説教「神様のすばらしいお約束」

2013年8月18日、大塚平安教会
聖霊降臨節第14主日

説教・「神様のすばらしいお約束」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書42章1-7節
    ペトロの手紙<二>1章3-11節
     マルコによる福音書7章31-37節
賛美・(説教前) 讃美歌21・360「人の目には」
    (説教後) 讃美歌21・447「神のみこころは」


2010年3月末まで、この大塚平安教会の講壇に立たせていただき、三年ぶりにこの講壇に立たせていただくお恵みをいただき、心から感謝しています。会衆の皆さんも、その後、この群れに加えられた皆さんも多くおられますが、以前とお変わりなく礼拝をささげておられるお証を示されています。2010年3月末にこちらを退任し、4月からは横浜本牧教会の代務者に就任しました。その年の10月からこちらの教会出身、森田裕明牧師が横浜本牧教会に就任することになっており、それまでのつなぎの牧師として務めさせていただきました。そして、10月からはどこの教会にも所属しない無任所教師として過ごすようになります。当初は私の出身である清水ヶ丘教会、連れ合いの出身である高輪教会に、挨拶の意味で出席しました。そして、その頃、こちらの大塚平安教会に菊池丈博先生が就任されましたので、就任式の日には礼拝から出席させていただきました。さらに、横浜本牧教会に森田先生が就任されましたので、就任式の日の礼拝から出席させていただきました。こうして挨拶のためとか、就任式のためにそれぞれの教会に出席していたのですが、さて、これからはどちらの教会に出席しましょうかと言うことになりました。10月からはどこの教会にも所属しない無任所教師となりましたが、実は教会の講壇に立たなくても説教は作成していました。折角作成したので、その頃から説教のブログを開き、説教を公開するようになっていたのです。説教が用意されているのだから、この際、二人で礼拝をささげましょうと言うことになり、2010年11月28日に六浦谷間の集会として礼拝をささげるようになりました。座間にお住まいであった小澤八重子さんが、娘さんのお宅、追浜におられますので、娘さんが送り迎えをしてくださり、時々出席されています。時には知り合いの方も出席されますが、基本的には夫婦二人で礼拝をささげています。
 基本的には二人の礼拝ですが、毎月第二日曜日には横須賀上町教会の礼拝説教、聖餐式を担当させていただいています。そして二ヶ月に一度くらいの割合ですが、三崎教会の講壇にも立たせていただいていますので、毎週のように六浦谷間の集会を開いているのではありません。2011年4月5月の二ヶ月間はスペイン・バルセロナに滞在しています。さらに2012年9月10月の二ヶ月間、やはりバルセロナで滞在しました。現地にはバルセロナ日本語で聖書を読む会があり、そこでの礼拝を担当させていただきました。さらに、今年の3月から6月までの三ヶ月間はマレーシア・クアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として務めてまいりました。従って、六浦谷間の集会は開始してから今年の8月11日現在で83回目の礼拝となっています。毎週、六浦谷間の集会を開いていれば150回以上は礼拝をささげているのですが、他に赴くことが多くなっているのです。このようにその後のことなどをお話するだけで説教が終わってしまうことはよろしくありませんので、御言葉に向かいたいのですが、もう一つ大事なお話をさせていただきます。
 マレーシア・クアラルンプールの牧師として赴任しまして、現地の皆さんと礼拝をささげることができ感謝しています。日本人の皆さんが集う集会です。3月13日に赴きました。5月12日の礼拝は「母の日礼拝」であり、また「オープンチャーチ」と言う名目の礼拝でした。この礼拝には国際理工情報デザイン専門学校の生徒さんが30名ほど留学していまして、その日の礼拝に出席したのです。殆どの学生さんはキリスト教が始めてでした。ですから説教も分かりやすくするために、私が教会へと導かれた経緯や、こちらの大塚平安教会やドレーパー記念幼稚園の体験等を交えながらお話しました。礼拝が終わりまして愛餐会が開かれました。皆さんと一緒に食事をいただいていると、その日本人教会では礼拝の司会をしたり、讃美歌の指導をされたりしている方が話しかけて来られました。「私の兄二人はドレーパー記念幼稚園の卒業生である」と言われたのです。それだけでも驚きでしたが、「自分は幼稚園にいくのを拒否したのでいきませんでした」と言われたとき、私はハッと気がついたのです。1979年9月にこちらの大塚平安教会に就任しましたが、その頃は毎週どこかの地区で家庭集会が開かれていました。座間立野台集会には、他の教会員でありますが、一人の婦人が幼稚園児くらいのお子さん連れで出席されていました。「この子は幼稚園に入らないというものですから」と言われていたのです。クワラルンプールの教会で私に話しかけて来られた方は新井実さんと言う方です。昔の家庭集会にお子さん連れで出席されていたご婦人は新井さんと言う方でした。新井実さんが言われていること、昔の家庭集会に出席されていた新井さんの言葉が一致したのです。つまり、お子さん連れで出席されていた新井さんでしたが、そのお子さんがクアラルンプールの礼拝にご家族で出席し、奉仕されつつ教会生活をされているのです。実に30年ぶりの再開と言うことになります。神様の不思議なお導きを示されたのでした。「神様のすばらしいお約束」を実をもって体験したのであります。
 神様は現実の私達にすばらしいお約束を下さっています。必ず実現するのです。今朝はその神様のすばらしいお約束を示されるのであります。

 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。彼の上にわしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」と今朝の聖書、イザヤ書42章1節に示されています。今朝はイザヤ書でありますが、66章まであるイザヤ書は、一人の人が書いているというのではなく、少なくとも三人の人が書いていると言われています。1章から39章までは第一イザヤが、40章から55章までは第二イザヤが、55章から66章までは第三イザヤが書いたのであろうと言われているのです。今朝の聖書は第二イザヤのものですが、内容から見ると40章から48章までは、聖書の人々がバビロンに捕らえ移されている状況ですが、それも末期の時であろうとされています。そして49章からは捕われから解放された後の時代に語られた預言集であるとされています。従って、今朝の聖書はバビロンに捕われている人々に対する預言、それも解放の時が近いことを示している預言であります。
 このイザヤ書40章1節、2節には、「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」と宣べ伝えられています。従って、このイザヤ書40章以下は「慰め」の預言であり、希望を持たせる言葉なのです。いつまでもあなたがたは苦しみと悲しみの生活ではない。悲しみから解放され、喜びの生活へと導かれますよ、と示しているのです。そこで今朝の聖書は「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」と示し、神様がお選びになった解放者があなたがたを導くであろうと示しています。「わたしの僕」と言い、「わたしが選んだ者」と言われていますが、それは誰なのか。学問的には色々と言われていますが、要するに救い主であります。救い主は私達にとって主イエス・キリストであります。イエス様が現れるのは、この後の時代になりますが、そのイエス様を指し示しながら、現実に救い主が現れますよ、と伝えているのです。実際、聖書の人々はバビロンに捕われていますが、そのバビロンに生きること50年にもなろうとしています。50年間苦しい、悲しい歩みをしてきたのです。バビロンはだんだんと力が弱くなり、ペルシャの国に滅ぼされるのです。それにより捕われから解放されるのですが、現実はまだまだ苦しい状況です。
 その苦しみと悲しみに生きる人々に「救い主」が現れることを約束し、更に、人々に「息を与える」と言うのです。聖書では「息を与える」と言うことは、人々が力強くなることを示しています。旧約聖書の創世記は天地創造を記しています。神様が宇宙万物、地球を造り、生き物、植物を造られたことが記されています。これは神話の物語ですが、しかし、この物語に大切なことが示されているのです。特に人間が造られる物語は深い意味があります。神様は土で人の形を造りました。粘土遊びをしているみたいですが、人の形を造っても、まだ人間ではありません。神様はその粘土の人の形の鼻に息を吹き入れたのです。すると、そこで人間は「生きた者」になったと示しています。つまり人間は「神様の息」をいただくことによって、本当の人間になるんですよと示しているのです。
 イエス様が十字架にお架りになって死んでしまった時、お弟子さん達はしょんぼりと家の中に閉じこもっていたのです。そこに復活されたイエス様が現れ、まずお弟子さん達に「息を吹きかけた」のであります。力強く立ち上がりなさい、と言うことです。「息」は「霊」とも訳されます。ペンテコステの日に聖霊がお弟子さん達に降った時、お弟子さん達は力強く立ち上がりました。その聖霊は神様の息であったのです。更にあなたがたに「息」を与えてあなたがたを導くと言う事、神様のすばらしいお約束なのです。

 主イエス・キリストは神様のすばらしいお約束を、現実の生活の中で実現させて下さいました。そのことを報告しているのが、今朝の新約聖書マルコによる福音書7章31節以下に記されています。「耳が聞こえず舌の回らない人をいやす」との表題が付けられています。イエス様がガリラヤ湖に参りますと、人々が耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにとお願いするのです。イエス様は色々なところで、病気の人や身体の具合が悪い人に手を置いて癒してあげていたのです。だから、イエス様がこの土地にやって来られたと言うので、さっそく耳の聞こえない人をイエス様のもとへ連れて行ったのです。聖書には、このように本人はもとよりですが、本人の友達、あるいは家族が本人のためにイエス様にお願いしていることが紹介されています。このマルコによる福音書2章には病気の人を四人の友達が連れて行ったことが記されていますし、6章ではゲネサレトの人々が、病人を床に乗せてイエス様を追いかけています。今朝の聖書の前の段落ではフェニキアの女性が自分の娘が病気なので癒して下さいとお願いしています。イエス様はそのような人々の信仰の姿勢を深く受け止めておられるのです。ですから今朝の聖書も耳が聞こえない人が癒されていますが、その人をイエス様のもとへ連れてきた人々を含めて「神様のすばらしいお約束」を今の生活の中で実現してくださっているのです。イエス様は、まず耳の聞こえない人を人々の中から連れ出し、少し距離を置いたのでしょう。イエス様の指をその人の両耳に入れ、更に唾をつけてその人の舌に触れられました。そして。天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われたのであります。これは「開け」と言う意味であると説明されています。
 耳が聞こえない、お話ができない、その人にイエス様が手を置いてあげれば癒されるのです。しかし、イエス様は癒しへの順序をお示しになられたのです。耳が聞こえないから耳にさわること、舌がまわらないから舌に触れられること、そして「開け」と言われたのです。この「開け」はその人の悪い部分に向かって言っているのですが、その人を連れてきた人たち、あるいはここにいる人々全体に言われているのであります。「開きなさい。あなたの目を開きなさい。あなたの耳を開きなさい。あなたの心を開きなさい」と言われているのであります。あなたが開くことによって「神様のすばらしいお約束」が実現するのですよ、とイエス様は示しているのです。旧約聖書でイザヤが預言した「神様のすばらしいお約束」が今、ここに実現していることを人々に示しているのです。「開きなさい」とイエス様は言われています。私達が自分自身を開くならば、イエス様の十字架の救いが与えられるのです。

 このマルコによる福音書には記されていませんが、マタイによる福音書11章にバプテスマのヨハネが牢屋から自分の弟子を遣わしてイエス様に尋ねています。「来るべき方は、あなたでしょうか」と言うことです。イエス様が本当に救い主なのですか、と言うことです。それに対してイエス様は、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」とお応えになりました。イエス様により、全身が開かれ、すべての人を受け入れ、共に生きる者へと導かれていますよ、と言うことです。イエス様に向かうと言う事は私自身が開かれると言うことです。そのイエス様に対して「開く」「開かない」人たちを聖書は示しています。
 このマルコによる福音書10章17節以下に「金持ちの男」が記されています。この人がイエス様に質問します。「永遠の命をうけるには、何をすればよいでしょうか」と言うことです。それに対してイエス様は、十戒の教えを示しています。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えとの戒めです。するとその人は、「そういうことは、子供の時から守ってきました」と言っています。それに対して、「あなたには欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われました。するとその人は、悲しみながら立ち去って行ったのであります。自分を開いて他者に心を向けることができないからであります。このお話と対称的なお話がルカによる福音書19章の「徴税人ザアカイさん」です。ザアカイさんはお金持ちです。職業も徴税人で、人々は自分達を支配しているローマのために働き、利益を得ているザアカイさんを嫌っていたのです。ザアカイさん自身も、人々に対して心を閉ざしていました。ザアカイさんが住むエリコの町にイエス様が通って行かれるところでした。人々はそのイエス様を見るために、沿道には立っています。ザアカイさんも見にいくのですが、人々に遮られて見ることができません。それで木に登って見ているのです。木の下を通りかかったイエス様が上を見上げて、ザアカイさんに声をかけました。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。今まで一度も話したことのないイエス様が、自分の名を呼び、家に泊まってくれるというのです。大喜びでイエス様を自分の家にお迎えしたのでした。そして、色々とイエス様とお話しているうちに、ザアカイさんは開かれたのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と告白したのです。今まで自分を閉ざしていたザアカイさんは、イエス様によって開かれたのです。開かれることにより他者が見えてきたのです。他者と共に生きる者へと導かれたのです。ここに「開く」「開かない」人の姿が示されています。
 イエス様の十字架の救いは、私を開いて下さるのです。「あなたは自分を愛するように、あなたの隣の人を愛しなさい」という人生へと導かれるのです。イエス様がこの私を開いてくださっているのです。ともすると「閉じて」しまう私ですが、主イエス・キリストの十字架の救いが、私を「開いて」下さるのです。「エッファタ」とイエス様は十字架上で私に命じてくださっているのです。
 今年は3月13日から6月4日までの三ヶ月間、マレーシアの教会にボランティア牧師として務めて参りました。クアラルンプール日本語キリスト者集会との名称です。設立されて今年で30年と言うことです。私がこちらの大塚平安教会に就任してから数年後に始まった集会です。日曜日の午後4時から礼拝をささげています。大人が25名位、子供が4名位、約30名前後の皆さんが礼拝をささげているのです。会社関係で派遣されている人、先ほどの新井さんも派遣されているのです。そういう人と共にマレーシアに滞在している人々がいます。MM2Hの人々と言われています。マレーシア・マイ・セカンドホームです。マレーシアは常夏の国ですが、住みやすい国で、多くの人々がセカンドライフとして住んでいるのです。そのような人たちも教会に連なり、共に信仰の歩みをしているのです。示されていることは、皆さんは信仰の出発点が異なっています。日本基督教団の人たちばかりではありません。諸宗派の皆さんが、心を合わせ、共に礼拝をささげ、お交わりを深めておられるのです。礼拝前にはリビングプレイズという賛美歌集の歌を歌っていました。これは「いのちのことば社」が発行しています。私は初めて触れる賛美歌でした。時には聖歌も歌われていました。そういう皆さんですが、日本基督教団の牧師を招いての礼拝なのです。昨年の3月まで専任の牧師がいましたが、4月からは専任の牧師が決まらないので、日本基督教団の隠退牧師が三ヶ月ずつ赴くことになったのです。三ヶ月はビザは必要ではなく、パスポートの滞在期間であるからです。私は五番目の牧師でしたが、皆さんが私達を受け入れて、共に礼拝をささげつつ過ごしたのでした。三ヶ月毎に牧師が変わるので、教会の皆さんも戸惑うのではないかと思いましたが、赴任する牧師には、皆さん心を開き、喜んで御言葉に耳を傾けておられる姿に、深く教えられたのであります。
 主にあって心を開き、共に礼拝をささげている皆さんは、イエス様からいつも「エッファタ」と言われて導かれていると示されたのでした。主イエス・キリストはこの私に十字架上から「エッファタ」と叫んでおられることを、今朝は示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。心を閉ざす私達にお導きを与えてくださり感謝致します。エッファタに導かれて他者の存在と共に歩ませてください。主の御名によりおささげします。アーメン。