説教「神様がお導きくださる現場」

2013年9月8日、横須賀上町教会
聖霊降臨節第17主日

説教・「神様がお導きくださる現場」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記45章1-8節
    マタイによる福音書18章21-35節
賛美・(説教前) 讃美歌21・401「しもべらよ、み声きけ」
    (説教後) 讃美歌21・504「主よ、み手もて」


 9月になりまして、伝道の秋を迎えたとの思いが深まっています。また、自分自身の信仰が強められることを願っています。そのような意味で、修養会を開催する教会が多いようです。前任の大塚平安教会でも9月、10月になりますと修養会を開催していました。しかし、数年前から、修養会は古風な名称であり、「学びと交わりの集い」という名称にしました。まさにその通りで、内容は学ぶこと、交わりを深めることであります。そうでもありますが、なんとなくインパクトがないように思えます。修養会の方が、本当は良いと思っています。主イエス・キリストの十字架の救いをいただき、喜びつつ歩んでいる者として、修養して信仰を強めることですから、修養会の方が良いと思っています。
 私の出身である清水ヶ丘教会の壮年会が10月に修養会を開催するので、その講師になってもらいたいと依頼されました。どういう内容の修養会なのかと聞きますと、「主に従う者の生活」として、「祈っているか」、「聖書を読んでいるか」、「証をしたことがあるか」というようなことで学びたいということでした。そこで私は、「主の道を生きるために」という主題にしました。そして副題として「仏教・イスラム教を垣間見つつ、律法の完成者に従う」としたのであります。最近、私は仏教の歴史上のお坊さんたちの信仰の姿に興味を示しており、最澄空海法然親鸞道元、一遍、日蓮等の評伝を読んでいます。いくつかはブログで紹介しています。また、マレーシアに三ヶ月滞在したことから、イスラム教の世界に関心を持ち、たまたま横浜市立大学公開講座が、7月、8月に「イスラームの歴史と教義」についての講座があり受講しました。そのような訳で仏教やイスラム教の世界を垣間見ながら、私達の信仰を示されたいと思ったのであります。イスラム教を垣間見ることについては、既に5回ほどブログに公開しています。今度は仏教を垣間見ることにしたいと思っています。
 イスラム教は聖書の示しが大きく影響していると思われます。イスラム教では神様をアッラーと呼んでいます。その神様を信仰することが中心ですが、アッラーを信じる者は横の関係、人間関係も正しくなければならないのです。そのような教えは聖書の人々に十戒が与えられた状況に通じるものがあります。十戒の第1戒から4戒までは神様を信じることです。そして第5戒から10戒までは人間関係を導く戒めなのです。神様に祝福をいただくことは、「自分を愛するように隣人を愛する」生き方として私たちは教えられています。私の現実の生活の中で、イエス様の教えをどのように実践するのか。この現実は神様が私に与えて下さった現場でありますから、この現場で主の道を生きることなのです。
 ルカによる福音書10章に、イエス様がお話された「善いサマリア人」のたとえ話が記されています。ある人が道を歩いていると追いはぎ(強盗)に襲われます。倒れている人の側を三人の人が通りました。その三人の人がどのように対応したのか、ということです。最初の人も、二番目の人も、社会的には人望のある人たちです。しかし、彼らは見て見ぬ振りをして行ってしまったのです。瀕死の重傷をおっている人です。三番目に来た人は、倒れている人とは日ごろから仲のよくないサマリア人の外国人でありました。しかし、彼はそんなことは考えず、すぐに近寄り、応急手当をして介抱し、宿屋に連れて行ったのでありました。このたとえ話をしたイエス様は、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねました。律法の専門家は、「その人を助けた人です」と言わざるを得なかったのであります。私の現場を見つめてみましょう。

 今朝の旧約聖書はヨセフ物語であります。神様の救いが大きなご計画の中で導かれているのであります。聖書の民族はアブラハムの時代、イサクの時代、ヤコブの時代と続きますが、今朝の聖書はヤコブの時代のことでした。ヤコブには12人の子どもができます。古代のことであり、一夫多妻の状況でした。12人は二人の奥さんと、二人の側女から生まれています。二人の奥さんは姉妹でありました。ヤコブは妹を愛して、結婚を申し出るのですが、まず姉が結婚しなければならないので、姉と結婚し、それから妹と結婚したのであります。妹の子供が11番目のヨセフでありました。従って、自分が愛する女性の子供ヨセフに対しては特別な思いがありました。どの子供より、ヨセフには良い服を着せたりしていたのであります。そのヨセフが夢を見ました。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さん達の束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」と言うのでした。それを聞いた兄弟たちは、父がヨセフだけを愛しているので、ヨセフを憎んでいるのですが、ますますヨセフを憎むようになりました。後日、ヨセフはまた夢を見ました。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と11の星がわたしにひれ伏しているのです」と言うのです。それを聞いた父のヤコブもヨセフを叱ったのでした。「一体どういうことだ。お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さん達も、お前の前に行って、地面にひれ伏すと言うのか」とヤコブは言いました。しかし、ヤコブはこのことを心に深く受け止めたのでありました(創世記37章〜)。
 ある時、野原で羊の番をしている兄達の様子を見てくるように、ヨセフは父のヤコブから言われます。ヨセフが兄達のいる野原に行きますと、遠くで弟のヨセフが来ることを見た兄達は、ヨセフを何とかしようということになりました。何とかとは殺してしまうことであります。しかし、一番上の兄は殺すことはいけないと言い、穴の中に放り込めばよいと言うのでした。後で穴から助けるためです。兄弟たちは同意します。そこへエジプトに行く商人たちが通りかかりました。兄弟たちはヨセフを商人たちに売り渡してしまうのであります。こうしてヨセフはエジプトに奴隷としていくことになったのであります。このヨセフ物語をさらにお話しすると、大変長くなりますので、途中は割愛することにします。神様の不思議な導きで、ヨセフはエジプトの王様の不思議な夢を解き明かして上げます。王様はヨセフを自分に次ぐ大臣に取り立てるのであります。王様の夢とは、7年間の豊作の後に、7年間の大飢饉が起きるというものです。だから豊作の間に、穀物や食料を貯蔵することを進言するのでした。その解きあかしに満足し、ヨセフを大臣に取り立て、大飢饉に備えさせたのでありました。
 夢の通り大飢饉となりました。エジプトには食料があるということで、諸国から買出しにやってくるようになりました。ヤコブの一族も飢饉に困り果てていました。それでエジプトに食料の買出しにやってくるのです。それで今朝の聖書です。
 兄弟たちがエジプトに食料を買いに来たとき、ヨセフは自分を奴隷として売り渡した兄弟たちであることをすぐわかりました。しかし、兄弟たちはエジプトの大臣になっているヨセフがわかりません。今朝の聖書は二回目に買出しに来たときのことであります。ヨセフはもはや隠していることができず、身を証したのでありました。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きていますか。わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と告白しました。兄弟たちはヨセフであると知り、恐れを持ちますが、しかしヨセフは恐れを取り除くかのように、これは神様のご計画であることを示したのでありました。
今の実情は悲しい状況であるかも知れません。しかし、神様の導きの途上であるならば、現実をしっかりと受け止めて歩むことを示されるのであります。ヨセフはここに至るまで、殺されかけ、牢屋に入れられ、人間的な苦しみを持ちつつ生きなければなりませんでした。神様の導きがありました。今の自分は神様の救いの途上であることを知りつつ歩んだということです。自分の思いを超えて、他の存在を受け止めたということであります。神様の恵み、導きに自分を委ねたということであります。

 このヨセフの生き方が今朝のメッセージであります。新約聖書の今朝の聖書は、その逆の生き方が主イエス・キリストによって指摘されています。マタイによる福音書18章21節以下、「仲間を赦さない家来」のたとえがイエス様によってお話されました。
 イエス様のお弟子さん、ペトロが「赦し」についてイエス様に尋ねました。「兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねるのです。それに対してイエス様は「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われたのであります。七の七十倍は490ということになりますが、そこには限りが出てきますが、むしろ無限を意味しています。イエス様は無限に赦しなさいと教えておられるのです。それをわかりやすくするために、イエス様はたとえ話しをされます。
 ある王様が家来達に貸したお金の決済をすることになりました。決済をし始めたところ、1万タラントン借金している家来が、王様の前に連れてこられました。イエス様による「タラントン」のお話しがありますが、そこでは5タラントン、2タラントンを預けられた人が商売をしました。タラントンは商売をするほど大きなお金になります。大体、1タラントンは6000デナリオンと言われます。1デナリオンは一日分の日当であるとされています。一日働いて、今の日本の社会で考えて、1万円ももらえるなら、随分とよい条件ですが、1タラントンに換算すると6千万円ということになります。それに1万をかけると、気が遠くなるほどのお金になります。一人の家来が莫大なお金を王様から借りていたということです。この家来は返すことができないので、王様は自分自身も妻も子供も、また持ち物全部を売り払って返済するように言います。家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と懇願します。王様はこの家来を憐れに思い、この家来を赦して借金を全部帳消しにしてあげたのであります。
 ところが、この家来が赦されて道を歩いていると、この家来から100デナリオンの借金をしている友達に会います。家来はその人を捕まえ、借金を返せとせまるのであります。友達は、ひれ伏しながら、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼むのであります。しかし、家来は承知せず、この友達を牢屋に入れてしまうのです。100デナリオンは100万円位ですから、決して小さなお金ではありません。しかし、1万タラントンと比較すれば微々たるお金です。他の友達がこの有様を王様に告げます。家来は王様に呼ばれます。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の友達を憐れんでやるべきではなかったか」と言い、その家来も牢屋に入れてしまったというのであります。神様からいただいている憐れみは人にもしなさいとの教えであります。自分の思いを超えて、他の存在を受け止めて生きることが私たちの歩みであるとイエス様によって示されるのであります。今の現場でイエス様の教えを実践することが求められているのです。

 裁判員制度が始まり、もう4、5年たつと思います。その制度が始まってから、もしかしたら自分に回ってくるのではないかと不安を持っているのではないでしょうか。私は74歳ですから回ってくることはないのですが、牧師にしても教会の皆さんにしても、どのように対応したらよいのか迷うのであります。以前のキリスト新聞に一人の牧師が裁判員になったことについて報道されていました。全国3例目になる裁判員制度の裁判に渋谷友光牧師が裁判員になりました。この牧師は日本アッセンブリ・オブ・ゴッド教団青森キリスト教会で牧会をしています、45歳と言われます。選ばれたとき非常に躊躇しましたが、「牧師である自分が、主に仕えるものとして、意見を発していく必要がある」と思ったというのです。「毎日、被告のため、被害者のため、自分自身と裁判に携わったチームのために祈って臨みました。祈れるということが、こんなに大きい恵みなのかという実感をしました」と言っています。裁判の最終日になり、懲役15年という判決を決め、裁判員が評議室から法廷への廊下を歩いていたとき、渋谷牧師は裁判長に進言しました。「決して諦めた15年ではなく、更生への願いと期待を込めた15年だということを付け加えて欲しい」と言いました。法廷では、裁判長が判決を言い渡し、その後に牧師の言葉を付け加えたのであります。被告はこれまでと異なる真剣なまなざしで深くうなずいたということであります。
 裁判される人も一人の隣人であります。その隣人に祈りつつ臨み、一つの結論に至ったのでありました。隣人も主イエス・キリストの十字架の贖いをいただく一人なのであります。十字架の前においては、十字架によって赦される同じ人間なのであります。隣人を祈り、隣人と共に主の十字架の前に並びたいのであります。その姿勢が隣人と共に生きる原点であります。その姿勢が隣人とどう向き合うかを導くのであります。
 私の現実の生活、いわゆる私の現場にはどのような人がいるのでしょうか。いつも意地悪をしている人がいます。なんでも口に出して吹聴して回る人もいます。挨拶しても、横を向いている人もいるのです。しかし、どのような現場でありましても、この現場に神様が私を導いて下さっているのです。祝福の現場になるように導いて下さっているのです。
<祈祷>
聖なる神様。神様のお導きにより、今の現場を歩むことができ感謝致します。隣人と共に十字架の前に立つことを得させてください。主の御名によりおささげ致します。アーメン。