説教「神の恵みの福音」

2013年8月4日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第12主日

説教・「神の恵みの福音」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書20章7-13節
    使徒言行録20章17-24節
    マタイによる福音書10章16-23節
賛美・(説教前) 讃美歌54年版183「主のみたま」
    (説教後) 讃美歌54年版214「北のはてなる」


日本基督教団は毎年8月の第一主日を「平和聖日」としています。平和は常に祈っていますが、言うまでもなく8月は戦争に関わる記念の日があるからです。日本が戦争の負けを受け入れた日が敗戦記念日であります。1945年8月15日でありました。私は1939年生まれですから、敗戦を迎えたのは6歳でした。横浜のはずれに住んでいましたので、空襲等の戦争体験はありません。しかし、アメリカの爆撃機が到来するたびにサイレンが鳴り、急いで防空壕に非難したことは覚えています。頭上を爆撃飛行機が横浜や東京方面に編隊をなして飛んでいく光景も覚えています。防空壕に非難しても、この辺は大丈夫と思っている人が多く、一度は防空壕に入りますが、出てきて飛行機を数えたりするのです。横浜の市街地方面の空が赤くなっていることも忘れることはできません。
 1967年に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が当時の教団議長・鈴木正久牧師の名において発表されました。通称「戦争責任告白」であります。日本が戦争を激化させていく中で、日本におけるキリスト教の諸教会は戦争に協力させられていくのであります。宮城遥拝と言い、天皇がいる宮城に向かって拝まなければならなかったり、天皇を神様として仰がなければならなかったのです。教会の礼拝には憲兵が入り込んで、牧師の説教をチェックし、天皇制に反する言動を見張っていたのでありました。キリスト教は神様以外の存在に対して、絶対に拝まないことであります。天皇の神格化を受け入れることができないのでありますが、その時代を生き延びるために、不本意でありますが従わざるを得なかったのであります、自分の命、家族を守るためにも、その時代に身をおかざるを得なかったのであります。戦争責任告白は日本のキリスト教が戦争に協力したことに対する懺悔の告白です。教団はアジアの諸教会にも日本の戦争に協力するよう呼びかけましたので、アジアの諸教会にも謝罪し、懺悔しているのであります。しかし、それに対して、戦争協力はやむを得なかったのであると言い、戦争責任告白を喜ばない人もいるのです。しかし、戦争責任告白は私たちがその時代にいなかったとしても、戦争への責任は持たなければならないのです。戦争を起こす体質は私たちも持っているからです。
 戦争を起こす体質を持っていますが、しかし私達は「神さまの恵みの福音」をいただいているものです。恵みの福音が平和を祈る者へと導いてくれるのです。今朝は「神さまの恵みの福音」によって私達が生かされていることを示されるのであります。

 前週はヨナ書を示されています。もう一度示されておきます。神様はニネベの町が悪徳に栄えたので、ヨナを選んでニネベに遣わし、人々を悔い改めさせようとします。しかし、ヨナはその任を嫌がり、ニネベではない、別の方角の船に乗ってしまうのです。神様は嵐を起こさせ、ヨナが乗っている船が今にも沈みそうにさせるのです。船の人たちは、これはきっと神の怒りであり、それはだれであるかくじを引きます。くじはヨナにあたります。ヨナは自分が神さまの御心から逃れてこの船に乗っているのであり、だから自分を海の中に放り投げてくれと言うのでした。船の人たちは躊躇しますが、ヨナの言うとおり、ヨナを荒れ狂う海の中に放り投げます。すると嵐はぴたりと止むのです。ヨナは大きな魚にのみ込まれ、魚のお腹の中で三日間すごします。そして悔い改めて、神さまの御心に従おうと決心した時、大きな魚はヨナを吐き出しました。そこがニネベの町でした。そして、ヨナは神さまの御心に従い、ニネベの人たちに悔い改めを迫るのでした。人々はヨナの言葉に従い、王様までも悔い改めたのでした。それにより、ニネベの町は救われたのでした。
 このヨナの物語は、神さまが御心を示す人を必ず導くことを示しています。逆に言えば、御心を示された人は逃げられないと言うことを示されるのです。今朝の旧約聖書のエレミヤもその一人であります。20章7節にはエレミヤが次のように告白しています。「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです」と述べています。最初にエレミヤが神さまの召しをいただいた状況はエレミヤ書1章4節以下に記されています。主の言葉がエレミヤに臨みます。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎内から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と言われたのです。それに対してエレミヤは、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎません」と辞退しています。すると神様は、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、誰のところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と言われたのでした。エレミヤは神さまの御心に捕らえられた者として、預言者として生きることになるのです。
 そのエレミヤの歩み出しを示されて今朝のエレミヤの告白を示されるのです。「わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです」とエレミヤは告白しています。聖書の人々はエレミヤの言葉を聞こうとしません。状況的には大国バビロン、アッシリア、エジプトの狭間にあって、どのように生き伸びるか、進路を決めかねているのです。偽預言者達は「主の神殿」があるから安泰だと人々に言い聞かせています。指導者達は、エジプトと手を結んで、バビロンに対抗することを考えています。そういう中で、エレミヤは、むしろバビロンに降伏して生き延びることを勧めているのです。今朝の聖書20章8節以下でエレミヤは述べています。「わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」と人々の中で孤立する姿を述べているのです。困難な状況であり、耳を貸さない人々への預言ですが、エレミヤは確信しているのです。「主に向って歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を、悪事を謀る者の手から助け出される」と神さまの恵みと導きを示しているのです。エレミヤのように「あなたの勝ちです」と神さまに言わなければならないのです。私達も神さまに捕らえられ、そして今の状況におかれていることを思わなければならないのです。

 主イエス・キリストに捕らえられて、イエス様のお弟子さんになった人たちのことについては、前週も示されています。イエス様は12人のお弟子さんをお選びになり、すぐにもお弟子さん達を派遣しているのです。そのお弟子さん達にイエス様は「汚れた霊に対する権能」を授けておられます。「汚れた霊」とは人間的な自己満足です。それに打ち勝つ力をお与えになっているのです。そして、派遣にあたり、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と戒めています。すべてを神さまに委ねて伝道するように導いているのです。
 そして、今朝は更に厳しいことを示しています。「わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに羊を送りこむようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と示しています。イエス様の御心を持つゆえに迫害されるとも言われています。しかし、どのような迫害がありましょうとも、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」とイエス様は教えているのです。どのような状況になろうとも、神さまが共におられて、導いてくださることを教えているのです。神様が困難な状況を導いてくださるのです。
 このような厳しいことになるのであれば、イエス様のお弟子さんにならなくても、普通に生きれば良いのではないかと思われるでしょうか。このお弟子さん達の派遣については、主イエス・キリストの十字架の贖い、十字架の救いの前のことです。しかし、イエス様は十字架にお架りになる前に、救いを信じて生きる者の姿を示しているのです。少なくとも、この時点では「自分を愛するように、あなたがたの隣人を愛しなさい」と教えておられます。そして、その教えに生きる者が、現実を天の国として生きる者へと導かれると示しているのです。イエス様を信じると言うことは天の国へと導かれるためなのです。そのイエス様の基本的な教え、「隣人と共に生きる」こと、人間は出来ないので、イエス様は十字架にお架りになり、基本的な教えを実践出来る者へと導いてくださっているのです。私達が天の国へと導かれるためです。
 十字架の救いを信じて生きる時、この世に身を置く私達は、やはり戦いがあります。世の人々から理解されないことがあるのです。日本の戦争中、国民が一丸になって戦争に突入したとも言えるでしょう。何事もお国の為として、戦争に勝つことが祈られていました。そういう中で、イエス様を信じる人々は、この戦争はいけないことだと告白したのです。戦争反対はキリスト者ばかりではなく、人々も反対をしています。しかし、全国民は戦争を擁護し、反対者は国賊とまで言われました。イエス様の救いをいただいた者は、イエス様の御心に反することとして戦争に反対します。迫害の身におかれるのです。
 エレミヤは人々が神さまではなく、人間の力関係に頼ろうとしているとき、降伏することを叫び、神さまに委ねて生き伸びるよう預言したのでした。そこで告白したのが、「あなたの勝ちです」と神様に申しあげたのです。苦しくても、辛くても、神さまが導いてくださることを告白しているのです。「神さまの勝ちです」と告白しなければならないのです。

大塚平安教会在任の頃、一人の少年が交通事故に遭い、そのとき、教会の皆さんが、すがる思いで神さまにお祈りしました。2006年7月のことでした。そのことを当時のブログに記していますので、思い返しています。
<2006年7月5日のブログ>
月曜日に少年院で一人の少年と面接をしているとき、携帯電話の受信がありました。マナーモードにしてありましたので、面接が終わってから発信者に連絡しました。小学校一年生のお子さんが交通事故にあい、北里大学病院に救急車で搬送されたと言うのです。少年院は相模原小山にありますので、北里大学病院は帰り道にあります。救急・救命センターに駆けつけることができました。両親はもちろんですが親族、学校の校長先生、担任の先生もおられました。今は処置をしているところであると言われました。一時間も待ったでしょうか、病室に移されました。ようやく事故にあった少年と会いました。彼は意識不明となっています。事故以来意識不明のままなのです。体の骨折はなかったようですが、頭をうっており、左の目の辺りも紫色にはれていました。検査の途中でありますが、異常は今のところ認められないということであり、いずれ意識は回復してくるとのことでした。しかし、今日、水曜日の朝になっても意識は回復していません。水曜日のお昼頃、お父さんのお話では、今は麻酔により眠った状態であると言われています。「がんばれー」と少年に向かって叫んでいます。そして、日夜お祈りしています。
「神様、今は意識不明のまま、その体が懸命に生きようとしている少年を助けてください。彼に回復に向かう力を与えてください。お医者さんの回復への術を増し加えてください。両親をはじめ彼を愛する人々に導きを与えてください。
神様、あなたの出番です。私達は日ごろ神様を忘れ、なにもかも自分の力で生きていると思っているのです。うまくできて人から褒められるとき、自分の力はたいしたもんだと自負しています。結構、苦しいことがありましたが、ちゃんと切り抜けています。みんな自分で自分の道を歩いていると思っているのです。しかし、神様、今こそあなたの出番です。あなたのお力が必要なのです。あなたの奇跡をも生み出す力が必要なのです。今になって思います。何もかも自分で切り抜けてきたと思っているこの私に、神様がどんなにか力を下さり、導きを与えてくださっていたのです。それなのに、私は私の功績であるかのように思っていたのです。何もかも私の人生はあなたのお計らいでありました。いつだってあなたの出番であったのに、私の出番としていたのです。出番と思っていただけで、何一つできなかったはずです。あなたが終始出番をされたからこそ、今の私があることを、いまさらながら知ることができます。もう、私の出番なんか考えません。あなたの出番です。あなたの御力を現してください。意識のないままに生きようとしている少年に、どうぞ力を注いでください。癒しの御手、支えの御手を差し伸べてください。この悲しい、苦しい時にあなたに切なる願いを続けている両親と家族に御心を示してください。そして、現れるべき結果において、勇気を持って受け止めていく力を与えてください。慈しみをもって私達を導く主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン」
神さまのお恵みの福音をいだいている私達は、その喜びの基は主イエス・キリストにより、神さまがくださっていることを知らなければならないのです。何もかも、イエス様によって神さまが私を導いてくださっているのです。私のこの現実にお恵みが与えられ、イエス様の福音、十字架による救いが与えられているのです。「神さま、あなたの勝ちです」、「神さま、あなたの出番です」と言いつつお恵みの福音を喜びつつ生きることなのです。何事も神さまの御心を基として生きることを示されたのです。
<祈祷>
聖なる神様。十字架を仰ぎ見ることができますことを感謝いたします。十字架を基として歩むことができますよう御導きください。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。