説教「新しく生きる」

2013年9月15日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第18主日

説教・「新しく生きる」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記20章1-17節
    エフェソの信徒への手紙5章1-5節
     マタイによる福音書19章16-30節
賛美・(説教前) 讃美歌54年版・214「北のはてなる」
    (説教後) 讃美歌54年版・333「主よ、われをば」


 マレーシアのクアラルンプール日本語キリスト者集会(KLJCF)から「三十周年記念証し集」が送られてきました。KLJCFは昨年2012年3月まで加藤尚宏牧師が10年間牧会されましたが退任されました。74歳であったと言われます。KLJCFはその後、4月からは専任の牧師が決まらないので、日本基督教団の隠退牧師に、それぞれ3ヶ月ずつのボランティア牧師を要請しました。3ヶ月はビザの必要がなく、パスポートで滞在できる期間です。私達夫婦は今年の3月13日から6月4日まで、ボランティア牧師として赴きました。わずかな期間でしたが、今年は三十周年記念誌を発行するので、ぜひ寄稿していただきたいと要請をいただきました。それで7月末には原稿を送っておきました。KLJCFは9月8日に三十周年記念礼拝をささげ、その日に記念の「証し集」を発行されました。
 「証し集」には他のボランティア牧師の皆さんも寄稿されていました。そしてKLJCFにお集まりの皆さんが「お証」を執筆されていました。一つの群れの中で「お証」を記すことは大切なことです。特にKLJCFはキリスト教でもいろいろな教会の皆さんが集っています。信仰の姿勢が異なるとしても、いつも心を一つにして、礼拝する喜びを得ているのです。そういう中で、このような経緯で洗礼を受け、このような経緯でKLJCFに導かれたと記されています。後の時代に読み返したとき、この群れの中にいた自分を示されると言うことです。いつの時代でも、機会があれば、その時代に生きる自分の証しを書き残しておくことは大切なことなのです。
 私は1979年に大塚平安教会に就任しましたが、その年は大塚平安教会の創立30周年の年でした。しかし、その年の6月に前任の乙幡和雄先生が退任され、7月と8月は無牧の時であり、9月に私が就任したのであります。本来は30周年記念礼拝をささげるところですが、取りやめたのでした。そして35周年の記念礼拝、そして記念誌を発行しました。その後、40周年を迎えましたが、その時は礼拝堂を改修したり、電子オルガンを設置したりしましたので、記念誌は発行しませんでした。そして1999年に50周年を迎え、創立50周年記念礼拝をささげると共に「50周年記念誌」を発行しました。35周年の時には、赴任して間もなくであり、歴史を書くことができませんでしたが、50周年記念誌には既に20年も牧会していましたから、教会の歩みについては詳しく書くことができました。そして10年後の2009年には「60周年記念誌」を発行しました。10年間の歴史はいろいろな取組みがあり、それらもすべて書き残しておきました。50周年に致しましても、60周年に致しましても、教会の皆さんの「お証」が掲載されていますので、それぞれの時代に生きる皆さんの信仰が歴史に残されたのです。
 私たちは昨日の私と、今日の私は殆ど同じでありましょう。しかし、神様は日々、御心を示してお導き下さっているのですから、昨日の今日ではなく、今日の私は新しく生きているのであると思わなければならないのです。日々、御心を与えられ、これからもいよいよ新しく生きる者でありたいと示されています。日々、御言葉を与えられ、養われ、導かれていることを改めて示されたいのです。

 御言葉は神様が人間に与えた約束であります。その約束を信じて生きるときに、祝福の人生へと導かれて行くのであります。聖書は神様が人間に与えた約束の書物なのであります。旧約聖書新約聖書と称していますが、「約」とは「約束」であります。では「旧い約束」とは何かと言いますと、旧約聖書全体が神様の約束でありますが、一言で言いますと「十戒」であります。旧約聖書十戒を中心に歴史が導かれているのであります。今朝はまず旧約聖書の「十戒」を示されます。
 聖書の人々はエジプトの国に住むこと400年であります。その多くの年月を奴隷として生きなければなりませんでした。前週は神様のお導きによるヨセフ物語を示されました。神様は聖書の人々を生き残らせるために、ヨセフを家族より先にエジプトに渡らせ、エジプトの大臣にさせます。大飢饉が始まり、ヨセフの父親、ヤコブの一族もエジプトに住むようになるのであります。年月が流れ、エジプトの国に外国人である聖書の人々が住んでいる経緯を知らない王様の時代になります。次第に多くなっていく外国人に脅威を持つようになります。それにより聖書の人々を奴隷にしてしまうのであります。奴隷として苦しみつつ生きる聖書の人々を神様が救済いたします。モーセという指導者を立て、エジプトを脱出させたのであります。モーセは奴隷の人々を救い出す大きな役目がありましたが、それと共に、聖書の人々が神様の「約束」をいただいて生きるように導くことも、大きな使命でありました。奴隷の国エジプトを脱出し、神様の示す乳と蜜の流れる土地へと旅立つのでありました。そして、最初の宿営地がシナイ山の麓でありました。しばらくそこに宿営するのでありますが、モーセは導かれるままにシナイ山に登ります。
 シナイ山はほとんどが岩の山です。私達は山と言えば、樹木が生い茂り、谷の沢があり、お花畑等を連想します。かなり高い山でも、頂上や峰には草木が生えています。しかし、このシナイ山は麓から岩の山であります。以前、聖地旅行でこのシナイ山に登りました。夜中の2時頃出発します。ラクダに乗っての山登りですから、まさに楽な登山でもあります。夜ですから周囲の状況がどのようになっているのかわかりませんでした。頂上の手前でラクダを降り、最後のきつい登山をして頂上に着いたのでありました。まだ暗闇です。やがて遥か彼方の雲が明るくなりました。それと共にシナイ山も明るくなり、一斉になにやら叫びとも、祈りとも、歌とも思える声があちらこちらで聞こえてきました。イスラム教、ユダヤ教キリスト教の人々なのであります。参加したツアーの責任者が突然、私に礼拝を担当してくださいというのです。突然でありましたが、神様がモーセを呼び寄せ、このシナイ山の麓で御自分を証しされたことをお話しいたしました。神様は「有ってある者」としての存在であるのです。それはエジプトの奴隷解放に赴く前でした。そして今、解放された聖書の人々をこのシナイ山の麓に宿営させ、モーセは「有ってある」神様のもとへ来たのであります。それがシナイ山でありました。私たちも「有ってある」神様にまみえていることをお話ししたのであります。礼拝が終わり、三々五々、下山しましたが、細い道の傍らは断崖絶壁のようなところをラクダに乗って登ってきたのです。昼間でしたら、ラクダに乗っていても怖くてたまらなかったと思いました。
モーセはこのシナイ山で神様の約束「十戒」をいただきました。その「十戒」を出エジプト記20章1〜17節において示されています。「神はこれらすべての言葉を告げられた」のであります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とまず示しています。これが第一戒であります。聖書の人々を導く神様がどのようなお方であるかを示しています。今では考えられないような状況から救い出してくださった神様なのであります。しかし、今でも困難な状況です。荒野をさまよう、身の落ち着き場がない今の状況ですが、神様が今の状況を顧みられて導いてくださっているのです。この十戒の第一戒こそ、現代に生きる私たちの根源なのであります。私達も導き出されたものです。そして、導きを今与えられているのです。「あなたの神」であると言われ、あなたを導いていると言われています。
3節から6節までが第二戒になります。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と示されています。6節までは偶像崇拝を禁じています。導きの神様を示されながら、心を他に向けることがないように戒めています。
第三戒は7節になります。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」との示しであります。神様のお名前はYHWH(ヤハウエ)であります。「有ってある」存在の意味です。しかし、「みだりに主の名を唱えてはならない」との戒めがありますので、神様のお名前を言わないで、「アドナイ」というようになりました。アドナイとは「主」という意味です。文語訳聖書には神様のお名前はエホバと書かれています。昔はYHWHをエホバと読みました。しかし、今日ヤハウエと読むようになっています。口語訳聖書になった時点で「エホバ」を「主」と訳すようになりました。従って、新共同訳聖書のどこを読んでも神様の固有名詞が出てこないのです。十戒の示しに従っているということです。
8節が第四戒で、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」であります。神様は天地万物をお造りになり、七日目、土曜日にお休みになられたので、人間も神様の創造の御業、恵みを賛美しなさいとの教えでありました。土曜日の安息日は絶対的なお休みの日でありました。しかし、今日、私達は日曜日をお休みとし、礼拝をささげています。それは主イエス・キリストが日曜日にご復活されたからで、復活の主を礼拝する日が日曜日なのであります。
このように第一戒から第四戒までは神様を覚える戒めであります。そして、第五戒から第十戒までは人間関係における戒めであります。第五戒は「あなたの父母を敬え」であります。父母は何よりも神様のお心を多く示されているのであり、その父母から神様のお心を示されなければならないのであります。第六戒は「殺してはならない」、第七戒「姦淫してはならない」、第八戒「盗んではならない」、第九戒「隣人に偽証してはならない」、第十戒「欲してはならない」と教えられています。
人間関係における戒めは、戒めというより、当たり前のことであります。しかし、人間はこの当たり前の生き方ができません。実に旧約聖書の世界は、この当たり前の生き方を、神様は戒めとして示しました。このことは人間の普遍的な生き方の基であるのです。主イエス・キリストもこの基本的な人間の生き方を戒めとして与えているのであります。

 新約聖書はマタイによる福音書19章16節から30節で、永遠の命を受ける道筋をイエス様が教えておられます。一人の男が「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねました。それに対してイエス様は、「命を得たいのなら、掟を守りなさい」と示しました。男が「どの掟ですか」と尋ねるので、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分ように合いなさい」とイエス様は示されました。すると男は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言いました。聖書の人々は生まれたときから十戒を徹底的におぼえさせられます。十戒ですから10本の指を折り曲げながら十戒を唱えるのです。唱えるということは守ることでもありました。しかし、イエス様は、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と示されたのであります。イエス様が十戒を示したとき、一つの戒めは言いませんでした。第十戒にあたる「欲してはならない」の戒めです。「あなたには欠けている物がまだ一つある」と言われたとき、イエス様は十戒の一つを言わなかったのですが、言わなかった理由が「欠けている物」でありました。人間の根本的な自己満足、他者排除の姿であります。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」と言われたとき、非常に悲しんだと記しています。悲しんでいる姿を見ながらイエス様は、「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたのであります。人間的に考えれば、ラクダが針の穴を通ることなんて考えられません。まず、不可能と思います。そんなことは絶対にできないと思うのです。しかし、それに対して、「人間にできることではないが、神は何でもできる」とイエス様は示されたのでありました。

 ラクダが針の穴を通ることに対して、26節に「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と示しています。「人間にできることではない」と言われますが、それは第十戒の「欲してはならない」を守ることができないことです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」の五つの戒めは守ることができます。だから、イエス様に質問した人は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているのでしょうか」ということができました。その時、イエス様は第十戒の「欲してはならない」を言いませんでした。これを示すなら、「みな守っている」とは言えないのです。人間の自己満足、他者排除が実に「欲してはならない」の戒めになっているのであります。人間には「欲してはならない」を守ることができませんが、だから神様は主イエス・キリストにより、守ることができるように導いておられるのです。針の穴を通ることができるように導いておられるのであります。主イエス・キリストの十字架の救いに導かれている私たちは、「自分を愛するように、隣人を愛する」ことを実践しつつ歩んでいます。
自分の至らぬ姿はよく知っています。自分の弱さをよく知っています。困難に生きています。悲しみに生きています。苦しい状況を生きています。神様はおできになります。私を新しい歩みへと導いてくださるのです。今、案じていること、不安の思いを持って取り組んでいること、神様はおできになります。「欲してはならない」の第十戒をしっかりと受け止め、第十戒を守ることができるように十字架にお架かりになった主イエス・キリストを仰ぎ見つつ歩むことなのです。新しく生きることができるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。御心をくださり、日々、新しく生きることができ感謝致します。新しく生き、み栄えをあらわさせてください。イエス様の御名によりおささげ致します。アーメン。