説教「日々、お恵みをいただきつつ」

2021年6月27日、三崎教会

聖霊降臨節第6主日」  

                      

説教・「日々、お恵みをいただき」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書49章14-21節      

   マタイによる福音書6章25-34節

賛美・(説教前)讃美歌21・360「人の目には」

   (説教後)讃美歌21・536「み恵みを受けた今は」

 

 6月も最後の日曜日であり、今朝も皆さんと共に礼拝をささげることができ感謝しています。今は梅雨のさなかであり、日々天候を気にしながら過ごしていますが、NHKの朝のテレビドラマは天気予報の物語でありまして、参考になっております。最近は、テレビドラマも見なくなっているのですが、ふと朝のテレビドラマを見ましたら、宮城県登米の町が舞台であることを知り、興味深く見るようになりました。実は、もう40年も前になるのですが、この登米の町の教会に関わっていたのです。その頃、宮城県の古川にあります陸前古川教会の牧師でありました。この地域は仙台の北にあることで東北教区宮城分区仙北地区と称していました。仙北地区には七つの教会がありまして、鳴子温泉にある鳴子教会もあり、そして登米教会がありました。その登米教会の牧師が退任されたのですが、後任の牧師が決まらず、とりあえず仙北地区内のどこかの教会の牧師に依頼することになったのでした。私は陸前古川教会の牧師でしたが、登米教の牧師にもなりました。二つの教会の牧師にもなったのでした。日曜日の午前中は古川の教会で礼拝をささげ、午後からは登米教会で礼拝をささげていました。その頃、登米の町は人口8000人くらいでした。陸の孤島ともいわれるところでした。教会が存在していましたが、毎週10人くらいの皆さんで礼拝をささげていました。その教会だけでは牧師の生活を支えることができません。そのため、幼稚園を開いていました。しかし、幼稚園は宗教法人であり、昔は公的な助成が受けられませんでした。それで、幼稚園を学校法人にすることにしたのでした。私が登米教会に赴任しましたのは、その頃でありまして、古川の教会と共に登米教会の二つの教会の牧会をしたのでした。一年間でしたが、その頃を思い出しては懐かしく思っていましたが、朝のテレビドラマが登米の町でもあり、懐かしく見ています。登米教会のお話をしましたのは、その頃は、本当に少人数の教会でありましたが、皆さんは日曜日になると礼拝をささげていたのです。礼拝は日々、お恵みをいただきつつ歩む原点であります。私たちも人生の原点を与えられています。礼拝をささげ、日々、お恵みをいただきつつ歩んでいるのであります。教会は祝福の群れであります。

 祝福の群れに導かれることは、何よりも神さまの顧みがあるからです。神様がこの群れを顧みてくださっているので、祝福の群れへと導かれているのであります。今がどのような状況であろうとも、神様は変らずに見守ってくださっているのであり、祝福を与えてくださっているのであります。

 旧約聖書イザヤ書であります。聖書の人々がバビロンの国に捕われの身分となっていることが背景にあります。捕われの身分、それを捕囚と称しています。聖書のユダの国がバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれました。そこで奴隷のように働かされて生きていたのであります。しかし、鎖につながれているとか、牢屋に入れられているというのではありません。それぞれの生活があります。バビロンの国のためにいろいろな職務を持ちながら生活しているのです。普通の生活のように思えますが、しかし捕われの身分であり、やはり自由が拘束されています。捕われの人々は異国の空の下で、希望もなく生きるほかはありません。そのように力をなくし、希望をなくしている人々にイザヤは神さまの御心を示し、励ましを与えたのでありました。

 イザヤ書49章11節では、「わたしはすべての山に道をひらき、広い道を通す。見よ、遠くから来る。見よ、人々が北から、南から来る。」と示しています。都エルサレムへの優しい道になり、通りやすい道になったので、多くの人々がその道を通って帰ってくる、と述べます。だから、自分は神様から見捨てられたと思ってはなりませんと述べているのが、今朝の聖書であります。神様のお導きを信じなさいと示しているのです。

 「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れた、と」。そのように言われていることに対して、イザヤは「母親が自分の産んだ子を憐れまないだろうか」と言い、「たとえ、人々が忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」と神様の御心を示しているのであります。神様はあなたを決して忘れない、とは聖書が繰り返し示しています。ルカによる福音書12章6節では、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と主イエス・キリストも示されているのです。

 問題は私たち人間であります。私たちが神さまを忘れてしまうということであります。日々、幸せであり、喜びつつ歩むとき、その恵が神さまからの賜物でありますのに、何か自分の成果であり、あるいは「ついている」との思いで喜んでいるのです。聖書は繰り返し神さまの恵を忘れないように示しているのであります。

 神さまの御心に生きるとき、他の存在と共に歩むことが導かれてくるのであります。今朝の使徒言行録4章32-37節は最初の教会の生活が示されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と報告しています。今朝の聖書は、持ち物をささげることが特に記されています。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒達の足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」と報告されています。

 マタイによる福音書6章25節以下が今朝の聖書です。「思い悩むな」の表題が付けられています。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と示されています。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」との示しです。命そのものが何よりも大切であることを示しているのです。命そのものは神さまがお守りくださっているのです。「空の鳥を良く見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値ある者ではないか」と言うのです。鳥ですら神さまが大切に養ってくださっているのです。ましてあなたがたにはなおさらですというのです。今度は野の花を示します。「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と諭しています。神様は人間であるあなたを決してお忘れにはならないと教えているのです。

 人間が神さまを忘れてしまうので思い悩むのであります。しかし、神さまは決してあなたを忘れていないとイエス様が教えておられるのです。神さまのお恵みを忘れて、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い悩む私たちに、これらのものがみな私たちに必要であることを、神さまが御存知なのです。だから、神さまを忘れている私たちは、「何よりもまず、神の国と神の義」を求めることが必要なのであります。私たちの求めている物はみな加えて与えられるので、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とイエス様は教えておられるのです。

 祝福の群れは、神様が私たち一人ひとりをお忘れではないこと、しっかりと受け止めています。与えられた主の群れの一員になって、礼拝をささげ、交わりを深めつつ歩んでいるのです。礼拝を共にささげること、神様のお恵みを示される時なのです。

 先ほどもお話をしましたが、宮城県登米教会は、私が牧師としてうかがった頃は、礼拝出席は10名にもならない少人数の礼拝でした。教会の皆さんもご高齢の皆さんであり、その皆さんが中心になって幼稚園を学校法人にしたのです。町の人たちは高齢者ばかりの教会で、何ができるかと言われていましたが実現したのです。その原点は、礼拝をささげることで日ありました。日曜日になると皆さんは小さな教会に集い、少人数の礼拝をささげていましたが、それが力強い歩みの原点でありました。日々、お恵みを与えられている喜びが原点になっていたのでした。 

私たちは祝福の群れに導かれています。導かれた原点は主イエス・キリストの十字架の救いをいただいたということです。救いをいただいた人々が集められる場所、それが教会であります。祝福の群れであります。私たちはこの地に祝福の群れとして据えられています。祝福の群れとして、世に証しをしつつ歩むのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。私達を祝福の群れに導き感謝いたします。この祝福の群れ原点として歩ませてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

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