説教「今を生きる信仰」

2023年1月29日、六浦谷間の集会

降誕節第6主日

                      

説教・「今を生きる信仰」鈴木伸治牧師

聖書・ハガイ書2章1-9節

   コリントの信徒への手紙<二>6章14節-7章1節

   ルカによる福音書21章1-9節

賛美・(説教前)讃美歌21・288「恵みにかがやき」

   (説教後)讃美歌21・458「信仰こそ旅路を」

 今朝は、今の時代に生きる信仰について示されます。私達人間はそれぞれの信念を持ち、自分の出来る歩みを一生懸命しているのですが、信仰に生きることも加わってきます。人間を超えた存在に希望を持ち、その存在の示す生き方をいただきつつ歩んでいるのです。聖書は、その信仰の原点は「新しい神殿」と示しています。神殿は聖書の人々の中心です。神殿には神様の契約の十戒が収められています。神殿を通して神様に礼拝をささげるのであります。今朝の聖書は、神殿が破壊されているので、再建についての示しなのでありますが、それと共に神殿は私達自身であることが示され、新しい神殿としての生き方が導かれるのです。神殿は聖書の人々の中心でありますように、今日の私たちにとりましても、教会が中心であります。教会の再建は常に課題となります。それは、もはや古くなった教会の建物の改築であり、また災害で倒壊した教会の再建であります。

 阪神・淡路大震災が1995年1月17日に起きました。早朝に起きた大地震により、兵庫県南部地域は一瞬にして壊滅的な被害を受けました。日本基督教団兵庫教区では、全壊教会・牧師館は15、半壊13、一部損壊・損傷は61などの被害がありました。教会員とその家族、教会学校、附属施設関係者計84名が永眠されました。日本基督教団は直ちに「阪神大震災救援活動センター」を設置し、兵庫教区と共に救援活動を展開したのです。その後、2004年10月23日に新潟県中越地震が起きました。日本基督教団は「新潟県中越地震」被災教会会堂等再建支援委員会を立ち上げ、救済を始めたのであります。そして、2007年3月25日に能登半島地震が発生しました。これに対しても日本基督教団は「能登半島地震」被災教会会堂等再建支援委員会を発足させ、救援活動をしたのでした。さらに2011年3月には東北関東大震災が起きました。その時の津波の被害、原発事故等の問題が今でも続いています。災害を受けたにも関わらず、教会の復興が早いと他の宗教の人々が驚いていることを聞いています。神社や寺等は、なかなか復興に着手できずにいるのに、またたく間に復興していることに感心されたというのです。災害のお見舞いがありますが、教会の復興を願うのは、キリスト教会の人々は、自分のことのように受け止め、献金をささげるのでありました。

 旧約聖書はハガイ書であります。主の言葉が、預言者ハガイに示されました。聖書の人々はバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに囚われているのです。この言葉は指導者達、また聖書の人々の残りの者に告げる言葉でした。「お前たち、残った者たち、誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちの見ている様は何か」と言っています。「残った者」と言っているのは、50年前に神殿が焼き払われ、壊された現実を見ている人達であります。この人たちは破壊される前の、元の神殿を知っているのであります。そうすると、破壊された時、例えば20歳であれば70歳にはなっているのです。50年間の間に、バビロンで死んだ人もいます。今、この廃墟の神殿を見ている人達は、昔の神殿を若いときに見ているのであり、そこで礼拝した人たちなのでした。それが「残った者たち」なのであります。ハガイは特にそれらの人々の奮起を促しているのであります。「国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる」と述べています。「働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる」と励ましています。今こそ神様が共にいまして、中心となるべき神殿の再建を導いてくださるのです。

 「ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている」と神様が共におられて導いてくださっていることを示すのであります。聖書の人々にとって、神様が聖書の人々と契約を結んでくださったこと、これが原点なのであります。あの苦しい奴隷から解放してくださり、特別な神様の民としてくださったこと、そのために十戒を与えられ、戒めに生きることが祝福となることを示されているのであります。その契約を神様が忘れてはおられないということをハガイは示すのであります。契約の民であることは、今も変わらないということです。その十戒を中心に再び生きること、そのために神殿を再建すること、これがあなたがたの生きる方向であると示すのであります。神殿こそ人々の象徴となるのであります。神殿を中心に生きることが聖書の人々の生き方なのであります。ハガイの熱意は人々を動かし、神殿の再建を人々は目指しました。それにより4年半で神殿が再建されたと言われます。ソロモンの神殿建築は7年半かかったと言われますが、それよりも早く再建を成し遂げたのであります。まさに人々の中心、生きる中心を作ったということになるのであります。「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与えると万軍の主は言われる」とハガイは人々に示しているのであります。神殿は神様の栄光であり、ここから平和が生まれることを示しているのであります。神殿は、単に建物ではありません。人々が神様のご臨在を示される場であり、神殿を通して平和に導かれるということなのです。

 神殿に対する信仰は神様に対する信仰であります。しかし、ともすると神殿を通して人間の誇りが前面に出てくるのです。そのことを示しているのが今朝のルカによる福音書21章であります。21章には冒頭に「やもめの献金」についてのイエス様の示しがあります。神殿には賽銭箱があります。イエス様は人々が賽銭箱に献金を入れている姿を見ています。金持ちたちがたくさん入れていたということです。献金をささげるとき、ささげる人は、特にたくさんささげる人は、祭司にどれだけの献金をするということを声を大にして言うのです。その声は周りに聞こえますから、人々はその人の多額の献金により、信仰の深さを知ることになるのです。そういう状況の中で、貧しいやもめがレプトン銅貨二枚をささげていました。ギリシャ貨幣の最小の額です。「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」とイエス様は言われたのであります。明らかにこの貧しいやもめは神様に向けてささげています。しかし、金持ちたちは、神様ではなく自分に向けての献金なのです。人々の評価、称賛を得るためなのであります。 

 21章5節以下では、イエス様は、人々が神殿の見事な石と奉納物で飾られていることを話し合っていることを聞き、それに対して、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と述べています。人々にとって神殿は美しく、見事な石で造られていることで喜んでいます。そういう神殿に金持ちたちが献金しているのです。神様ではなく、神殿を通して自らを高めるためなのです。ささげる献金も「やもめの家を食い物に」したものなのです。

 神殿とは何か、主イエス・キリストは貧しいやもめの献金を通して問いかけ、示しているのであります。神殿は心から神様に自分をささげる所なのです。美しい神殿に見とれているのではなく、その神殿を通して神様を仰ぎ見なければならないのであります。神殿を通して神様の御心をいただくのであります。これは教会の原点であります。教会に集められ、共に賛美と祈りをささげるのです。神様に向けての祈りであり、神様は御心を示してくださるのであります。

 ダビデ王は神様が下さった十戒を収めるため、神殿を造ろうとします。しかし、造ることができず、その後はソロモン王になり、ソロモンは立派な神殿を造り、また立派なお城も造り上げるのです。しかし、ソロモンは神殿を造り上げたとき、神様にお祈りをささげています。「我が神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになったところです」と祈りました。つまり、この神殿に神様がお住まいになるというのではなく、この神殿に神様のお名前がとどめられているということです。そのお名前に対して、心からなる祈りをささげるので、神様が常にこの神殿に目を注いでくださいと祈っているのです。これが神殿の意味なのです。

 教会は主イエス・キリストの体であります。主イエス・キリストの救いをいただいた人々が、イエス様を中心にして神様の御心をいただく場なのです。そして、私達自身が神殿になり、神様の御心を宿すのであります。そのように導くのは主イエス・キリストの十字架の救いをいただくからです。パウロはこのようにも示しています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(コリントの信徒への手紙<一>3章16節、17節)。私達が神の神殿であるのか、ないのか、それは私達が神様に心を向けることにより導かれるのであります。神様の御心をもつ者は神様の神殿であるのです。この神殿に神様が御心をさらに注いでくださるのです。この時代に、いつも神さまの御心をいただいて歩むことなのです。その生き方が「今を生きる信仰」なのです。

<祈祷>

聖なる神様。十字架の救いを与えられ、神様の神殿へと導かれ感謝致します。いつも御心を宿す神殿とさせてください。主の名により、アーメン。

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