説教「祝福の家族」

2013年8月11日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第13主日

説教・「祝福の家族」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記24章62-67節
    コロサイの信徒への手紙3章18-4章1節
     マタイによる福音書12章43-50節
賛美・(説教前) 讃美歌54年版272「ナザレのふせやに」
    (説教後) 讃美歌54年版433「みどりの柴に」


今朝は「家族」について聖書の示しをいただくのでありますが、家族と言えば、やはり肉親の家族でありましょう。親は子を、子は親を愛しつつ生きるのが家族であり、兄弟姉妹もいたわり合いつつ生きるのが家族であります。
 私は5人兄弟の末っ子であります。上の三人は姉であり、私のすぐ上は兄でありました。その兄は日本の敗戦後の翌年、小学校4年生で亡くなりました。一番上の姉は1997年に68歳で亡くなっています。15年間、病と闘いながら、老いゆく両親と共に過ごした姉でしたが、母を送り、父を送って、あたかも自分の使命は終わったと言うがごとくに天に召されたのでした。私は若い頃、伝道者の召命を頂きながらも、年取ってゆく両親をどうするか、思い悩んでいたのです。二番目の姉と三番目の姉は結婚しているので家には居ません。結婚しないでいる上の姉が、「お父さん、お母さんとは私が一緒に暮らすから、あなたは伝道者の道に進みなさい」と勧めてくれたのです。それにより、神学校に入り、最初は青山教会、そして宮城県の教会等10年間、両親とは離れて過ごすことになります。もちろん時には帰省していました。そしてその後は実家に近い大塚平安教会の牧師に招かれ、何かと行き来できるようになりました。上の姉が両親と暮らしてくれているので、安心して職務に励むことができたのです。まず90歳になった母を1989年に送り、そして1995年には父を送った姉は、まさに使命を果たしたと思っていたでありましょう。その姉には心から感謝している次第です。
 その後は二番目の姉、三番目の姉と連絡を取りながら今日まで過ごしてきましたが、三番目の姉が今年の4月30日に召されたのであります。丁度、私達がマレーシア・クアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として赴いている時であり、葬儀には列席出来ませんでした。三番目の姉は79歳になっていました。帰国してから6月16日に埋葬式があり、列席したのであります。その時、三番目の姉のお連れ合いが、遺品を整理していたら、このようなものが出てきたと言われ、手紙の束を見せられたのです。それは学童疎開の頃の手紙類でありました。1945年、昭和20年、日本は太平洋戦争の末期であり、国力も戦力も乏しい日本は風前の灯でありました。それで国は子供達を疎開させ、小さい子供達の命を守ろうとしたのです。縁故疎開が奨励されましたが、それができない場合は学童疎開として集団で避難すると言うことでした。三番目の姉と兄が学童疎開をすることになり、神奈川県の松田と言う場所で生活することになったのです。おそらく1945年の6月前後かと思われます。そして8月15日に敗戦となりましたが、すぐには帰省出来なく、9月になって家に帰って来たと思われます。約三ヶ月、小学校3年生であった兄、小学校6年生の三番目の姉が学童疎開したのでした。父や母、一番上の姉、二番目の姉達が常に手紙を送っては二人を励ましていました。そして、疎開した二人の姉弟は、元気で過ごしているという手紙を送って来ていたのです。それぞれの手紙を読み、家族の愛の深さをつくづくと示されたのでした。兄は3月30日生れですから、もう少し遅く生まれれば2年生と言うことになり、本当にまだ小さかったのです。その兄が一生懸命手紙を書いて送って寄こしていたことに胸を打たれたのでした。戦争中から生きてきた私の家族をお話しましたが、家族は皆、祝福の家族を願ってそれぞれの歩みが導かれています。そのような私達の現実を示されながら、聖書が示している祝福の家族へと導かれたいのです。

 旧約聖書は神様のお心を持って生きることが祝福の家族であると示しています。その祝福の家族は、神様のお心である十戒を守って生きるかが問われます。神様のお心を持たないで偶像に心を向けることの審判が繰り返し示されているのです。旧約聖書はまず創世記のはじめからその主題で始まります。エデンの園にいるアダムとエバは神様の祝福のままに平安のうちに過ごしています。しかし、神様の戒めを破ることになるのです。それが禁断の木の実を食べるということでした。もうそこから神様のお心をいただいて生きる主題が始まっているのです。アダムとエバは神話の世界でありますが、聖書の民族の始まりはアブラハムであります。アブラハムは神様の祝福の約束を信じて、神様のお心を持って生きた人であります。そのアブラハムが神様に祝福されたというので、イエス様が登場する時代におきましても、アブラハムの祝福を誇りにしていました。ところがバプテスマのヨハネが現れて、「我々の父はアブラハムだ」などと思っても見るなと言うのです。アブラハムアブラハムであり、アブラハムが祝福されたからと言って、今のあなた方が祝福されるということにはならないというわけです。今のあなたが神様のお心をいただいて生きているかが問われています。神様のお心に生きることの努力、心がけが求めらています。
 今朝の旧約聖書は創世記24章62-67節でありますが、イサクのお嫁さん探しの物語であります。24章全体がイサクのお嫁さん探しになっています。アブラハムとサラの子供イサクにお嫁さんを迎えることになりました。イサクの母親サラは既に死んでいます。アブラハム自身も老人になっていました。それでアブラハムは息子イサクのお嫁さんを探すことになります。アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言います。「あなたはわたしの息子の嫁をわたしが住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れてくるように」と命じるのです。そこで僕はお嫁さん探しに出かけます。24章11節以下に示されます。そこはナホルという町でした。僕は井戸のあるところで神様にお祈りします。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。ラクダにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう」と祈るのでした。祈り終わるとリベカが水がめを肩に載せてやってきました。このリベカはアブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘でありました。それでアブラハムの僕はお祈りしたようにリベカに水を所望いたします。するとお祈りしたように、「どうぞ、お飲みください」と言い、ラクダにも水を飲ませてくれるのであります。それで、僕は娘の両親を尋ね、両親の家に自分を連れて行くように頼みます。両親は実にアブラハムの親族であったのでありました。僕はリベカの両親に、自分がここに来たこと、お祈りしたこと、お祈りのようになったことを話しました。そして、ぜひリベカをイサクのお嫁さんにしてくださいとお願いするのであります。それに対して、まず答えたのはリベカの両親ではなく、リベカの兄ラバンでした。「このことは主の御意思ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください」というのでした。こうして縁談が決まり、アブラハムの僕はリベカを連れてアブラハムとイサクの元へ戻ってきたのであります。
 そして、今朝の聖書になります。夕方暗くなる頃、野原を散策していたイサクでありました。目を上げてみるとラクダに乗った僕とリベカが近づいてきたのであります。そして、ここで二人は出会うことになります。二人の出会いによって、神様の御心に生きる家族が誕生したのであります。今朝の聖書についての解説は必要ないでしょう。ここにいたるまでのことが大切なのです。創世記24章は全体を通してイサクのお嫁さん探しになっています。それも、アブラハムが土地のカナンの娘ではない、一族の中からお嫁さんを探したということです。神様のお心を持って生きるアブラハムであり、また一族でなければならないのです。常に神様のお心を中心にして生きる一族が大切なのです。何も、長々とイサクのお嫁さん探しを記さなくても良いと思うのですが、神様のお心に生きることに命を懸けて守る姿が記されているのです。

 今朝の主題は「祝福の家族」でありますが、主のお心をもって生きる人生を示されるのであります。今朝のマタイによる福音書12章43節以下は「汚れた霊が戻って来る」との表題で記されています。これは主イエス・キリストがお話された教えであります。面白いお話であります。この12章22節以下に「ベルゼブル論争」が記されています。イエス様とファリサイ派の人々との間で悪霊を追い出す論争が展開されています。とにかく、ここでは悪霊を追い出すことが焦点でした。それに対して、今朝の43節以下は追い出された悪霊の問題を示しているのです。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない」と記されていますが、イエス様によって悪霊は人から追い出されるのです。今まで悪霊が体内にあって、本人を苦しめていました。しかし、いまや悪霊はイエス様によって追い出されたのです。悪霊がなくなった人は、何か気持ちが晴れ晴れとして、平安の日々を歩むようになりました。悪霊のいない自分、毎日がうれしいのです。ところで、悪霊は休む場所がないので、「出て来たわが家に戻ろう」と言い、元の家に帰るのです。元の家とは今まで入っていた人のことです。イエス様によって悪霊は追い出されました。その人の心はきれいになっているのです。悪霊が言うには、「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた」のであります。悪霊を追い出してもらった人は、確かに心の中はきれいになりました。生活もきちんとできるようになりました。ところが悪霊を追い出した後の心には中心になるものが存在しなかったのです。再び悪霊が入り込み、その悪霊はもっと悪い七つの霊を呼び込んだというのです。悪霊をイエス様によって追い出されたとき、空になった心にイエス様がくださる神様のお心で満たさなければならなかったのです。そうすれば悪霊は戻っては来なかったのであります。主イエス・キリストはこのたとえ話をすることによって、私たちが神様のお心をいつも求め、いただき、心を満たされながら歩むことを教えておられるのであります。神様のお心を持つ努力、訓練、心がけが求められているのであります。マタイによる福音書5章からイエス様の山上の説教が始まります。その最初の教えが、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」との示しでありました。「心が貧しい」とは心を空っぽにすることです。しかし、いつまでも空っぽにしていては、悪霊が入ってきます。今まで自分の欲望の心がいっぱいになっていたのを、空っぽにするや神様の御心をいただくのです。それにより天の国に生きる者へと導かれるのであります。
「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と主イエス・キリストは教えておられます。今朝の新約聖書マタイによる福音書12章46節以下であります。イエス様が群衆に話しておられます。先ほどの悪霊のお話しに続いて、なお神様のお心に生きることをお話しされていたのであります。するとそこへイエス様の母と兄弟たちが、イエス様と話したいことがあって外に立っていました。そのことをある人がイエス様に伝えます。するとイエス様は、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言うのです。冷たい言い方をしています。イエス様の母とはマリアさんのことです。イエス様は聖書の証言によれば、聖霊によってマリアさんが身ごもり、マリアさんを母としてこの世に現れたのであります。御子としてお生まれになりましたが、ヨセフさんとマリアさんの子供として成長したのであります。その後、ヨセフさんとマリアさんとの間に男の子4人、女の子数人が生まれています。マタイによる福音書13章55節に、イエス様に対する群衆の声として、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」と言っております。妹に当たる人たちは結婚してそれぞれの家族を持っているというわけです。そのマリアさんと兄弟たちがイエス様と話すために来たのであります。そのような状況でありますが、イエス様は主の家族について示しているのです。弟子たちの方を指して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われたのであります。イエス様が「わたしの兄弟、姉妹、また母」と言われたとき、人間みな兄弟と言っているのではありません。イエス様はお弟子さん達を指しながら言われたのであります。すなわち、イエス様のお弟子さん達はイエス様によって神様の御心を与えられ、御心に生きているのであります。そして、その努力をしつつイエス様と共に歩んでいるのであります。神様の御心をいただき、行う人が兄弟姉妹であるということであります。主の家族なのであります。

 そうすると、仲間意識で固まるようでありますが、基本的には人間みな家族、兄弟姉妹であると示されなければなりません。主イエス・キリストの教えは「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」であります。すべての人を受け止め、共に生きるのが人間の生き方なのであります。その上で「祝福の家族」を励まされているのです。今朝の聖書コロサイの信徒への手紙3章17節以下は「家族に対して」の示しです。「妻たちよ、主を信じるものにふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」と示されています。問題提起をする人たちは、聖書の差別として指摘します。次は「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないから」と示しています。その次は「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい」と教えています。こうした教えの後で、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています」と結んでいるのです。家族は愛する者ですが、イエス様に接する思いで、家族と共に生きることを示しているのです。そうすれば「祝福の家族」へと導かれると示しているのです。
 主イエス・キリストが示した神様の御心をもって生きること、それが「祝福の家族」であり、「祝福の家族」の基となることを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。愛する肉親の家族を与えられていますが、今朝も主の家族に加えていただき感謝いたします。今朝も御心をいただきました。御心を行いつつ一週間を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。