説教「希望の実現」

2017年4月2日、六浦谷間の集会
「受難節第5主日

説教・「希望の実現」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記25章29-34節
    ローマの信徒への手紙8章1-11節
     マタイによる福音書20章20-28節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・138「ああ主は誰がため」
    (説教後)讃美歌54年版・500「みたまなる」


 本日は2017年度の最初の礼拝です。隠退牧師として六浦谷間の集会で礼拝をささげながら歩んでいますが、あまり年度ということは意識せずに過ごしていました。ところが昨年10月から横浜本牧教会付属の早苗幼稚園の園長を担うようになり、年度の歩みを常に示されながら歩むようになりました。3月は卒園式があり、子ども達に祝福のお祈りをしながら卒園証書を渡すこと、また各小学校の卒業式に向けて祝電を送ることなど、幼稚園の職務を行うようになってのことでした。もちろん7年前迄の30年間は、常に年度の歩みを示されながら歩んでいたのです。ですから4月を迎えるとともに、早速2017年度としての歩みを示されなければなりません。先日も幼稚園の先生たちと共に、この一年間の予定を決めたのでした。そして、4月10日には在園児の始業式、11日には入園式と、年度始めの歩みを示されながら歩むのであります。そして各小学校の入学式があり、卒園した子どもたちの小学校には祝電を送りましたが、さらに近くの小学校の入学式にはお祝いに行かなければなりません。
 こうして新しい歩みを示されながら4月を迎えています。隠退牧師として過ごしている時、あまり年度の歩みは気にしてはいなかったと申しましたが、やはり3月末から4月にかけて示されることがありました。それは我が家に咲く桃の花です。3月の終わりから、ぼつぼつと咲き始め、4月の初めころは紅白の花、いわゆる源平桃の花が咲くのです。この桃の花を示されると、いつも新しい歩みが始まったとの思いを持っていました。この桃の木は父が育てたものです。今は住宅になっていますが、昔は里山であり、そこを父が開墾して畑にしていたのですが、その一角に桃の木が植えられていました。かなり大きくなり、今頃は満開の桃の花を鑑賞しているのです。里山の中腹でしたが、我が家からも良く見えていました。父は98歳で亡くなりましたが、4月9日でした。自宅で葬儀を行いましたので、出棺の折には、姉の朝子が畑の一角に咲いている桃の花を取り、棺の上に乗せたのがわすれられないことです、父の丹精した桃の花をもって送り出したということです。その桃の木は実家の庭にも植えられており、それほど大きくはなかったのですが、今では源平の桃を咲かせて、私達を喜ばせてくれています。10年前に家を建て替えたとき、庭には大きな梅の木がありましたが、それは撤去しました。しかし、桃の木は残しておきましたので、今は4月の希望の花となっているのです。
 スペイン・バルセロナにおります娘の羊子が、「源平桃」と題して作曲しています。源平の戦いという歴史の物語を示されながら、六浦の家に咲く源平桃の花を示されつつ、平和を祈りつつ作曲したものです。CDに収められていますので、時には聴きつつ、源平桃の意味付けを示されています。4月は希望の歩み出しでありますが、その希望は神様の御心としての希望であり、その希望の現実が祝福へと導かれることを示されています。神様の御心なのか、人間の思いなのか、新しい歩みを始めるとき、常に示されることなのです。神様の御心を求めて、新しい歩みを始めたいのであります。

 今朝の旧約聖書は創世記25章27節からであります。エサウヤコブの兄弟争いが記されています。アブラハムが民族の最初の人でした。その子どもがイサクであります。そのイサクにエサウヤコブの双子が生れました。エサウは巧みな狩人で野の人となったといわれます。ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで過ごすのを常としたということです。この二人に対して父親のイサクは兄のエサウを愛したのであります。エサウが狩をして持ってくる獲物を喜んでいたのであります。それに対して母親のリベカは弟のヤコブを愛したのでありました。ある時、ヤコブが煮物をしていると、兄のエサウが疲れきって野原から帰ってきました。エサウヤコブに「お願いだ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせて欲しい。わたしは疲れきっているんだ」と頼みます。すると、弟のヤコブは「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」というのです。それに対してエサウは「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言います。「では、今すぐ誓ってください」とヤコブが言うので、エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまうのであります。長子の権利は、その家を継ぐものであり、受け継ぐ財産は他の兄弟に対して二倍なのであります。ヤコブにとって双子として生れてきましたが、自分が弟の身分にならなければならなかったことは、何とも残念というより、悔しい思いでいたのであります。
 ここでヤコブは兄から長子の権利を奪い取ってしまいますが、しかし最終的には父からの祝福がなければなりません。父の祝福をいただいて初めて後継者になるのであります。そのことはこの後の27章に記されています。父のイサクがエサウに対し、「祝福の儀式をするから、狩をして獲物を取り、おいしい料理を作りなさい。それを食べてから祝福を与える」と言っているのを母のリベカが聞きます。そして、エサウが狩に行っている間に、ヤコブにおいしい料理を運ばせ、イサクに食べさせ、祝福を与えられるのです。イサクは年を取り、目がかすんでエサウヤコブかも分からなくなっていたのであります。ヤコブが祝福を与えられた後にエサウがやってきます。父の言いつけのおいしい料理を持ってくるのですが、父イサクは既に祝福は与えているといいます。ヤコブに騙されたと思うエサウですが、自分にも祝福を与えてくださいと願います。しかし、祝福は一度かぎりであるといわれるのであります。この後、ヤコブは兄エサウの怒りから逃れて母の兄、伯父さんのもとに逃れていくのであります。
 物語はそこで止めておきますが、ヤコブが祝福を大事にしたことが聖書の主題であります。長子の権利も同じであります。アブラハム、イサク、そしてその後に続く者が大事なことであります。神様が選んだ民族です。神様のお心を受け継ぐものとしての生き方であります。人間的な思いでいたエサウが失格したということです。祝福を大事にし、神様のお心を担っていくヤコブの姿勢は、霊の思いでありました。人間的な思いなのか、霊の思いなのか、エサウヤコブ物語はそのことを示しているのであります。ヤコブは狡猾に生きていきますが、民族を担っていく使命があるからこそ、自分が霊の思いをしっかりと担ったということなのです。人間的な思いは父のイサクがエサウに希望を持ったことでありました。たくましく生きているエサウこそ民族を担う者だと思っていました。それに対する弟のヤコブは弱すぎると思ってもいたのです。母親と共に家の周りで生きているヤコブには希望が持てなかったということです。それは人間的な思いであるのです。自分の希望の判断であるのです。今は禁句になっていますが、「男のくせに」とか「女の子らしく」とか、男女のそれぞれの生き方を昔は社会的に定めていたのでありました。今は男女平等に生きることが求められている時代になっています。それは大きな進歩であります。今、私たちは神様の霊の思いなのか、人間的な思いなのか、その生き方が問われているのであります。

 主イエス・キリストに対して、人々は教えをいただき、神様の御業を示されるのですが、人間的な思いで受け止めている人、霊の思いで受け止めている人々がいるのです。そのことを新約聖書も示しています。
 マタイによる福音書20章20節以下は、極めて人間的な姿が記されています。主イエス・キリストは御自分が十字架の道を歩むことを弟子たちに示しました。これが三度目です。「今、わたしたちエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」と前の段落で示されました。今朝の聖書は「そのとき」と記しています。従って、イエス様が死と復活を述べた後にすぐのことであります。お弟子さんの中にゼベダイの息子、ヤコブヨハネがいます。彼らはペトロとアンデレが漁師であったように、彼らも漁師でありました。その二人にイエス様が声をかけられ、お弟子さんへと導かれたのでありました。そのヤコブヨハネの母親が二人の息子と共にイエス様のところへ来まして、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願うのであります。弟子達のイエス様に対する考え方として、これまでも示されてきました。すなわち、イエス様をメシア、救い主として信じていますが、そのメシアは極めて人間的な救い主でありました。イエス様が王様のような権威と権力を持つようになるということです。ですから、この方に従うことは、必ず自分達の栄光になるということなのです。今、ヤコブヨハネの母親が願っているのは、人間的なメシアへの希望でありました。それに対して、イエス様は「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と尋ねました。彼らは何もわからないままに「できます」と答えたのであります。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左に誰が座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」と示されたのでありました。
 このイエス様とヤコブヨハネ、そして二人の母の会話を聞いていたお弟子さん達は、このことで大変腹を立てたというのです。自分達をさしおいて、二人がイエス様の右大臣、左大臣になりたいといっているのですから、お弟子さん達にとっては穏やかなことではないのです。しかし、お弟子さん達も、弟子の中で誰が一番偉いのかと議論していました。これはマルコによる福音書9章33節以下に記されることです。イエス様はお弟子さん達に「途中で何を議論していたのか」と聞きます。彼らは黙っていましたが、途中で誰が一番偉いのかと議論していたのであります。マタイによる福音書の場合は18章1節以下で、「いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょう」とイエス様に質問しています。常に上下を考えていたお弟子さん達であったのです。イエス様は言われます、「あなたがたの中でえらくなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕となりなさい」と教えられたのであります。そして、イエス様御自身が「仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるためにきたのと同じように」と教えておられるのであります。人の思いは上を目指していますが、イエス様は下を見ておられるのです。そして、仕える姿勢こそ霊の思いであることを教えておられるのです。人の思いは輝く自分でありますが、霊の思いは人に仕えることでありました。十字架の道こそ、主イエス・キリストが人間に仕えることなのです。ヨハネによる福音書には、仕えることを具体的に示しています。イエス様とお弟子さん達が食事をします。その時、イエス様はたらいを持ってきて、お弟子さん達の足を洗い始めました。ペトロは先生であるイエス様が自分の足を洗うことに対する恐れを持ちます。しかし、イエス様は12人の足を洗い、あなたがたもこのようにしなさいと教えるのであります。つまり、人の足を洗うということ、相手の足元にうずくまって洗うということです。人に対する姿勢であります。仕える、してあげると言いながら、相手を自分の立場まで引き上げて、自分がしやすいようにすること、それは仕える姿ではありません。自分のしやすいようにすることは人間的な思いであり、相手の足元にうずくまってすることが霊の思いであるのです。自分の思いを通すことではなく、神様のお心にあって相手に接することが霊の思いであるということです。

 大塚平安教会在任時代、16年間、刑務所の教誨師を担っていました。刑務所の受刑者の中で、宗教によるお話しを求める人がいます。仏教、神道キリスト教教誨があり、希望するお話を聞くことができるのです。今ごろは受難節であり、お話しもイエス様の十字架のお話をしていました。十字架は人間を救う原点であります。神様はイエス様が十字架で死ぬことにより、人間の奥深くにある原罪、自己を中心とする生き方、他者排除の姿勢を滅ぼされたのであります。私たちは私の原罪を滅ぼされたイエス様の十字架を仰ぎ見ることにより、救いへと導かれるのであります。従って、キリスト教は十字架が中心になっており、教会の屋根にも、礼拝堂の正面にも十字架が掲げられているのです。そのようにお話ししました。「十字架はイエス様が造ったのですか」との質問がありました。十字架の意味を知らないのです。十字架が重罪人の処刑の場であることを知らないのです。十字架はイエス・キリストが造ったと思っています。十字架のネックレス、十字架のイヤリング、十字架の飾り物を喜んでいる人がいます。私は初めて知ったのですが、世の中の人は十字架が重罪人の処刑の場であることを知らないということ、美しい飾り物としてしか受け止めてないということです。十字架の意味を知っているものとしてお話しをしていましたが、今後は十字架そのものの意味を含めてメッセージを示さなければなりません。
 主イエス・キリストが十字架への道を示した直後に、お弟子さん達の右大臣、左大臣にしてくださいとの願いは、極めて人間的な思いでありました。この十字架に救いがある、との信仰が、霊の思いであります。霊の思いは永遠の命へと導かれていくのであります。今朝のローマの信徒への手紙8章6節、「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」と示しています。十字架を飾り物と思うのは肉の思いであります。救いの原点と信じることが霊の思いであります。いよいよ十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのであります。まさに十字架により私達の希望が実現となりますよう導いてくださっているのです。
<祈祷>
聖なる神様。私達は十字架により希望が実現されています。十字架の救いを真実いただいて歩ませてください。キリストの御名によってお願いいたします。アーメン