説教「答えてくださる神様」

2017年7月16日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第7主日」 

説教・「答えてくださる神様」、鈴木伸治牧師
聖書・歴代誌下6章17-23節
    テモテへの手紙(一)2章1-7節
     マタイによる福音書7章7-12節
賛美・讃美歌54年版・238「疲れたる者よ」
           524「イエス君、イエス君」

 今朝は「お祈り」が主題になっています。旧約聖書の歴代誌はソロモンのお祈りであり、新約聖書のテモテへの手紙はパウロさんがお祈りについて教えており、またマタイによる福音書はイエス様がお祈りを励ましているのです。こうして聖書によってお祈りを導かれており、私達もいつもお祈りをささげています。今は隠退教師でも教会の牧会はないので、祈祷会に臨むことはなくなりました。いくつかの祈祷会のことが忘れられません。神学校を卒業して最初の教会は東京の青山教会でした。木曜日の夜に祈祷会を開いていました。祈祷会はどこの教会も出席者が少ないようです。夜の集会なので、出席するには制約があるのです。当時の青山教会でも、牧師夫妻と伝道師の私と、教会員が一人、二人出席するくらいでした。他に教会員が出席しないので、出席した方は、お祈りの責任を持たれていたようで、その方のお祈りが始まると、教会の様々な課題、あるいは教会員のためにお祈りするのです。あまり長々とお祈りしているので、主任牧師が「もうそろそろ切り上げてください」と促していました。
 前任の大塚平安教会時代の祈祷会の思い出があります。お祈りの前に、祈りの課題を幾つか示します。「これらのお祈りの課題すべてを一人でお祈りするのではなく、一つのことをお祈りしてください」と言い、お祈りが始まるのですが、やはり祈りの課題すべてをお祈りしてしまうのです。皆さんが同じようにお祈りするので、祈祷会も長くなります。それで、祈りの課題は一人ひとりに割り当てることにしました。それでもほかの課題までお祈りされる方があるのでした。皆さんが余計にお祈りするので、時間が長くなってしまうのです。とにかく、皆さんはお祈りについては熱心にささげていました。
 宮城県の陸前古川教会時代の祈祷会の思い出もあります。東北の冬は寒いです。水曜日の夜、祈祷会は大きな石油ストーブの周りを囲むようにして開いていました。いつも二人の婦人が出席されていました。ある日、二人ともご都合があり、出席されませんでしたが、牧師夫婦二人でお祈りしたのです。祈祷会が終わる頃になると、決まって三番目の子供がやってきます。教会と牧師館はつながっていますので、すぐに来られるのです。夫婦二人だけの祈祷会の様子を見て、「今日は、お客さん来ないねえ」と言ったものです。そのエピソードを教団総会書記になって、教団新報のコラム欄で記しました。すると、意外に反響があり、「あのお話しを説教で紹介させていただきました」と電話で連絡してくださった牧師もいました。どこの教会も出席者があるかないか、牧師夫婦で守っている祈祷会があるのです。
 教会でお祈りをささげること、大切なことであります。ある教会では教会建築の前に、連夜祈祷会を開き、祝福の教会建築を求めたということです。祈ること、献身を深めることであり、信仰生活に欠かせないことなのであります。今朝は、改めてお祈りを示され、お祈りの生活が導かれるのであります。

 今朝は「祈り」が示されています。旧約聖書において、創世記4章においてカインとアベルの祈りが最初に記されています。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となったのであります。二人はそれぞれささげ物をしてお祈りいたします。アベルのささげ物が神様に顧みられ、カインのささげ物は顧みられなかったということが記されています。今朝はその聖書に触れませんが、人間が始まってから、既にお祈りがささげられていたのであります。その後、アブラハム、イサク、ヤコブの時代があり、モーセ出エジプト、カナンの定着があり、いつの時代でも神さまにお祈りがささげられていました。
今朝はソロモンのお祈りであります。ダビデは名君とされ、人々に良い政治を行いました。そのダビデの後を継いでソロモンが王様になったとき、神様はソロモンに「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。その時ソロモンは「今このわたしに知恵と識見を授け、この民を良く導くことができるようにしてください」とお祈りしたのであります。すると神さまは「あなたは富も、財宝も、名誉も、宿敵の命も求めず、知恵と識見を求めたので、その通りになる」と言われました。ソロモンは神様から豊かな知恵を与えられ、聖書の人々をよりよく導いたのでありました。一つの例を示されましょう。ある日、二人の女性がソロモン王に裁きを求めてきます。それは一人の赤ちゃんを互いに自分の子どもであると主張しているからです。二人の言い分を聞いたソロモン王は、この赤子を二つに切り裂いて、それぞれの母親に与えなさいと家来に命じるのです。一人の母親は「そうしてください」と言い、一人の母親は、もう自分の子どもだと言いませんから、そのようなことはしないでくださいと懇願します。ソロモン王は、この赤子の母親はこの人だと言って、切り裂くことをしないでくださいと懇願した母親に渡すのでした。こうした人道的な裁きが世界にまで聞こえ、外国の王様たちがソロモンの知恵を聞きに来たと言われます。神様に知恵を求めたソロモンが祝福されたのです。
 そのソロモンは神殿と宮殿を造るのです。ダビデの時代、ダビデは、自分は屋根のある家の中にすんでいるのに、神さまの契約の箱は幕屋に納められていると思います。幕屋とはテントです。移動式お宮さんということです。40年間、荒野の旅をしたとき、神様の十戒を納めた箱をテントの中においていたのでした。だから神殿を造ることを思い立ちました。ところが神様はナタンという預言者を通じて、神様は人間が造ったものの中には住まわないと言われるのでした。それでダビデは神殿造りをあきらめました。ところがソロモンが王様になると、ソロモンは神殿と宮殿を造ってしまうのです、ダビデの時には神様は阻止するのですが、ソロモンの神殿造りには何も言いません。それはソロモンの神殿造りが神様の御心に適っているからでありました。神様の御心に適う神殿造りが完成したとき、ソロモンは人々を集め、神様に心からお祈りをささげたのであります。その祈りの中にソロモンの神殿造りと、神様の御心が示されているのです。ソロモンはイスラエルの全会衆と共に神殿の前でひざまずき、両手を天に伸ばして祈りました。特に6章17節から示されます。「イスラエルの神、主よ、あなたの僕ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、昼も夜もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが御名を置くと仰せになったところです。このところに向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を許してください」とソロモンは祈ったのであります。
 神殿の中にお住まいになる神様にお祈りをささげるのではなく、神様がこの神殿にお名前を置いてくださっているので、神様の御名に向かってお祈りをささげるのであります。その祈りを神様がお聞きとげくださり、何よりも罪の赦しを与えてくださるのであります。ソロモンはまず罪の赦しを願い求めています。祈りは人間の望むことをお願いするのでありますが、ソロモンの祈りの基本は罪の赦しでありました。人間の罪のゆえに、天が閉ざされることがないように、まず罪の赦しを願うのであります。

 主イエス・キリストは「主の祈り」を教えてくださいました。マタイによる福音書6章に記されています。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と教えておられます。その中に罪の赦しが祈られているのです。まず、罪の赦しを願い求めることがお祈りであるのです。
 今朝の聖書は「主の祈り」を基本にしながら、熱心に祈ることが教えられています。マタイによる福音書7章は「人を裁くな」の教えから始められていますが、人を裁く罪を示しているのです。その上で「求めなさい」と教えているので、この「求める」ということは「罪の赦し」であります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と教えています。何を求めているのかは示されていませんが、それを「罪の赦し」として私達は示されています。罪とは人間関係において生じてくることなのです。「主の祈り」を示されるのは、マタイによる福音書5章から始められて7章で終わる「山上の説教」においてであります。「山上の説教」は「幸い」の教え、「地の塩、世の光」の教えがあり、私達が社会の中で生きる指針を示しています。そして、それは社会の中で人間関係における指針であるのです。5章21節以下では「腹を立ててはならない」と教えています。目に見える形で人を傷つけることばかりではなく、腹のうち、心の中で他者をおろそかにすることも罪であることを示しているのです。今までは表面的にしか戒めを守ってはいませんでした。「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と定められていますが、普通の生活においては殺してはいないのです。だから自分は戒めを守っているということになるのです。しかし、イエス様は内面的に戒めを守ることを教えられました。「姦淫してはならない」、「誓ってはならない」、「復讐してはならない」等、人間関係における生き方を示しつつ「主の祈り」を教えておられるのです。従って、7章7節で教えられている「求めなさい」は何を求めるかが示されてきます。人間関係の祝福の関係が導かれるよう祈り求めるということであります。
 「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者には良い物を下さるに違いない」と示しているのであります。「良い物」とは神さまの赦しであり、新しい人間関係なのであります。「だれでも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」とイエス様は教えてくださいました。心から求め、祝福の人間関係へと導かれるのであります。祈りの人生は祝福の人生なのであります。祈りの人生は勇気が与えられ、力が増し加わるのであります。

 娘がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしていますので、今までも何回かバルセロナに赴きました。2011年に行って時にも、2012年に滞在したときにも、サグラダ・ファミリア教会の内部見学はしませんでした。教会の周囲を見学し、ミサのために内部に入ったことはありましたが、内部の見学ではなかったのです。2014年に滞在したとき、初めて内部の見学をすることができました。日本人としてサグラダ・ファミリアの建築に携わっている外尾悦郎さんと娘の羊子が親しくさせていただいていることもあり、その外尾さんに案内されて内部見学をしたのでした。ステンドグラスの美しさは、誠に素晴らしいものでした。以前、ローマを訪れ、ヴァチカンのペトロの教会を見学しましたが、光の美しさはサグラダ・ファミリア教会の方が優れていると思いました。もう一つ、心に示されているのは、教会の一角に「主の祈り」が掲げられているのです。それも世界の言葉で記されています。主の祈りの中のひとつの言葉を、それぞれの国の言葉で現しているのです。日本語でも記されていました。まさに、「主の祈り」が世界の平和の土台であることを示しているのです。
「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」とテモテへの手紙(一)2章で示しています。人間は際限なく祈り、願いを神様にささげています。しかし、願う私たちに神様がどんなにかお答えになっているかを知ることが少ないのであります。まず、祈る前に答えられている現実を確認することが必要なのであります。テモテへの手紙は「祈りに関する教え」として示しています。2章5節以下、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自分を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです」とこの手紙を書いているパウロは記しています。主イエス・キリストの十字架の救いを世界の人々に宣べ伝えることがパウロの使命でありました。そのパウロの使命は歴史を通して働き人に受け継がれてきたのです。
 テモテの手紙で示されるように、「感謝」をささげることは、お祈りの大きなことです。ですから、お祈りは、まず神様に「感謝」をささげるのです。祈りの基本は願いでありますが、願う前に、与えられているお恵みを確認することなのです。人間関係でも、人に何かを願う場合、いきなり頼みごとはしないものです。おもむろに相手に挨拶をし、お世話になっていることのお礼を述べたりします。そして、「実は」ということで願い事をするのではないでしょうか。神様に向かうとき、どんなにかお恵みが与えられているのです。「数えてみよ主の恵み、数えよ、数えてみよ主の恵み」という讃美歌がありますが、数えきれない神様のお恵みを示され、そのうえでお願いするのですから、自ずと、自分のことではなく、共に歩むことのお祈りへと導かれて来るのです。神様は答えてくださいます。さらに祝福の歩みが導かれてくるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。豊かなお恵みをくださり感謝致します。特に世界の平和を与えてください。災害で苦しむ人々を顧みてください。イエス様のみ名によりおささげ致します。アーメン。