説教「主の導きに委ねつつ」

2021年8月8日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第12主日」              

                      

説教・「主の導きに委ねつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・エレミヤ書20章7-13節

   使徒言行録20章17-24節

   マタイによる福音書10章16-25節

賛美・(説教前)讃美歌21・355「主をほめよ、わが心」、

   (説教後)讃美歌21・507「主に従うことは」

 

 毎年のことですが、この夏の猛暑は大変なことで、熱中症に気を付けながら過ごしています。そしてまた、新型コロナウイルス感染予防に気持ちを集中しながら過ごしているのです。日本の国は不思議な状況の中にいるようです。熱中症やコロナ感染予防の中で、オリンピックというスポーツの祭典を行っているのですから、どのように理解してよいのでしょうか。感染予防のために人との接触は自粛するように訴えても、世の中はお祭りのさなかなのですから、家の中で過ごしているわけにはいかないのでしょう。人間は人と共に過ごすことで生きる意味があり、日々の歩みが導かれてくるのでしょう。常々、日本人のお祭り好きを不思議な思いで示されていましたが、日本に限らずどこの国の人々もお祭り好きであることを示されています。娘がスペイン・バルセロナにいますので、何回か訪れており、半年くらいは現地で過ごしています。現地の人々も、何かとお祭り騒ぎをしていることを示されました。何かとイベントが行われ、その都度多くの人々が集まっていました。どこの国の人々も集まってはイベントに参加することが、何よりの喜びなのでしょう。従って、お祭り騒ぎの今の日本の国で、いくら自粛を要望しても、人出を抑えることはできないのであります。オリンピックが終わり、秋風が吹いてくる頃には、いくらか治まってくることを期待しているのです。

 とにかく、混乱したような状況下で過ごしていますが、私たちは「主の導きに委ねつつ」歩みたいのです。

 前週はヨナ書を示されています。このヨナの物語は、神さまが御心を示す人を必ず導くことを示しています。逆に言えば、御心を示された人は逃げられないと言うことを示されるのです。今朝の旧約聖書のエレミヤもその一人であります。20章7節にはエレミヤが次のように告白しています。「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです」と述べています。最初にエレミヤが神さまの召しをいただいた状況はエレミヤ書1章4節以下に記されています。主の言葉がエレミヤに臨みます。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎内から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と言われたのです。それに対してエレミヤは、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎません」と辞退しています。すると神様は、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、誰のところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と言われたのでした。エレミヤは神さまの御心に捕らえられた者として、預言者として生きることになるのです。

 そのエレミヤの歩み出しを示されて今朝のエレミヤの告白を示されるのです。「わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです」とエレミヤは告白しています。聖書の人々はエレミヤの言葉を聞こうとしません。状況的には大国バビロン、アッシリア、エジプトの狭間にあって、どのように生き伸びるか、進路を決めかねているのです。偽預言者達は「主の神殿」があるから安泰だと人々に言い聞かせています。指導者達は、エジプトと手を結んで、バビロンに対抗することを考えています。そういう中で、エレミヤは、むしろバビロンに降伏して生き延びることを勧めているのです。今朝の聖書20章8節以下でエレミヤは述べています。「わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」と人々の中で孤立する姿を述べているのです。困難な状況であり、耳を貸さない人々への預言ですが、エレミヤは確信しているのです。「主に向って歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を、悪事を謀る者の手から助け出される」と神さまの恵みと導きを示しているのです。エレミヤのように「あなたの勝ちです」と神さまに言わなければならないのです。私達も神さまに捕らえられ、そして今の状況におかれていることを思わなければならないのです。

 主イエス・キリストに捕らえられて、イエス様のお弟子さんになった人たちのことについては、前週も示されています。イエス様は12人のお弟子さんをお選びになり、すぐにもお弟子さん達を派遣しているのです。そのお弟子さん達にイエス様は「汚れた霊に対する権能」を授けておられます。「汚れた霊」とは人間的な自己満足です。それに打ち勝つ力をお与えになっているのです。そして、今朝は更に厳しいことを示しています。「わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに羊を送りこむようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と示しています。イエス様の御心を持つゆえに迫害されるとも言われています。しかし、どのような迫害がありましょうとも、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」とイエス様は教えているのです。どのような状況になろうとも、神さまが共におられて、導いてくださることを教えているのです。神様が困難な状況を導いてくださるのです。

 このような厳しいことになるのであれば、イエス様のお弟子さんにならなくても、普通に生きれば良いのではないかと思われるでしょうか。このお弟子さん達の派遣については、主イエス・キリストの十字架の贖い、十字架の救いの前のことです。しかし、イエス様は十字架にお架りになる前に、救いを信じて生きる者の姿を示しているのです。少なくとも、この時点では「自分を愛するように、あなたがたの隣人を愛しなさい」と教えておられます。そして、その教えに生きる者が、現実を天の国として生きる者へと導かれると示しているのです。イエス様を信じると言うことは天の国へと導かれるためなのです。そのイエス様の基本的な教え、「隣人と共に生きる」こと、人間は出来ないので、イエス様は十字架にお架りになり、基本的な教えを実践出来る者へと導いてくださっているのです。「主の導きに委ねつつ」の人生へと導かれるのです。

 エレミヤは人々が神さまではなく、人間の力関係に頼ろうとしているとき、降伏することを叫び、神さまに委ねて生き伸びるよう預言したのでした。そこで告白したのが、「あなたの勝ちです」と神様に申しあげたのです。苦しくても、辛くても、神さまが導いてくださることを告白しているのです。「神さまの勝ちです」と告白しなければならないのです。

大塚平安教会在任の頃、一人の少年が交通事故に遭い、そのとき、教会の皆さんが、すがる思いで神さまにお祈りしました。その時、牧師として次のようにお祈りしたのでした。

「神様、あなたの出番です。私達は日ごろ神様を忘れ、なにもかも自分の力で生きていると思っているのです。うまくできて人から褒められるとき、自分の力はたいしたもんだと自負しています。結構、苦しいことがありましたが、ちゃんと切り抜けています。みんな自分で自分の道を歩いていると思っているのです。しかし、神様、今こそあなたの出番です。あなたのお力が必要なのです。あなたの奇跡をも生み出す力が必要なのです。今になって思います。何もかも自分で切り抜けてきたと思っているこの私に、神様がどんなにか力を下さり、導きを与えてくださっていたのです。それなのに、私は私の功績であるかのように思っていたのです。何もかも私の人生はあなたのお計らいでありました。」

その後、少年は意識を回復しました。随分と長い間でしたが、ようやく回復し、徐々に普通の生活に導かれて行きました。そして、私が大塚平安教会の最後のクリスマスを迎えたとき、彼のお姉さんと共に洗礼を受けたのです。彼はまだ小学校4年生でしたが、イエス様を信じる歩みは、洗礼をうけることによりさらに強められたのでした。高校はキリスト教主義の学校に進みました。

神さまのお恵みの福音をいだいている私達は、その喜びの基は主イエス・キリストにより、神さまがくださっていることを知らなければならないのです。何もかも、イエス様によって神さまが私を導いてくださっているのです。私のこの現実にお恵みが与えられ、イエス様の福音、十字架による救いが与えられているのです。「神さま、あなたの勝ちです」、「神さま、あなたの出番です」と言いつつお恵みの福音を喜びつつ生きることなのです。何事も神さまの御心を基として生きることを示されたのです。

<祈祷>

聖なる神様。十字架を仰ぎ見ることができますことを感謝いたします。十字架を基として歩むことができますよう御導きください。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

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