説教「心を一つにする」

2013年9月1日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第16主日

説教・「心を一つにする」、鈴木伸治牧師
聖書・エゼキエル書37章15-28節
    コリントの信徒への手紙<一>1章10-17節
     マタイによる福音書18章10-20節
賛美・(説教前) 讃美歌54年版・225「すべてのひとに」
    (説教後) 讃美歌54年版・213「みどりの牧場に」


 今朝は9月に入っての最初の主日礼拝であります。もはや立秋を迎えていますが、連日の猛暑で、立秋のことなど考えもしませんでした。しかし、暦が9月になることによって、秋になっているんだと思うのであります。既に夏の終わりのカナカナ蝉が鳴いていますし、秋の虫であるコオロギも鳴いています。在任中は、9月になると「伝道の秋」を言うようになり、いろいろな企画をもちながら歩んでいたことが思い出されます。9月か10月には修養会を開催していました。しかし、修養会は古風な言い方であるとして、「学びと交わりの集い」と名称を変更して開催するようになりました。10月、11月頃にはチャペルコンサートを開催していました。教会の取組みと共に幼稚園の行事もあります。運動会、イモ掘り、作品展、バザー、そしてクリスマスに向かって行ったのであります。
 こうした色々なイベントを開催しながら歩むのも、教会の交わりが深まるためであり、このような集いを通して人々を招くということなのです。「バザーは宣教である」と言いつつ開催していました。資金集めにすぎないではないか、と言われるかもしれませんが、多くの人々が教会、幼稚園が主催するバザーに訪れるのです。幼稚園を卒業した皆さん、家族の皆さんとの触れ合いもあり、やはり伝道が導かれているのです。18日に大塚平安教会の講壇に招かれたとき、一人の青年が出席されていました。ドレーパー記念幼稚園の卒業生であると言われました。色々とお話を伺うと、私は1979年に教会、幼稚園に就任しましたが、就任してから数年後に送りだした人でした。再び巣立った教会に戻ってきたということです。時々、そのような人々に出会います。昔、家庭集会に出席していたとか伝道集会に出席したとか、再び教会に行ってみよう、と言うことで出席される皆さんがおられるのです。伝道の成果はその時に現れなくても、いつかは果実となって与えられるのです。
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ」(使徒言行録18章9-10節)と主はパウロを励ましています。とにかく主にあって、心を一つにして、証のイベントを行うことなのです。すぐに果実が与えられなくても、いつか、何所かで蒔いた種が芽を出し、成長し、実を結ぶのです。18日に大塚平安教会に招かれたのは、教会創立64周年記念日礼拝でした。最近は、その創立記念日礼拝の午後はバーベキューを行い、皆さんで喜びつついただくのでした。久しぶりに私たちも皆さんとバーベキューをいただきながらお交わりができました。高齢になりつつある皆さんは、暑さもあり、参加されませんでしたが、しかし、若い皆さんが成長されており、そのようなイベントの力になっているのです。皆さんが心を一つにして主の御心を世に発信してゆく、祝福の果実が与えられるのです。改めて、「教会の一致と交わり」を示されました。日本基督教団の聖書日課はその主題のもとに示されているのです。

 旧約聖書エゼキエル書は神様の民として一つになることが示されています。37章15節以下が今朝の聖書でありますが、北イスラエルと南ユダが一つになることを示しています。「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダ及びそれと結ばれたイスラエルの子のために』と書き記しなさい」と神様の言葉がエゼキエルに示されています。それは何のためかと言えば、21節「そこで彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることはなく、二度と二つの王国に分かれることはない」ということなのです。つまり、今は二つの国に分かれていますが、もともと一つの国でありました。もう一度一つの国にするといっているのであります。
 聖書の国イスラエルは一つの国でありました。最初の王はサウル王でした。しかし、サウル王は神様のお心ではない自分の腹で国を支配するようになり、神様はサウルを見離すことになります。次に王様になるのがダビデ王であり、彼は神様のお心を人々に示しつつ王としての勤めを果たしました。その次の王様がソロモン王でありました。ソロモン王については前回のメッセージで示されています。彼は何よりも神様の知恵を求め、神様の知恵を人々に示しましたので、世界の人々がソロモンの知恵を聞きにやってきたほどでありました。ダビデは後々まで名君と言われております。もう一度、ダビデのような王様が現れることが待望されるようになりました。その後のソロモンも神様の知恵を人々に示したのですから、ダビデと同じように名君と言われなければなりません。ところがソロモンは名君とは言われないのであります。実はソロモンが原因で国が二つに分かれてしまったのであります。ソロモンのあとの時代に北イスラエルと南ユダになりました。そのあたりの事情を見ておきましょう。
 列王記上10章23節、「ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、全世界の人々が、神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、彼に拝謁を求めた。彼らは、それぞれ贈り物として銀の器、金の器、衣類、武器、香料、馬とらばを毎年携えてきた」と記されています。このように豊かになったソロモンは、奢りが出てきます。ソロモンはエジプトの王様の娘や外国の女性たちを愛するようになります。神様は外国人と結婚することを禁じています。相手の女性から誘惑を受けることになるからです。しかし、ソロモンには700人の王妃と300人の側室がいたと言われます。誇張でありますが、多くの女性を愛したようです。彼女達はソロモンの心を迷わせ、他の神々に向かわせたのであります。すなわち偶像崇拝をするようになったのであります。そこで神様の審判が下ります。ソロモンのあとの時代には、ユダ族とベニヤミン族がエルサレムを中心とする南ユダを治め、他の10部族は北イスラエルとしての王国を築くようになったのであります。結局、一つの王国が二つに分かれることになった原因は、神様の知恵をいただき、人々から尊敬されたソロモンの偶像崇拝であったのであります。それ以後は北イスラエル、南ユダとして存立しますが、北イスラエルは紀元前721年に、南ユダは紀元前587年に滅ぼされるのであります。
 今朝の聖書は再び一つに国になることの示しが与えられています。エゼキエル書は南ユダがバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕われの身となり、バビロンで生きている状況であります。人々にとって捕囚から解放されることが何よりの願いです。この時点では、既に北イスラエルアッシリアという大国に滅ぼされています。もはや北イスラエルはないのです。しかし、存在する国として、昔のように一つの国にするというのです。解放以上の喜びでもあるのです。一つの民となるということは大きな喜びでありました。一つの民となるということは、失われた存在を求め、探し出すことでもあるのです。従って、北イスラエルの失われた人々、散らされている人々を探し出しくれるということなのです。そして、昔のように一つの民として、神様の導きをいただくのであります。

 失われた存在を訪ね、捜してくださるのは主イエス・キリストであります。その証しは福音書の中に宝石のようにちりばめられていますが、今朝のマタイによる福音書18章10節以下の、「迷い出た羊」のたとえの中に示されるのであります。
 「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」とのお話しであります。ルカによる福音書にも同じようなたとえ話がありますが、マタイによる福音書が「99匹を山に残して」捜しに行くことに対して、ルカによる福音書は「99匹を野原に残して」であります。マタイによる福音書において、「山」と言った場合、それは特別な意味があります。イエス様が人々に教えを与えたとき、「山」においてでありました。マタイによる福音書5章1節、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子達が近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた」のであります。マタイによる福音書28章16節、「さて、11人の弟子達はガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」のであります。そこでイエス様から宣教への派遣を与えられるのであります。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」と言われたのであります。マタイにとって「山」は福音を示される場であり、宣教への派遣の場でもあるのです。それは教会という場でもあるのです。従って、「99匹を山に残して」というのは教会にいるということであります。100人の人が教会にいました。しかし、1人が迷い出たのであります。迷い出た原因については触れられていませんが、今朝の主題から示されるならば、別の生き方を選んだと考えることができるでしょう。イエス様の羊飼いが再び一つにするために、別の生き方を選んだ人を捜したのであります。神様のお心にあって、一つの生き方が私たちの歩みなのです。
 このことを強く示しているのが今朝のコリントの信徒への手紙(一)1章10-17節であります。神様のお心に生きることは、本来一つであります。それが、どういうわけか、幾つにも分かれてしまうのです。パウロはコリントの町で伝道しました。それでできたのがコリント教会です。パウロは1年半の間、コリントに滞在しました。そして、その後は別の町へ伝道するためにコリント教会を離れることになります。パウロがコリント教会からいなくなると、中心となっていたパウロでありますので、混乱をきたすようになりました。1章11節以下、「わたしの兄弟たち、実にあなたがたの間で争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロにつく』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」とパウロはコリント教会の人々に述べているのです。教会の中にいくつかのグループができてしまい、グループごとに神様を信じているというのです。それに対して、パウロは「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架に付けられたのですか」と信仰の原点に戻るように示しているのです。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとってはおろかなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とパウロは信仰の原点を改めて示しています。「主にあって一つ」であることは十字架の言葉を原点にしている人々が、主にあって一つになるのであります。十字架の言葉とは、神様は人間の奥深くにある自己満足、他者排除の原罪を、人間は克服することができませんので、主イエス・キリストが十字架で死んで行くとき、人間の原罪を滅ぼされたのであります。従って、人間は十字架を仰ぎ見ては、自分の原罪を滅ぼされ、この私をお救いくださったイエス様として信じるのであります。それが十字架の言葉であります。「主にあって一つ」なる人々は十字架の言葉を信じる人々なのであります。

 この六浦谷間の集会の礼拝は日本基督教団信仰告白を基にしています。それは私自身が日本基督教団清水ヶ丘教会で成長し、日本基督教団の牧師への道を導かれたからです。前任の大塚平安教会は、昔のメソジスト教会の流れをもっていますが、日本基督教団の教会です。日本基督教団に属する教会は、以前は長老派であろうがバプテスト派であろうが、日本基督教団信仰告白を基としていますから、大きな違いはありません。しかし、他教派は異なった信仰告白を基としていますので、礼拝の取組み、交わりの方法等は異なるのであります。2009年はプロテスタント宣教150周年を迎え、プロテスタント教会発祥の地、横浜で記念の集いを超教派で行いました。色々な教派が礼拝を一緒に行うとき、信仰のあらわし方が異なりますので、戸惑うことになります。礼拝でお祈りしているときにも、大きな声で「アーメン」「ハレルヤ」と唱和しています。賛美歌は手拍子を打ちつつ歌うのです。こうした異なる信仰のあらわし方ですが、主イエス・キリストの父なる神様に礼拝をささげることにおいては「一つなる」信者の群れなのです。
 今年の3月からマレーシア・クアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として赴きました。昨年3月までは専任の牧師がいましたが、その後は専任の牧師が決まらないので、日本基督教団の隠退牧師が三ヶ月ずつ交代で牧会することになったのです。日本基督教団の牧師ですが、集会に出席している皆さんは、必ずしも日本基督教団の教会の信者ではありません。いろいろな教派の皆さんです。諸教派の皆さんですが、聖書は新共同訳聖書を使用していますし、賛美歌は日本基督教団の54年版の讃美歌を使用しています。しかし、リビングプレイズという「いのちのことば社」発行の賛美歌集も用いていますし、時には「聖歌」も使用します。もともと自分の居た教会とは取組みが異なりますが、皆さんは「心を一つにして」神様を礼拝し、賛美の歌をささげているのです。このことはマレーシアに限らず、ヨーロッパ各地に日本語集会がありますが、集まる人々は信仰の出発点が異なりますが、「心を一つにして」神様を礼拝しているのです。主イエス・キリストの十字架の救いが、人々の心を一つにしているのです。
<祈祷>
聖なる神様。十字架へ導かれ、一つの心を与えられています。感謝します。一つ心になって平和を実現させてください。主イエス・キリストによっておささげします。アーメン。