説教「憐れみの福音」

2013年7月21日、三崎教会
聖霊降臨節第10主日

説教・「憐れみの福音」、鈴木伸治牧師
聖書・ホセア書6章1-6節
     マタイによる福音書9章9-13節
賛美・(説教前) 讃美歌21・357「力に満ちたる」
    (説教後) 讃美歌21・448「お招きに応えました」


毎日、暑い日が続いていますが、言われていることは水分補強と適当な塩分、そして涼しい環境で過ごすことです。涼しい環境を作ることはエアコンや扇風機が必要でありますが、昔はエアコンや扇風機が無くても、窓を開けておけば涼しい風が吹きこんできて、涼しくする機械は必要なかったのであります。しかし、最近は地球温暖化もあり、涼しい風は外からは入らない。むしろ熱風が入ってくるという状況です。都会では特にそのような現象があるようです。
 私は3月から三ヶ月間、マレーシアの首都クアラルンプールで過ごしてきました。そこには日本語キリスト者集会がありまして、昨年三月までは専任の牧師がおられたのですが、退任されました。後任の牧師が決まらないので、日本基督教団の隠退牧師が三ヶ月ずつ交代で赴くことになったのです。三ヶ月はパスポートで行かれる期間であり、ビザをとる必要がないからです。私は五番目の牧師として務めてまいりました。マレーシアは赤道直下の国で、常夏の国であります。さぞ、暑い日々を過ごすのであろうと赴きました。確かに暑い国ですが、常時外を歩いている訳ではありませんので、家の中にいれば冷房の利いた室内なので、暑さを感じませんでした。だいたい午後になると雲が出てきて、雷が鳴り響きます。ものすごい雷の音です。やがて雨が降ってくるのですが、スコールと言いまして、どしゃ降りの雨になるのです。だいたい1時間くらい降ると止みますので、後はまた暑い日差しになるのです。日本のように雨がしとしとと降り続くことはありません。一時の雷雨であります。一時の雷雨は道路がきれいになりますし、車もきれいになるわけです。
 クアラルンプール日本語キリスト者集会は今年で30周年を迎えています。30年前と言えば、私が40歳の頃、大塚平安教会に赴任した頃です。その頃は、マレーシアには企業関係で派遣される日本人の皆さんがおられたのです。マレーシアはイスラム教の国ですが、宗教には寛容であります。キリスト教の教会が結構存在しているのです。しかし、派遣されている日本人の人々が、何とか日本語の礼拝をささげたいとの思いがありました。そのような願いが、何人かのキリスト者の出会いとなり、少人数でも礼拝をささげましょうということになったのです。しかし、日本人の牧師がいません。それで現地におられる牧師に依頼して礼拝を始めたのでした。マレーシアは英語も同等の公用語であり、説教は英語てしたが、集まる皆さんが交代で通訳をしていました。派遣されている本人は英語が話せても、家族は話せない人もいるのです。日本語の礼拝をささげたいということですから、皆さんが英語を話せても、説教は日本語で聞きたいのです。派遣されている人々ですから、数年後には日本に帰国されてしまうのです。固定的な教会員がおりませんでしたが、それでも集会が続けられてきたのでした。30年を経た現在、教会には固定的な皆さんが出席されるようになっています。マレーシアで企業を設立している人々、長くひとつの企業で働いている人達と共に、MM2Hの人々がおられるのです。マレーシア・マイ・セカンド・ホームの人々です。マレーシアは住むにはとても良いところです。暑い国ではありますが、室内は快適ですし、物価も安いし、生活しやすいのです。マレーシア政府は外国人が住むために、いくつかの条件を満たせばビザを発給する制度を持っています。最低950万円の資産があり、月収入27万円があれば条件を満たすことになります。そして資産の400万円を銀行に定期預金とすることが求められているのです。定年退職された皆さんが、この制度を利用してマレーシアに滞在しており、そういう皆さんが礼拝に出席しているのです。
 企業から派遣されて来られている皆さんは、クアラルンプールには日本語の集会があるのか、いろいろと調べ、この教会に導かれた喜びをお話されていました。日本語で讃美歌を歌い、日本語で説教を聞き、日本語でお祈りをささげる、日本人として真の信仰告白をしたいのであります。そのようなクアラルンプール日本語キリスト者集会に集まる人々を神様は祝福をくださっていると示されたのであります。まさに真の礼拝をささげているのであります。

 真の礼拝ではない、偽りの礼拝ささげて、厳しく問われたのは聖書の人々であります。今朝の旧約聖書ホセア書6章は「偽りの悔い改め」について示しています。ホセアという預言者は自分の体験を通して、神様のお心を示され、人々に語ったのでありました。それも夫婦の関係であり、その夫婦の関係が破れる経験を持つのであります。そういうことは人には言いたくないのですが、ホセアから離れ、他の男性のもとへ行ってしまった妻の姿から、人々の姿を示されるのでした。すなわち神様に養われ、導かれている聖書の人々と神様との関係は夫と妻、夫婦のような関係なのです。聖書では神様と聖書の人々との関係を花婿、花嫁の関係として示しているところもあります。それほど密接な関係であるというのです。ところが神様から離れ、他の神、すなわち人間が造った神に心を向けるようになります。密接な関係を破ってしまう人間の姿を示すのは、旧約聖書預言者の働きでした。神様を仰ぎ見つつ生きることが求められています。しかし、人間は神様ではない存在、すなわち偶像の神に心を寄せ、あるいは力のある国に助けを求めるのでした。
 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」と告白しています。「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる」と告白するのであります。いかにも信仰的であります。神様の救いの御手を深く受け止め、救われる喜びを告白しているようであります。しかし、この信仰は極めて自己満足的であります。「主のもとに帰ろう」と言い、「主を知ろう」と言うのですが、何処から帰るのかであります。本来、歴史を導く神様に養われていた人々なのです。それが、こういう関係は面白くないと言い、神様のもとから離れていったのであります。偶像の神々のもとへ心を寄せたのであります。他の神に心を寄せる姿を姦淫としています。それは預言者ホセアとその妻ゴメルの関係でありました。ホセアは自分の体験を聖書の人々の中に見ているのです。勝手に「主のもとに帰ろう」という人々には悔い改めがありません。心を砕いて神様の前に跪く姿がないのです。神様のもとに帰って何をしようとするのか。結局、自分の思い通りに生きるだけなのです。これは真の礼拝ではありません。自分の思いどおりにならないので、結局はまた勝手に離れていくのです。
 「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」と神様は言われます。「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くすささげ物ではない」と言われます。表面的な信仰は受け止めないといわれているのであります。勝手に出て行って、勝手に帰ってくることができるか、心からなる悔い改め、信仰の告白が求められているのであります。

 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とホセアは人々に示しています。その言葉を引用して主イエス・キリストも、人々に真の礼拝を示しています。新約聖書はマタイによる福音書9章9節以下であります。マタイを弟子にすることが記されています。マタイによる福音書は5章から7章まで山上の説教が記され、その後8章から山を降りたイエス様の活動が始まっていくのです。従って、9章はイエス様の宣教活動の始まる頃でした。少なくともこの時点では、イエス様のお弟子さんとしてペトロ、アンデレ、ヨハネヤコブの4人が決まっています。今ここで、新たにマタイがお弟子さんに加えられるのであります。マタイは徴税人でありました。聖書の国ユダヤはローマに支配されている状況がありました。ローマのために税金を納めなければならないのであります。しかし、人々は自分達を支配する外国に対して税金を納めたがりません。そのため、税金を集める人たちを面白くない存在と思っています。いつの間にか、そういう人たちを罪人呼ばわりするのでした。従って、これはルカによる福音書に記されるザアカイさんにも通じるのですが、徴税人の人たちは孤独でありました。社会の人たちに相手にされない存在になっていたからです。
そのマタイさんがイエス様の招きを受けたのです。「わたしに従いなさい」と招きのお言葉をいただいたマタイさんは、すぐにイエス様のお弟子さんになり、そしてイエス様をもてなしたのでした。その時、マタイさんの友達の徴税人たちも一緒に食事の席に着きました。聖書には「罪人」も一緒に同席したと記されます。当時の世界では病気の人が体に障害があったりすると罪人と称していたのです。そのように病気であったり、体の障害があるのは、先祖が悪いことをしたからか、本人が悪いことをしたからだという因果的に考える社会であったのです。そのような人々も社会の中でさびしい思いをしていたのです。こうして主イエス・キリストは社会の人々から見放されていた人々と親しく食事をしていたのであります。その様を見たファリサイの人々が批判しました。ファリサイ派とは当時の社会で戒律を厳格に守っている人で、その意味でもエリート的な存在でもあったのです。従って、お弟子さん達に「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言うのです。罪人といわれる人と交わることが禁止されていたからであります。イエス様はそのように批判しているファリサイ派の人々に言いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたのであります。ファリサイ派の人たちは模範的な信仰の姿で歩んでいるのです。戒律に定められたとおりの歩みであります。ルカによる福音書18章9節以下でイエス様がたとえ話をしています。「ファリサイ派の人と徴税人」について記されています。ファリサイ派の人は、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取るもの、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています」と祈るのです。それに対して徴税人の祈りは、彼は遠くから神殿に向かってお祈りしています。目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」とお祈りしたのでした。イエス様はこのお話をして、祝福されたのはこの人であると言われたのです。自分を空しくして、神さまの憐れみを願い求めているのです。
今朝の聖書は戒律を厳格に守りつつ生きているファリサイ派の人が、イエス様が罪人と言われる人たちと食事をしていることで批判をしています。それに対して、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と示しています。形だけの信仰ではなく、心から神様に向かい、憐れみを願い求めることであると教えておられるのです。真に神様に向かうならば、神様の深い愛へと導かれるのです。神様の愛に導かれるならば一人の存在を真に受け止めて生きる者へと導かれるのであります。

 イエス様が来られたのは「罪人を招くため」であると言われます。まさにイエス様は当時の社会にあって、罪人と言われていた人々共に交わり、神さまの御心へと導かれたのです。そうすると、現代に生きる私達は、イエス様とは関係ないのでしょうか。教会に初めて来られた方が、帰りがけに、「もう私は教会には来ません。私は罪人ではないからです」と言われました。その日の説教が、「罪人を招くイエス様」がお話されたのでした。「罪人」と言うとき、社会的に悪いことをして警察に捕らえられた人と思われます。「私は罪人ではない」と人々は思っています。「教会に行くと、罪人だの悪人であると言われるので、だから行きたくない」と言われるのです。それらの人々は表面的な罪、結果における悪しか考えていないのです。私達が他者に対してどのように対処しているのか、イエス様は指摘しています。マタイによる福音書5章21節以下、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」とイエス様は示しているのです。このことは結果ではなく、途上であるのです。人との関係の途上において、「他者をどのように思っているか」と問われているのです。「あの人嫌い」、「あの人とは話をしたくない」などと思っている。それも罪なのですよ、悪なのですよ、とイエス様は示しているのです。
そもそも「罪」とは、人間の誰もが持つ姿なのです。それを「原罪」として示されます。これは創世記に示されるアダムさんとエバさんから始まります。最初に造られたというアダムとエバ、彼らはエデンの園にいます。神様は彼らに、このエデンの園で、どんな木の実を食べてもよろしい。しかし、一つだけ、園の中央にある木の実からは取って食べてはならない、との戒めを与えていたのです。彼らはその戒めを守って過ごしていましたが、あるとき蛇なる存在が現れ、彼らを誘惑するのです。「本当に神さまが取って食べるな、などと言ったのか」と言うのです。今まで、ほとんど意識になかったのが、「本当なの」と言われると気になるのです。私達も人と話していると、「うそっ」とか「ほんとっ」と言われて、なんか話していることが空しくなることがありますが、そう言われると気になるわけです。アダムさんとエバさんは改めて禁断の木の実を見ることになります。すると、「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」のであります。二人は思わず禁断の木の実を食べてしまうのです。聖書はここに罪の姿があると示しているのです。自分の欲望を満足するために、禁断であっても、他者を押しのけて自分のものにする、これが罪だと指摘しています。自己満足のためです。自己満足そのものは罪ではありません。自己満足がないと人間は成長しないのです。しかし、自己満足には、他者を排除し、切り捨てるという落とし穴があるのです。
 主イエス・キリストは人間の自己満足を滅ぼすために来られたということです。人間は自分では克服できません。それでイエス様は十字架にお架りになり、ご自分の死と共に人間の中にある自己満足を滅ぼされたのです。私たちが十字架を仰ぎ見るのは、イエス様が私の他者排除を滅ぼしてくださったという救いの喜びを与えられるのです。「私が来たのは罪人を招くためである」とイエス様はこの私を招いてくださっているのです。「私には罪がありません」と言うのではなく、原罪を持つ者としてイエス様のお招きの言葉に従わなければならないのです。罪人であるという姿勢で礼拝に臨むのです。それは神さまの憐れみを求めている姿勢です。そのような礼拝者に神様は憐れみをくださり、それは神さまのお慈悲であり、私を包む愛なのです。その愛、お慈悲をいただいて現実の生活に変える時、「あの人とは話したくない」、「あの人、嫌い」と思っていたのですが、その人・あの人を愛せなくても、仲良くならなくても、その人・あの人をお祈りする者へと導かれるのです。そこで、新しい一歩が導かれて来るのです。神様は私達を憐れんでくださっているのです。このような私だからこそ、神さまの憐れみが与えられているのです。
<祈祷>
聖なる神様。罪人の私を憐れんでくださり感謝致します。憐れみの福音を人々に証しできますよう御導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。