説教「遣わされる者」

2013年7月28日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第11主日

説教・「遣わされる者」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨナ書3章1-9節
    使徒言行録9章26-31節
     マタイによる福音書9章35-10章4節
賛美・(説教前) 讃美歌54年版183「主のみたま」
   (説教後) 讃美歌54年版214「北のはてなる」


今朝は「遣わされる者」と題して聖書の示しをいただきます。日本基督教団の聖書日課ですが、「宣教への派遣」がテーマになっています。この時、私達の信仰の証しを世界の人々に示していくことが示されているのです。今年は聖霊降臨祭が5月19日であり、三位一体主日が5月26日でした。5月に聖霊降臨祭を迎えるのは、教会の暦としては早い方です。しかし、2016年は5月15日であり、2035年は5月13日に聖霊降臨祭を迎えます。早く迎えるということは、クリスマスは12月25日で不動の日でありますから、聖霊降臨節の暦が長くなるのです。クリスマスの後は降誕節でありますが、2月中旬頃までであり、その後は四旬節または受難節になります。それも3月下旬から4月上旬までであり、その後は復活節であります。復活節は50日間であり、聖霊降臨節となるのです。降誕節や復活節はそれほど長くはなく、聖霊降臨節は半年間続くことになります。この聖霊降臨節に宣教、伝道が導かれることになります。今朝の聖書も神さまの御心が世界の人々へ伝えられていくために、伝道者が選ばれているのです。
 私は今年の3月から三ヶ月間マレーシアのクアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として赴きました。日本基督教団の推薦をいだいてのことですが、当初はお断りしました。連絡をいただいたのは昨年の8月頃でした。丁度、9月から二ヶ月間スペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている娘の羊子のもとに連れ合いと共に出かける予定があったのです。従って、この上三ヶ月もマレーシアに行くことについては、重い腰になったわけです。しかし、連れ合いが「まだ行かれる力があるのだから、お受けしたら」と勧めるのでした。「まだ、力がある」と言われて、まさにお導きのままに六浦谷間の集会の礼拝をささげていますし、横須賀上町教会の礼拝説教・聖餐式を担当していますし、時々は三崎教会の講壇にたせていただいています。まだ、力が与えられているのです。その意味で当初はお断りしたのですが、受託を伝えたのでした。自分がその気になって赴いたというのではなく、神さまが派遣してくださったと思っています。
 マレーシアからは6月4日に帰国しました。その後、前任の教会、30年間牧会した大塚平安教会から、8月の第二日曜日の礼拝、創立記念日礼拝の講壇を担当していただきたいとの要請がありました。第二は横須賀上町教会の講壇が予定されていますので、第三主日であればと言うことで、8月18日になりました。それから7月になってからですが、私の最初の教会、青山教会の牧師からお電話をいただき、11月3日の講壇にお招きしたいとのことで、私はそのお電話で受託したのです。私の伝道者としての出発の教会でもあるからです。さらに、最近では出身の清水ヶ丘教会壮年会修養会の講師の要請がありました。「主に従う者の生活」とのテーマでお話してもらいたいとのことです。どのように展開するか、未定ですが、私を育ててくれた清水ヶ丘教会の御用として受託したのでした。
 このようにいくつかの予定の他に、毎月の予定があり、隠退したものの、現役と同じように、神様は私を働かせてくださっているのです。神様が派遣してくださっているのですから、いつも受託しつつ、お応えしたいと願っています。

 今朝の旧約聖書はヨナの物語であります。旧約聖書は創世記から始まってエステル記までは歴史書であります。聖書の民族の歴史的経過を記しています。続いてヨブ記から雅歌までは文学書と言われます。これらは実際の出来事ではなく、創造的な物語、あるいは神様を讃美する詩歌であり、神様の知恵として語られる教訓であります。そしてイザヤ書から最後のマラキ書までを預言書と称しています。神様のお心を預言者が人々に示す書なのであります。今朝のヨナ書は預言書の中におかれています。ヨナ書を読むと、預言書というより物語であります。従って、これは物語的に神様のお心を示しているのであります。
 少し物語を見ておきましょう。ある日、ヨナは神様のお告げを聞きます。「さあ、大いなる都ニネベに行って、これに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」と神様は言われるのであります。ヨナがニネベに行き、悪に染まっている人々に神様のお心を伝えなさいと言われているのであります。ところが、ヨナはその神様のお告げから逃れようと、ニネベではない、別の方角に行く船に乗ってしまうのでした。ヨナの乗った船が航行していると、嵐になり、船が沈みそうになります。船の人たちは積荷を海に捨てたりして、難を逃れようとします。そして、こんなに船が嵐によって災難を被るのは、誰かのせいであり、その誰かを突き止めるためにくじを引くことになりました。くじはヨナに当たりました。そこでヨナはありのままを話します。神様のご命令を逃れて、別の船であるこの船に乗ったこと、この嵐は神様の私への怒りであり、だから私を海の中に放り投げてもらいたいというのです。躊躇する船の人々ですが、ヨナの申し出の通り、ヨナを海の中に放り投げるのでした。すると嵐はぴたりと止まり、船は静かに航行できるようになりました。海に放り投げられたヨナは大きな魚に飲み込まれてしまいます。そして、その魚の中で三日三晩過ごすのでした。そして祈りのうちに過ごしますが、心からなる祈りをささげたとき、魚はヨナを吐き出しました。吐き出したところがニネベでありました。
 そして今朝の聖書になります。ヨナはニネベの人たちに、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と一日中叫び続けたのでありました。すると、ニネベの人たち、王様も粗布をまとって神様にお祈りをささげるのでした。粗布をまとうということは悲しみを表す行為です。こうして国中の人々が粗布をまとって懺悔のお祈りをささげましたので、神様は悪に染まったニネベを滅ぼすことを思いとどまったのであります。
 このヨナの物語はいろいろな意味合いが示されています。三日三晩大きな魚の中に居たことはイエス様の墓を意味していると解釈します。魚のお腹から出たヨナ、墓から出たイエス様の罪の悔い改めの働きに重ねるのであります。いろいろな解釈がありますが、預言書の中に含まれるヨナ書が外国人伝道を示しているということが大筋の考え方であります。聖書の人々ではないニネベの人たちへの宣教、外国人伝道がここで示されているということであります。神様はこの地上のすべての人々に、神様の御心を示し、神の国実現へと導いておられるのであります。聖書の人々以外の人々への伝道でありますが、聖書の人々に対して外国人であるニネベの人々が粗布をまとい、心から罪の悔い改めをする。聖書の人々以外の外国人も救いに与ることが示されているのです。神様の救いは全世界の人々に与えられているのです。そのために、神様は宣教者、伝道者を選び、それぞれの場に派遣されているのです。

 主イエス・キリストは聖書の国ガリラヤ地方で伝道を開始しました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われ、神様の福音を宣べ伝え始められたのであります。そして、まず4人のお弟子さんを選びました。ペトロ、アンデレ、ヤコブヨハネであります。前週はマタイが弟子に加えられたことの示しでありました。今朝の聖書は既に12人の弟子が選ばれています。今朝の聖書の前の段落、9章35節以下に、主イエス・キリストが人々に同情したことが記されています。主イエス・キリストは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」と言われたのであります。世の人々は弱っているとは主イエス・キリストの指摘なのです。打ちひしがれていると言われるのです。まさにその通りであります。だから、そのために私たちが働き人として選ばれているのです。
 「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とイエス様は示していますが、その後の10章ではイエス様が12人のお弟子さんを選び、それぞれの場に派遣していることが記されています。今朝の聖書の後になりますが、10章5節以下に12人のお弟子さんを派遣するにあたり、その心構えを示しています。最初に「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と示しています。異邦人やサマリア人は外国人であり、今朝のテーマからすれば外国人伝道が奨励されるべきであります。しかし、イエス様はまず聖書の人々への伝道を奨励しているのです。聖書の人々はユダヤ教の社会です。その社会の中に現れたイエス様は、人々が「飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれている」状況を御覧になりました。歴史を通して神様のお導きをいただいているイスラエルの人々なのに、弱り果てている姿を御覧になるのです。まず、これらの人々への救いが必要なのです。それでお弟子さん達を「イスラエルの家の失われた羊」へと派遣するのでした。「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさいと示しています。「病人をいやし、死者を生き返らせなさい」と命じています。そのために、お弟子さん達には「汚れた霊に対する権能をお授けになった」のであります。
 「汚れた霊」とは、人間が持つ偏見、迷信による生き方であります。そのような汚れた思いが病気を促し、死んだような存在にしてしまうのです。イエス様がお弟子さん達に与えた権能は人間の弱さに打ち勝つ神さまのお導きでありました。さらにイエス様は派遣するお弟子さん達に、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない」と言われ、「袋も二枚の下着も、履物も持って行ってはならない」と言われています。袋を持つということは、予備のものを袋に入れて供えることになるわけです。予備のものは一切持たず、そのままの姿、現状の姿で行きなさいと教えているのです。自分の予備のものに頼るのではなく、全てを神さまに委ねて行くべきだと示しているのです。派遣されているのは神様であるからです。このようにしてイエス様はお弟子さん達を派遣するにあたり、全てを神さまに委ねて、人々に「天の国は近づいた」と宣べ伝えることを教えたのでした。
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 弱り果てている人々に主の救いの福音を示せば、すぐに信じる人へと導かれるのでしょうか。キリスト教は宗教の世界です。救いを示しても世の人々はなかなか受け入れないのであります。いろいろな事情があります。はじめから宗教には心を開かない人々がいます。日曜日に教会に行くことは無益なことと思っている人もいます。それぞれの姿勢があるとしても、どこかで主イエス・キリストに出会うことになるのです。その出会いを導くのが伝道、宣教ということなのです。伝道、宣教という言葉を使いますが、ほとんど同じ意味です。主イエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えることが伝道であり、宣教であります。
 2009年は日本にキリスト教プロテスタントの信仰が宣べ伝えられて150年になり、日本国内のプロテスタントキリスト教はお祝いの時を持ちました。日本基督教団プロテスタント伝道150年記念と称してお祝いしましたが、超教派ではプロテスタント宣教150年記念と称してお祝いしました。開国の場所でもある横浜で超教派のお祝いが開かれたのです。2009年7月8日、9日にパシフィコ横浜で記念の集会が開かれ、述べ16000人が出席しました。この日本にキリスト教が宣べ伝えられたのです。今や世界の至るところにキリスト教が宣べ伝えられています。
 毎日、散歩しています。追浜と言う町を通り、そこから野島に向かい、そこから金沢八景を通り帰宅するのです。その追浜には雷神社があります。境内地の隣が空き地になっていました。その空き地には「関東学院教会用地」と記されていました。いつもその雷神社の横にある空き地を見ながら歩いていました。それは3月にマレーシアに行く前です。そして6月に帰国し、再び散歩するようになった時、今までの空き地に建て物が建ちあがっていました。全体は工事用に覆われていましたが、上の方に十字架が見えるのです。最近ではその工事用の覆いがはずされ、全容が見えるようになりました。それほど大きな建て物ではありませんが、雷神社の境内地のすぐ横に、赤茶色の建て物、教会が建てられたのです。関東学院教会は、今までは関東学院の敷地内にあったと思います。私が小学校三年生の時、母に連れられて行った教会は、関東学院と言う学校の中にあった教会でした。そこは礼拝堂と言うより講堂であったような気がします。その後、チャペルが造られたのでしょう。クリスマスになるとキャンドルサーヴィスの案内チラシが入ったりしました。しかし、学校の中にある教会は、一般の人は入りにくい面もあります。それで学校から出ることにしたと思いますが、雷神社境内地の横に教会を建設したことには、驚いています。遣わされている場所がどのような場所でありましょうとも、神様によって派遣されているのです。そこで主の宣教が力強く宣べ伝えられるようお祈りする次第です。
 私達もまた遣わされています。自分は力がない、口下手である、まだ若いと聖書の人々も躊躇していますが、それでも神さまのお導きに従ったのです。神様が遣わされるのです。私達は断る理由は何もないのです。人々は「飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれている」のです。私達が遣わされているのです。私達も「天の国は近づいた」と宣べ伝えましょう。主イエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝えて参りましょう。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いを与えられ感謝致します。この喜びを多くの人々に宣べ伝えることができますようお導きください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。