説教「永遠に生きる者になる」

2017年5月7日、六浦谷間の集会
「復活節第4主日

説教・「永遠に生きる者になる」、鈴木伸治牧師
聖書・ネヘミヤ記2章11-18節
    コリントの信徒への手紙(一)12章3-13節
     ヨハネによる福音書11章17-27節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・460「おさなき子らよ」
    (説教後)497「あめなる月日は」


 復活節第4主日になりました。今年のイースターは4月16日でありましたが、イエス様は復活後40日間、ご復活のお姿をお弟子さんたち、人々にお示しになり、励まされたのであります。そして、40日後の、今年は5月25日になりますが、天に昇られるのであります。従って、今はご復活のイエス様に励まされ、導かれるのであります。
 もう一度、ご復活の日のことを示されておきましょう。イエス様は十字架に架けられて、その後埋葬されるのが金曜日でした。土曜日は安息日なので、聖書の人々は何もできないのであります。それは旧約聖書で示された十戒に基づくからです。十戒の第四戒に、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と示されています。神様は天地創造を日曜日から始めて、金曜日に終え、土曜日に安息されたということが根拠となっています。そのため、土曜日は神様の創造を感謝し、御業を示されながら、一日を過ごすのです。イエス様が埋葬されましたので、安息日が終わるや、お墓に行ったのはマリアさんと他の婦人たちでした。マタイによる福音書は、マグダラのマリアさんともう一人マリアさんが「墓を見に行った」と記しています。マルコに福音書は、「マグダラのマリアヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った」と記しています。ルカによる福音書は、「婦人たちは、準備しておいた香料をもって墓に行った」と記します。ヨハネによる福音書は、「まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」と記しています。それぞれ福音書のお墓参りを参照しましたが、マルコとルカによる福音書が記すように、イエス様の遺体に香料を塗るためのお墓参りであったようです。しかし、お墓にはイエス様の遺体はありません。そこに居た天使により、イエス様はご復活されたと示されるのでした。その後、お弟子さんたちもイエス様のお墓に行きますが、そこにはイエス様のご遺体がないことを確認するのでした。そのお弟子さんたちにご復活のイエス様が現れ、ご復活を証しされるのでした。
 ご復活を示されたとき、マリアさん達やお弟子さんたちは、お墓におられないイエス様を示されています。そのお墓からよみがえったことが、復活信仰の基となっているのです。ですから、使徒信条には、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」と示されています。イエス様のご復活は、お墓が基となっているということです。お墓を示されるということは、ご復活のイエス様を示されるということです。聖地旅行をしたときにも、このイエス様のお墓を見学しました。イエス様が埋葬されているのではないのですが、お墓を示され、そしてご復活されたイエス様を示されるのです。キリスト教の信仰は十字架の救いです。十字架、お墓、復活という順序になりますが、お墓を飛び越えて、復活信仰へと導かれるのです。使徒信条にも示されるように、お墓という場所を示されなければなりません。お墓と教会を重ねて示されるのではありませんが、常に十字架を証しする教会は、イエス様のお墓として示されるのです。私達の信仰は教会によって養われています。その教会を信仰の基として歩んでいるのです。信仰を励ます教会を常に示されているのです。教会を通して、「永遠に生きる者になる」信仰が強められるのです。その意味でも、教会と言う建物を維持することは、信仰者の課題になっているのです。

 教会という建物を管理すること、その歩みを導くのは神様であります。今朝の旧約聖書は都エルサレムの再建者・ネヘミヤの働きが示されています。この時代はバビロン捕囚から解放されて、順次エルサレムに帰っていく状況でありました。ネヘミヤはバビロンを滅ぼしたペルシャの王様に仕える身分であり、王の高官でありました。彼は献酌官であったといわれます。王様にお酒を差し上げる係りでありますが、これは信用のおける大事な役目であったのです。ある時、ネヘミヤは都エルサレムの様子を聞く機会がありました。報告によると、「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです」ということでありました。これを聞いたネヘミヤは幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神様にお祈りをささげました。「天にいます神、主よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした」とささげた祈りは、まず罪の告白でありました。そして、その上でペルシャの王様が、ネヘミヤを都エルサレムに行くことの許しを与えるようにお願いしたのであります。このネヘミヤの祈りは答えられました。神さまはペルシャの王様の心を動かし、ネヘミヤが故郷に帰ることを許されたのであります。
 そこで今朝の聖書になります。ネヘミヤ記2章11節以下は、ネヘミヤが荒廃したエルサレムの城壁を調べて周ることが記されています。くまなく調べてからネヘミヤは人々に言いました。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない」と人々に言うのでした。すると彼らは「早速、建築に取りかかろう」というのでありました。こうしてネヘミヤは人々と共に都の再建に取り掛かり、完成したのであります。神さまがネヘミヤを動かし、ペルシャの王様の心をも動かし再建へと向かわせしめたのであります。そして、人々も神さまのお心をいただいて、都の再建に取り掛からせたのであります。しかし、都エルサレムには他の民族が住み着いています。捕囚で多くの人々がバビロンに連れて行かれた後、外国人が住み着くようになり、捕囚にならなかったイスラエルの人々を迫害し、不幸へと追いやったのであります。従って、ネヘミヤを始め、再建に立ち上がった人々の前に、常に立ちはだかって阻止しようとしたのであります。敵の妨害については3章33節以下に記されています。あるいは敵の脅迫については6章に記されています。しかし、このような困難がありますが、神の御手が働き、再建へと導かれたのでありました。
 旧約聖書は霊の導きという言い方はありません。神さまの導きであります。神さまの御手が一人ひとりに働き、御心に従う者へと導かれていくのであります。根底にあるものは、ネヘミヤがまずお祈りしたように、罪の告白と戒めと掟と法を守る誓約であります。戒めを守ることによって、神さまはモーセに約束されたように祝福を与えるのです。戒めを守るならば「幾千代にも及ぶ慈しみ」が与えられるのであります。聖書の人々は、神さまとの正しい関係へと導かれたのであります。神さまの御心を受け止めて生きるという基本へと導かれたのでありました。それにより人々は真に生きる者へと導かれたのであります。都を建て直し、神殿を再建したのは、信仰のよりどころを求めていたからであります。

 真に生きる者へと導かれること、十字架の贖いと復活の主を信じることであります。新約聖書はラザロの死と復活の中で示されたイエス様の約束でありました。主イエス・キリストはマルタとマリア、そしてラザロとは親しくしていました。そのラザロが病気であることの知らせを受けます。しかし、イエス様はすぐには行きませんでした。知らせを受けてから二日を経たのちにラザロのところへ赴いたのでありました。その時は既にラザロは死んでいたのです。そのような状況でイエス様を迎えたマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」というのでした。その時、イエス様は言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と示されています。イエス様が「わたしは復活である」と言われたとき、そこには十字架の贖いが根底になっています。十字架の贖いを成し遂げたイエス様は死んで葬られるのでありますが、復活されたのであります。十字架と復活はこの時点では成し遂げられてはいません。しかし、ヨハネは主イエス・キリストの証を示すとき、十字架と復活を根底にしなければ福音は語れないのであります。十字架の贖いと死んだイエス様を甦らせた神様を信じる者は、すなわち神さまの御力を信じる者は、肉体の死を迎えるにしても、新しい命を与えられて生きるようになるのであります。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と主イエス・キリストは教えておられるのです。
 ヨハネによる福音書3章にはイエス様がニコデモと対話していることが記されています。その時、イエス様は「人は新たに生れなければ、神の国を見ることはできない」と示しています。今までの生き方では神の国には導かれないということです。マルコによる福音書では、イエス様がガリラヤで伝道を始められたとき、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。ヨハネの「新たに生れる」とマルコの「悔い改める」とは同じことを示しているのです。今までの自分ではない、新しい自分に生きるということです。神の国に生きるということは、主イエス・キリストが示されたように「自分を愛するように隣人を愛する」ことであります。他の存在を受け止めつつ生きることにより、神の国の住民へと導かれるのであります。それは、この世に生きていながら永遠の神の国に生きているのであります。私たちがそのように神の国に生きるために、神さまは十字架の贖いと復活を導き、神様の御力を現されたのであります。この神さまの御力を信じて生きることが私たちの歩みであります。
 今朝のヨハネによる福音書において、死んだラザロのもとにやってきたイエス様を迎えたのはマルタでした。「イエス様がここにいてくださったら、ラザロは死ななかったでしょうに」というマルタさんにたいして、復活信仰を与えています。その後、マリアさんに会います。マリアさんもマルタさんと同じことをイエス様に言っています。そして、イエス様はラザロが埋葬されているお墓に行きます。そして、墓の中に埋葬されているラザロに対して、「ラザロ、出てきなさい」と言われるのです。その言葉に導かれて、死んだラザロが墓から出てくるのです。お墓は死んだ者を埋葬する場であります。もはや生きてあいまみえることはありません。しかし、イエス様によって、お墓から新しい命が導かれているのです。イエス様も十字架にお架りになって埋葬されました。そのお墓から新しいご復活を示されたのです。イエス様のご復活と共に、死んでいるものが皆、よみがえったと聖書は証しています。イエス様により、お墓は新しい復活の場として示されているのです。すなわち、イエス様の十字架の救いを信じる信仰により、永遠に生きる者へと導かれるのであります。今朝はイエス様の十字架、復活の間にあるお墓の意味を示されています。お墓にイエス様がおられるのではなく、お墓からご復活されたという信仰です。

 お墓に埋葬されている人々は、そこに眠っているのではなく、イエス様のご復活と共に永遠の命へと導かれているのです。そのお墓に詣でることは、生前を示され、しかし、今は復活のイエス様に導かれ、永遠の命へと導かれていると信じているのであります。私の両親、というより、先祖から、鈴木家は浄土真宗の家でした。両親も仏教の信仰に生きた人です。その仏教に生きた両親ですが、三人の子供たちがキリスト教の洗礼を受けたことも理解してくれました。そして、私がキリスト教の牧師になることについても理解を示してくれたのです。従って、今は両親がおりませんので、鈴木家の存在はどのような立場なのか、所属するお寺の和尚さんに聞いてみました。浄土真宗の信仰をもつ者がいないからです。「鈴木さんの家は、お寺にお墓がありますので、墓檀家ということになります」ということでした。浄土真宗の信仰を持たなくても、お寺にお墓がある限り、檀家であるということなのです。ですから、墓檀家として、毎年お寺の「護持会費」を納めています。
 その檀家料を納めるためにも、先日、家族でお墓参りに行きました。最近、示されていますが、お墓参りに行くたびに、新しいお墓が建てられています。真新しい墓があちらこちらに見られるようになりました。鈴木家の墓は、むしろ古びた存在に見えるのでした。以前、和尚さんが言われていたのですが、「墓があるものの、無縁墓地が多くなっている」ということです。そのように墓地は、納骨堂に納め、そこに新しくお墓を造るのだと言われていました。新しいお墓が目立つほど、無縁墓地が多くなっているのです。一年に一度くらいですがお墓参りに行っています。そこに両親や姉が眠っているということではなく、復活に導かれ、永遠の命を与えられていると示されています。墓誌には姉の名前も記されています。戒名ではなく、本名を記しています。和尚さんの許可を得て、このお墓で姉のキリスト教の埋葬をしたのでした。浄土真宗の両親、キリスト教の姉、共にこのお墓に埋葬されていますが、共に永遠の命へと導かれていると示されているのです。お墓は、永遠の命への信仰が導かれる場なのです。イエス様の埋葬から永遠の命への信仰が導かれているのです。
<祈祷>
聖なる御神さま。イエス様のご復活のお導きを感謝いたします。与えられている永遠の命を喜びつつ歩ませてください。キリストの御名によっておささげ致します。アーメン。