国人であります。その外国人が救われること、外国人にも福音が開かれていることを示しているのが今朝の聖書なのです。
 一人の百人隊長がイエス様のもとに来ます。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言うのです。だから治してくださいとは言ってないのですが、イエス様は「わたしが行っていやしてあげよう」と言われています。百人隊長の願いをすぐに汲み取ったイエス様なのです。ところで、百人隊長というのは、百人の兵隊を率いる隊長です。それはローマから遣わされた軍隊でもあるのです。聖書の国、ユダヤはローマの国に支配されている国でした。ローマは軍隊を派遣して不穏な動きがないようにしているのです。従って、聖書の人々に取りましては歓迎しない存在でもありました。ローマとの関わりは、何事も面白くないのであります。ルカによる福音書19章に記される徴税人ザアカイさんは、人々から悪人呼ばわりされています。ザアカイさんがローマのために人々から税金を徴収するからです。それが面白くないものですから、人々はザアカイさんを悪者にしていたのでした。今、ここに登場する百人隊長も人々からは悪く思われている人です。しかし、百人隊長は人々の思いを知りつつも、しかも自分は百人隊長という上に立つものでありますが、身を低くしてイエス様に懇願するのです。最初から「いやしてください」とお願いしたかったのでしょうが、それを言うことができない状況でもあったということです。従って、イエス様が百人隊長の立場を汲み取り、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたのであります。
 ところが、百人隊長はイエス様が自分の家に来られることを躊躇するのです。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言います。お言葉をください。そのお言葉に僕はいやされますというわけです。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」と言うのです。それを聞いたイエス様は、つくづく感心されます。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われるのでした。その後に、「東や西から大勢の人が来て、天の国で宴会の席に着く」というのは外国の人々が天の国に招かれることを示しているのであります。すべての人々が福音に与り、祝福をいただくことを示しているのであります。救われる対象はすべての人々なのです。特定の人々ではありません。どのような状況に生きようとも、救いの手が差し伸べられているのであります。主イエス・キリストは十字架の贖いを全ての人々に与えられたのであります。

 全ての人々に救いが与えられているのでありますが、教会は、「救い」は主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて洗礼を受けることだとしています。そして、洗礼を受けた者は、聖餐に与り、信仰が導かれていくのです。ところが十字架にしても、救いにしても、わからない人がいます。教団書記を担っている頃、5月になるとそれぞれの教区総会に教団三役が問安します。私も書記としていろいろな教区を問安しました。奥羽教区を問安し、教団議長挨拶文を書記が朗読して挨拶に変えるのですが、その後に色々な質問があります。その中で、一人の議員が質問しました。自分の教会には障害者がいて、その人達を覚えると、未受洗者配餐はしなければならないと思っていると言われました。その時、私は問安使の立場ではなく、大塚平安教会の牧師として申し上げたのです。大塚平安教会には幼児洗礼を授けられている人ですが、自閉症の人がいました。いつもお母さんと共に礼拝に出席していました。聖餐式の時にはお母さんがパンや杯をいただこうとすると、一緒になって手を伸ばし、取ろうとするのです。その人が成人式を迎えたとき、この人に堅信礼を授けることにしたのです。幼児洗礼を受けていますので、本人の信仰告白が必要です。しかし、自閉症である彼はできないのです。それなら、本人が信仰告白ができないならば、教会員が本人と共に信仰告白をすることにしたのです。彼の堅信礼の時、教会員が全員起立して彼と共に信仰告白をしたのです。そして、教会員として受け入れました。それにより、その障害者も一人の教会員として聖餐に与り、皆さんと共に教会生活を喜んでいますとお話しいたしました。
 すべての人の救いは、すべての人が主イエス・キリストの十字架の贖いを自分のためだと信じて、洗礼を受けることであります。そこで初めて救いが与えられるのであります。そこで、はじめて真の喜びが与えられるのであります。すべての人が救われなければならないのです。私の救いの喜びを人々に証していくことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。すべての人の救いのために、まず私達をお救いくださり感謝致します。私達がすべての人の救いの働き人になりますよう導いてください。主の名により、アーメン。