説教「天の国へと導かれる」

2013年8月25日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第15主日

説教・「天の国へと導かれる」、鈴木伸治牧師
聖書・列王記上3章4-15節
    コリントの信徒への手紙<一>15章42-49節
     マタイによる福音書13章44-52節
賛美・(説教前) 讃美歌54年版・280「わが身ののぞみは」
    (説教後) 讃美歌54年版・513「あめにたから」


前週の18日は前任の大塚平安教会の講壇に招かれ、久しぶりに皆さんと共に礼拝をささげるお恵みをいただきました。30年間、大塚平安教会の牧師として、またドレーパー記念幼稚園の園長として務めさせていただきました。30年間に思いを馳せる時、やはりいろいろな出来事が思い出されます。教会にしても幼稚園にしても建て替えや改修等を行い、教会の35周年、40周年、50周年、60周年、幼稚園の25周年記念等を行い、記念誌を発行し、お祝いしながら歩んできたのです。それらのイベントを行う、行わないにしても、大塚平安教会は現在も存立していますし、ドレーパー記念幼稚園も人々の希望として存立しているのです。日々の歩み、礼拝をささげる歩みが営々として導かれてきたのです。教会には救いの喜びがある、幼稚園には人生の基がある、それらのことで人々が集められ、30年間務めさせていただいてきたのです。
 3月から三ヶ月間、マレーシア・クアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として務めてまいりました。その集会が今年で30年を歩んでおり、9月15日には創立30周年記念礼拝をささげることになっています。記念の「証し集」を発行すると言うことで、私たちにも寄稿の依頼がありましたので、既に原稿を送っております。その原稿は、私が大塚平安教会に就任してから間もなく出会った婦人とお子さんについて記しています。家庭集会に幼稚園児くらいのお子さんを連れて出席されていたのですが、そのお子さんが、今はクアラルンプール日本語キリスト者集会の礼拝の司会、讃美歌指導をされているのです。四人のご家族で、いつも礼拝に出席されているのです。30年間、何があったのか、というより、今は家族四人で礼拝をささげつつ歩んでいると言うことです。
 娘の羊子がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしていますが、バルセロナ日本語で聖書を読む会があり、そちらの集会にも連なりつつ歩んで居ます。聖書を読む会の中心になっている下山由紀子さんという方が、毎月「月報」を発行されて送って下さいます。今回月報102号を送って下さいましたが、この夏に開催された「ヨーロッパキリスト者の集い」が報告されていました。その集いも今年で30回目ということであるそうです。今年はフランスの南部で開催されたということですが、290名の皆さんが集い、信仰のお交わりを深めたということでした。ここでも30年間を示されています。
 30年間の歩みで何があり、どのように変わったかと思うのですが、それよりも今も変わらずに主を仰ぎ見ながら信仰の歩みが導かれているということなのです。大塚平安教会で再び皆さんとお会いし、皆さんが変わりなく教会に連なり、信仰の生活をされていることを示されました。マレーシアの皆さんも30年間、主を賛美しつつ歩んでいます。ヨーロッパのそれぞれの地区で、小さな集いでありますが、信仰の喜びをもちつつ歩んでいることを示されているのであります。私たちは「天の国へと導かれる」ことが願いなのです。そのために、変わりなく、皆さんとともに礼拝をささげつつ日々歩んでいるのです。「天の国へと導かれる」ために、変わりない信仰の歩みを願いつつ導かれたいのであります。

 今朝の旧約聖書も願い事についての示しであります。旧約聖書では名君と言われたダビデ王様がいました。ダビデ王は神様のお心に従い、聖書の国を治めた人でした。ですから、後の時代の人々は、再びダビデのような王様が現れることを願いました。それがメシア待望思想になって行きます。救い主出現の願いになって行ったのであります。そのダビデの子供がソロモンです。ダビデ王に継いでソロモンが王様になったとき、神様はソロモンが寝ている夢枕に現れ、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。神様がソロモンに、願うものは何でも与えると言っているのであります。言われるままにソロモンは願い事を神様に申し上げました。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。また、あなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父タビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」とお願いしたのでありました。すると神様は、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と言われたのであります。これらの神様のお言葉とソロモンの願いは夢の中で示されたことでありました。しかし、この夢の通りにソロモンは祝福され、人々の希望となったのでありました。ソロモンは絶えず神様のお心、すなわち知恵を求めて歩みました。人々の希望となりましたが、ソロモン自身の希望でもあったのです。ソロモンの希望とは、旧約聖書の時代には天国、永遠の生命への希望はありませんでしたので、神様の祝福をいただくことでありました。神様の祝福をいただくために、神様の知恵を求め、その知恵を国民に示したのであります。
 今朝の聖書は列王記上3章1節から15節まででありますが、その後の16節以下にソロモンの知恵による裁きが示されています。二人の女性が一人の赤ちゃんを抱いて王様のもとに裁きを求めてやってまいりました。二人は同じ家に住んでおり、二人とも前後して赤ちゃんが生まれました。ところが、その後一人の赤ちゃんが死んでしまいます。それで二人の女性は生きている一人の赤ちゃんは自分の子供であると主張しているのです。一人の女性は、朝起きたら横にいる赤ちゃんが死んでいたと言い、しかしよく見るとこの赤ちゃんは自分の子ではなく、もう一人の女性の子供であるというのです。しかし、もう一人の女性は死んだ子供は自分の子供ではなく、生きている子供が自分の子供であると主張します。ソロモン王様は言い争っている二人の女性に対して、お裁きを言い渡します。家来に剣を持ってくるように命じます。そして、生きている子供を剣で二つに切り裂き、一人に半分を、もう一人に半分を与えるように命じるのです。生きている子供の母親は、「王様、お願いです。この子供を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言いました、しかし、もう一人の女性は、「この子供を私のものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言うのです。王様は「この子を生かしたまま、先の女に与えよ。この子を殺してはならない。その女性がこの子の母である」というのでした。この王様のお裁きは国中に知れ渡り、ソロモン王様を畏れ敬うようになったのであります。神様の知恵が王様のうちにあって、正しい裁きを行うのを人々は深く受け止めたのでありました。

 神様の御心に生きることは神様の祝福でありました。それが旧約聖書の生きる姿でありますが、新約聖書時代になりますと、御心に生きる道は主イエス・キリストによって示されるようになりました。マタイによる福音書13章44-52節は「天の国」についての主イエス・キリストの教えであります。このマタイによる福音書13章は全体的に「天の国」についての教えであります。13章1節以下では「種を蒔く人」のたとえが示されています。種を蒔く人が種蒔きに出て行きます。蒔いているうちに、ある種は道端に落ち、他の種は、石だらけで土の少ないところに落ち、他の種は茨の間に落ちます。それらはみな悪条件ですから成長せず、実を結びません。しかし、良い土地に落ちた種はすくすくと成長し、百倍、六十倍、三十倍になったということであります。良い土地は神様のお心をいただく人々であります。実を結ぶことは祝福でありますが、天の国に生きる者へと導かれていると教えているのです。13章31節以下は「からし種」と「ぱん種」のたとえが示されています。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」と教えています。このたとえは、からし種が次第に大きくなるということではなく、小さいからし種に対して、大きな天の国の祝福ということであります。つまり、今の自分は真に小さな存在でありますが、天の国という大きな祝福へと導かれているということなのであります。イエス様のお心をいただいて生きる私は、この社会の中で片隅に生きていると思っています。しかし、たとえ片隅に生きているような私でありますが、天の国という大きな祝福へと導かれるということなのです。その後の「パン種」のお話も同様であります。
 今朝の聖書は13章44-52節でありますが、「天の国」のたとえとして示されています。13章全体が「天の国」の教えであると示されています。その場合、「種を蒔く人」のたとえは、神様のお心をいただく私たちの姿勢、御言葉を素直にいただいて生きることでありました。「からし種」のたとえは、この世に生きる私たちの存在がどんなに小さなものでも、天国の大きな祝福を与えられるという教えでありました。それに対して、今朝の「天の国」のたとえは、天の国に生きる者になるという教えであります。まず、認識しておかなければならないことは、イエス様が教えておられる「天の国」とは、死んで彼方の国、すなわち永遠の命でありますが、死んでからのことではなく、生きている今において永遠の命に至る歩みをするということなのであります。そのことを前提にしてイエス様の教えておられる「天の国」を示されたいのであります。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」というお話しです。イエス様の時代、お金にしても宝物は壷に入れ、地面に隠すのでありました。タラントンのお話しの中で、1タラントン預けられた人は、それを地面に隠したのでありますが、それは当たり前のことでもあったのです。強盗等に奪われないためです。しかし、地面に隠した持ち主が死んでしまったり、いなくなってしまったりすると、地面に隠されたお金は誰にもわからなくなってしまうわけです。このたとえの場合も、大分前に地面に宝を隠した人がいなくなり、その後別の人がこの畑を持つようになったのです。それで畑は小作人に貸していたのです。小作人は畑を耕していたら、偶然に宝を発見することになりました。不思議に思うのは、借りている畑で発見したのですから、その宝を持ち帰ればよいわけです。ところが、この小作人は持ち物をみな売り払い、この畑を買いました。自分の畑にして、生きる基としたということであります。畑と宝は密接に結びついているのです。
 小作人は持ち物をみな売り払いました。それは今までの自分ではなく、新しい生き方へと導かれたということです。この畑をよりどころとし、宝のあるこの畑は自分に真の希望を与える場であるのです。天の国を生きる場がこの畑であり、そして永遠の天の国へと導かれていくのであります。畑の宝は主イエス・キリストの十字架の救いです。私たちの真の希望は自分の欲望を満足させるものではありません。今この現実の中で天の国を生きるということであります。この私のために十字架にお架かりになった主イエス・キリストの教えを実践しつつ歩むということです。「あなたは自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」とイエス様は天の国へと道を開いておられます。

 久しぶりに大塚平安教会の講壇に招かれ、皆さまと共に礼拝をささげることができまして感謝しています。私が講壇に立つということで、わざわざ出席された方もあり、親しくお交わりいただいた皆さんとお会いできてうれしく思いました。その中に笠倉昭子さんが出席されたことは、感動を覚えています。笠倉さんは息子さんを弱冠21歳で天に送り、その後ご夫婦で生活されていましたが、脳梗塞を患いました。手足が不自由になりながらの生活でしたが、お連れ合いも召天されるのです。車椅子の生活になって、教会の皆さんが送り迎えするからと礼拝出席を勧めるのですが、皆さんに迷惑であるからと出席されませんでした。しかし、教会の皆さんが訪問しお交わりが導かれていたのです。そして、今は高齢者ホームに入居して生活しています。そういう生活でしたから、脳梗塞を患って以来、礼拝には出席しませんでした。それがこの度、私が大塚平安教会で説教を担当すると言うことで、出席して下さいました。本当に久しぶりに礼拝に出席されました。もっともお連れ合いの裕一郎さんが召天され、その葬儀は教会で行われましたので、教会には来ていますし、また裕一郎さんの記念会が教会で行われましたので、教会に来ています。
 以前、笠倉さんを訪問した時、たまたまご近所の方が来ていました。私達のことを思いながら、その方がつくづくと言われたことが忘れられません。「本当に亡くなった正道さんはよいものを残してくれましたね。今のことを思いつつ、笠倉さんに教会を残してくれたんですね」と言われたのです。今はお一人の境遇ですが、入居している高齢者ホームにも教会の皆さんがお訪ねしているのです。今回は教会に行こうと励まして下さったのはイエス様であると示されています。天の国へと導かれるために、礼拝に出席する、このことが祝福の道へと導かれていくのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。今朝も宝のある畑に導いてくださり感謝いたします。主の教えにより、天の国への道を歩むことを得させてください。主イエス・キリストによって。アーメン。