説教「主の家族と共に」

2021年8月15日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第13主日」              

                      

説教・「主の家族と共に」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記24章62-67節

   コロサイの信徒への手紙4章2-6節

   マタイによる福音書12章43-50節

賛美・(説教前)讃美歌21・356「インマヌエルの主イエスこそ」、

   (説教後)讃美歌21・532「やすかれ、わがこころよ」

 本日は8月15日であり、日本の国は「終戦記念日」としていますが、「敗戦記念日」なのであります。日本の国が国力を世界に広げようと太平洋戦争に至るのですが、日本の国は国力もなく、資源もなく、乏しいことを知りながら戦争を進めていたのです。しかし、8月6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾が落とされ、悲惨な現状を示されたとき、ようやく日本の国は戦争に負けたことを認めたのでした。そして8月15日に敗戦を宣言したのであります。今年は敗戦後76年であります。今でも戦争の傷跡、悲しみが残されており、被爆された皆さんの苦しみは今も続いているのです。今の時期は、やはり戦争に関することが報道されています。戦争は何よりも家族の崩壊なのです。悲しい別れをしなければならないのです。

 日本の敗戦を迎えたとき、私は6歳でした。従って、戦争の経験はありません。恐ろしい戦争被害の体験もありません。今、住んでいるところに転居したのは4歳頃でした。もともと横須賀の追浜、今は夏島と称していますが、そこには日本陸軍の飛行場がありました。そのすぐそばに住んでいたので、戦争が激しくなってきて、危険であるからと強制的に転居させられたのでした。横浜の市街地からも離れていますので、戦争中は何の被害もなく過ごすことができました。しかし、兄は学童疎開をさせられ、栄養失調、そして病となり、なくなるのであります。戦争の悲しいことと言えば、それくらいでありました。兄の死は、やはり戦争のためであったと思います。戦争により家族の悲しみとなるのです。今朝は肉親の家族を超えて、イエス様のお心を持つ主の家族の導きを与えられるのです。

 旧約聖書は神様のお心を持って生きることが祝福の家族であると示しています。今朝は創世記24章62-67節でありますが、イサクのお嫁さん探しの物語であります。24章全体がイサクのお嫁さん探しになっています。アブラハムさんとサラさんの子供イサクにお嫁さんを迎えることになりました。イサクの母親サラは既に死んでいます。アブラハム自身も老人になっていました。それでアブラハムは息子イサクのお嫁さんを探すことになります。アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言います。

「あなたはわたしの息子の嫁をわたしが住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れてくるように」と命じるのです。そこで僕はお嫁さん探しに出かけます。24章11節以下に示されます。そこはナホルという町でした。そこでアブラハムの親族、リベカと出会い、彼女を連れて故郷に戻ってくるのです。そして、今朝の聖書になります。夕方暗くなる頃、野原を散策していたイサクでありました。目を上げてみるとラクダに乗った僕とリベカが近づいてきたのであります。そして、ここで二人は出会うことになります。二人の出会いによって、神様の御心に生きる家族が誕生したのであります。   

今朝の聖書についての解説は必要ないでしょう。ここにいたるまでのことが大切なのです。創世記24章は全体を通してイサクのお嫁さん探しになっています。それも、アブラハムが土地のカナンの娘ではない、一族の中からお嫁さんを探したということです。神様のお心を持って生きるアブラハムであり、また一族でなければならないのです。常に神様のお心を中心にして生きる一族が大切なのです。何も、長々とイサクのお嫁さん探しを記さなくても良いと思うのですが、神様のお心に生きることに命を懸けて守る姿が記されているのです。

 今朝の主題は「祝福の家族」でありますが、「神様のみ心をいただきつつ」生きる人生を示されるのであります。今朝のマタイによる福音書12章43節以下は「汚れた霊が戻って来る」との表題で記されています。これは主イエス・キリストがお話された教えであります。面白いお話であります。この12章22節以下に「ベルゼブル論争」が記されています。イエス様とファリサイ派の人々との間で悪霊を追い出す論争が展開されています。とにかく、ここでは悪霊を追い出すことが焦点でした。それに対して、今朝の43節以下は追い出された悪霊の問題を示しているのです。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない」と記されていますが、イエス様によって悪霊は人から追い出されるのです。今まで悪霊が体内にあって、本人を苦しめていました。しかし、いまや悪霊はイエス様によって追い出されたのです。悪霊がなくなった人は、何か気持ちが晴れ晴れとして、平安の日々を歩むようになりました。悪霊のいない自分、毎日がうれしいのです。ところで、悪霊は休む場所がないので、「出て来たわが家に戻ろう」と言い、元の家に帰るのです。元の家とは今まで入っていた人のことです。イエス様によって悪霊は追い出されました。その人の心はきれいになっているのです。悪霊が言うには、「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた」のであります。悪霊を追い出してもらった人は、確かに心の中はきれいになりました。生活もきちんとできるようになりました。ところが悪霊を追い出した後の心には中心になるものが存在しなかったのです。再び悪霊が入り込み、その悪霊はもっと悪い七つの霊を呼び込んだというのです。悪霊をイエス様によって追い出されたとき、空になった心にイエス様がくださる神様のお心で満たさなければならなかったのです。そうすれば悪霊は戻っては来なかったのであります。主イエス・キリストはこのたとえ話をすることによって、私たちが神様のお心をいつも求め、いただき、心を満たされながら歩むことを教えておられるのであります。神様のお心を持つ努力、訓練、心がけが求められているのであります。

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と主イエス・キリストは教えておられます。今朝の新約聖書マタイによる福音書12章46節以下であります。イエス様が群衆に話しておられます。先ほどの悪霊のお話しに続いて、なお神様のお心に生きることをお話しされていたのであります。するとそこへイエス様のお母さんであるマリアさんと兄弟たちが、イエス様と話したいことがあって外に立っていました。そのことをある人がイエス様に伝えます。するとイエス様は、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言うのです。冷たい言い方をしています。イエス様の母とはマリアさんのことです。イエス様は聖書の証言によれば、聖霊によってマリアさんが身ごもり、マリアさんを母としてこの世に現れたのであります。御子としてお生まれになりましたが、ヨセフさんとマリアさんの子供として成長したのであります。その後、ヨセフさんとマリアさんとの間に男の子4人、女の子数人が生まれています。マタイによる福音書13章55節に、イエス様に対する群衆の声として、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」と言っております。そのような状況でありますが、イエス様は主の家族について示しているのです。弟子たちの方を指して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われたのであります。イエス様が「わたしの兄弟、姉妹、また母」と言われたとき、人間みな兄弟と言っているのではありません。イエス様はお弟子さん達を指しながら言われたのであります。すなわち、イエス様のお弟子さん達はイエス様によって神様の御心を与えられ、御心に生きているのであります。そして、その努力をしつつイエス様と共に歩んでいるのであります。神様の御心をいただき、行う人が兄弟姉妹であるということであります。主の家族なのであります。

 今はコロナ感染予防で大変な時です。学生の皆さんの中には、この状況の中で食べる物に事欠くと言われ、そういう皆さんを救済する人々が紹介されています。キリスト教関係では、今の状況より以前の課題として食事を提供している人々がいます。横浜では寿町でキリスト教の人々が食べ物を提供しています。また川崎の桜本教会も食べ物を提供しているので、食生活に困難な人たちが集まっているのでした。そういう活動がありますが、キリスト教では、信じる人々が集まり、励ましあっているのです。イエス様が十字架に架けられて、見える形では存在しなくなった時、イエス様を信じる人々は、いつも集まっては一緒に食事をし、励ましあっていたのでした。原始キリスト教の人々は主の家族、信仰の家族として歩み始めたのでした。キリスト教は主の家族として導かれているのです。

 教会は主の家族なのであり、集められる人々が主の家族として、共に歩んでいるのです。イエス様のお心をさらにいただいて歩むためなのです。

<祈祷>

聖なる神様。イエス様の十字架の救いにより、神様の家族に導かれ感謝致します。御心をいただき歩ませてください。御名により、アーメン。

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