説教「喜びの人生」

2013年5月12日(日) クワラルンプール日本語キリスト者集会
母の日・オープン・チャーチ

説 教、 「喜びの人生」 鈴木伸治牧師
聖 書、 ヨハネによる福音書15章11節〜14節
 

本日は「母の日」を覚えての礼拝であり、また本日はオープンチャーチとして国際理工情報デザイン専門学校の生徒の皆さんと共に礼拝をささげています。キリスト教の礼拝には初めて出席される方もおられるでしょう。その意味でも本日は新しい経験をされているのであります。
 キリスト教は毎週日曜日には教会の集いとして礼拝をささげています。聖書が読まれ、その聖書は、神様が現代に生きる私達に生きる指針、導きをお与えになっていることとして聖書の言葉を聞いているのです。キリスト教の皆さんは日曜日になると教会に行くのです。毎週、毎週、よくも飽きないで礼拝に出席するなあ、と思っているでしょうか。人間の心は弱いのです。聖書に励まされて、よし今週は頑張って生きようと思っても、なかなか持続しないと言うことです。たとえば風船に空気をいっぱい入れて、パンパンにふくらませても、一週間もすればしぼんでしまい、ふにゃふにゃになってしまうのです。私達の心も同じで、日曜日に新しい神様のお心をいただいても、一週間もすると抜けてしまうと言うことです。それで、また教会に集まり、神様のお心をいただいて、心を膨らませて歩み出すのであります。
 私は74歳になりましたが、そういう人生を歩んで来ました。そういう人生がまさに喜びであったということを、今日は皆さんにお話し致します。本日は「母の日」を覚えての礼拝です。どなたにも言えることですが、私の人生も母の祈りによって支えられていることを示されているのです。今では「母の日」はデパート産業になっていますが、「母の日」はアメリカの教会で始まっています。昔、アメリカの教会のことですが、教会学校の先生をしていたお母さんが、いつも子供達に神様の愛を教えていたことを娘が称えまして、お母さんが亡くなった記念日にカーネーションを飾ってお母さんを称えた、と言うことが始まりなのです。近所の人たちはあの娘がお母さんへ、あのようなことをしたというわけで、感銘深く受け止め、丁度その日は5月の第2日曜日でしたので、これからはこの日を「母の日」とすることにしたというのです。それが始まりで、日本にもこの教会の行事が入ってまいりました。昔は5月の第二日曜日と言えば、国中がお母さんに感謝していたのです。私は日本が太平洋戦争に負けた翌年に小学校1年生になりました。その頃、公立の小学校でも、この「母の日」には「お母さん、ありがとう」というリボンを胸に付けさせられました。その後、家庭の様々な事情を考慮するようになり、母の日は公ではしないことにしました。しかし、デパート産業はいよいよ盛んに、お母さんに感謝しましょうと奨励している訳です。


 私の人生の課題は「人様に喜んでいただくこと」であります。それは、私自身が試行錯誤して得た課題ではなく、私の母の私への願いでありました。私は母の願いを、私の人生だと示されているのです。私がキリスト教へと導かれる経緯をお話させていただきます。
 私は日本が戦争に敗れた1945年の翌年に小学校1年生になりました。従って、戦争中は就学前の時代で、実際の戦争というものを経験していません。しかし、横浜の外れに住んでいましたので、空の上をアメリカの爆撃飛行機が横浜、東京方面に編隊を組んで飛んで行く様をいつも見ていました。その時は空襲警報が鳴り、みんな防空壕に逃れるのですが、その防空壕の入口に出ては空を仰いでいました。横浜方面市街地の空が赤くなっていたことも覚えています。私には二つ上の兄がいました。戦争中は学童疎開が強制され、兄と三番目の姉が疎開させられていたのです。戦争が終わり、兄と姉は帰ってきますが、兄は栄養不足で痩せていました。1年生になったとき兄は3年生ですが、栄養失調、麻疹、肺炎を患い死んでしまうのです。
それから2年ほどして母は戦争疲れ、兄を失った悲しみ等が重なり入院するようになりました。ある日のこと、見知らぬ子供たちが病室を訪れたのです。そして、花をいただいたのでした。おそらく「早く良くなってください」との言葉を言われながら花を贈られたと思います。見れば、自分の亡くした子供と同じくらいの子供たちだったのです。その日は6月の第二日曜日でありました。この日は、教会では「子どもの日・花の日」という行事が行われます。昔、アメリカの教会で花をたくさん飾り、子供たちを集め、その子ども達に祝福を与えたことが始まりだとされています。その日、子ども達は花を持って教会に集まり、美しい花を咲かせてくださる神様に感謝をささげ、その花以上にお恵みをくださっている神様に感謝をささげるのです。そして、その花を持参して病院等を訪問し、入院している人々をお見舞いするのです。そのような行事であることを知らない母でしたが、見ず知らずの子供たちのお見舞いをいただき、深い感銘を与えられたのでした。その後しばらく入院していましたが、退院するや、自分を見舞ってくれた教会の日曜学校に私を連れて行ったのでした。母は見舞ってくれたお礼を述べ、これからはこの子を通わせますから、よろしくお願いしますと挨拶しているのです。その頃、私は小学校3年生でした。それからは日曜日になると、「さあ、日曜学校へ行きなさい」という訳で、私の意思に関係なく、無理やりに日曜学校に通わせられたのでした。母は花をいただいてお見舞いを受け、感銘を受けたのですが、だからと言って自分が教会に行くということではなく、自分の子供も「人様に喜んでいただく人になる」との願いを持ったのです。母にしても父にしても浄土真宗門徒であり、檀家である寺を中心に生きていたのです。そういう母の励ましによって日曜学校に通い、3年生は途中からでしたが、4年生、5年生、6年生は精勤賞をいただいたのでした。
 日曜学校に通いつつ過ごした小学生の時代ですが、確かに良き時代でしたが、二つの挫折を経験しました。小学生の時に味わった挫折が、私にはその後の人生の力になったと思っています。もう6年生になっていました。そして、間もなくクリスマスを迎える時期でした。小学校のクラスの友達が、自分も日曜学校に行くと言いだしました。彼は頭も良く、ハンサムでみんなから好かれていました。その彼が日曜学校に行くと言ったとき、なんとなく引っかかるものを感じていました。日曜学校では、6年生はクリスマスに劇を演じることになり、先生が配役を発表しました。そしたら、まだ出席して1ヶ月もたっていない友達を先生はヨセフにしたのです。言うまでもないことですが、クリスマス物語はマリアさんとヨセフさんが登場し、人口調査でベツレヘムの町にやってきますが、宿屋さんは泊まるところが無く、馬小屋に滞在することになります。そこでイエス様がお生まれになるのですが、クリスマス物語において、やはりヨセフさんは主役でもあるのです。ちょっとどころか面白くありませんでした。今までほとんど休むこともなく出席しているのに、私の役というのは、ヨセフの大工仲間ということでした。セリフもなく、ただヨセフの周りでうろうろしているだけでした。それが日曜学校に来て1ヶ月くらいの彼を主役にするのですから、面白くないのは当然です。もう、日曜学校に行きたくないと思います。しかし、私はその後も出席していました。母の励ましがあるからです。クリスマスが終わり、新年を迎えたとき、主役になった彼はもう日曜学校には来ませんでした。私は何故かホッとした思いを今でも覚えています。忘れもしない、彼の名は「ふくしま君」で、今でも思いだしています。この試練を乗り切ることが出来たのは、母の願いがあったからだと思います。「人様に喜んでいただく人になる」との母の祈りが私を励ましていたのだと思います。
 小学生時代に味わったもう一つの挫折は、中学受験の失敗でした。その日曜学校に通う子ども達はほとんどが教会に関係するキリスト教主義学校小学部の生徒で、そのまま中学部に進級するのです。それで私もその学校の中学部に入りたいと思うようになり、両親も励ましてくれたのでした。一生懸命受験勉強をしましたが、合格することが出来なかったのです。小学校の担任の先生が、このままみんなと一緒に公立中学に進むには行きにくいであろうからと、別の私立中学を紹介してくれました。そして、もはや今までの日曜学校に行かれないので、上の姉二人が出席している横浜の清水ヶ丘教会に出席するようになったのであります。中学、高校生時代に出席しているうちにも信仰を与えられ、高校3年生のときに洗礼を受けたのです。洗礼を受けると言うことは、自分の人生はイエス様のお心をいただいて生きると言う決心でもあります。それまでの日曜学校時代は予備的な準備段階でしたが、高校三年生になって、本格的にキリスト教に生きるようになったのです。

 本日のお話の土台となっているのは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という聖書の言葉です。これはイエス・キリストの教えであります。別の言い方の教えは、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」ということです。人が人を愛して生きる、人間の基本的な教えであります。大変良い教えとして喜ぶわけですが、喜ぶだけではなく、実践しなければならないのです。しかし、この教えをいざ実践するとなると、これはかなりきついことが分かります。人間はやはり自分が優先されること、損をしたらつまらないと思うからです。
自分の気持ちは大切ですが、自分の気持ちは自分中心でもあるのです。その自分中心を排除しなければなりません。そうでなければ他の存在を排除し、他の存在を苦しめることになるのです。これは幼稚園では繰り返し示していることでした。私は2010年3月まで神奈川県にある大塚平安教会の牧師でした。神奈川県厚木市大和市がありますが、そこに綾瀬市があり、そこにある大塚平安教会で30年間牧師であり、それと共にドレーパー記念幼稚園の園長も担っていました。毎年、2月になりますと節分があり、各地で豆まきが行われます。実は幼稚園でも行っていました。園児達はクラスで鬼のお面を作ります。そしてホールに集まりまして豆まきを行うのです。クラスごとに鬼のお面をつけた子供たちに園長が豆を投げてあげます。「我がまま鬼、出て行け」、「いじわる鬼、出て行け」と言いながら豆を投げてあげますと、子ども達はきゃあ、きゃあ言いながら逃げ回るのです。今度は園長が鬼になります。子ども達は一斉に豆を投げ付けます。豆は殻ごとのピーナツで、子ども達は思いっきり投げるものですから、それはそれは受難の時です。「もう、我がまま言いません。いじわるをしません」と言いながら逃げ惑うのです。こうして節分の豆まきを行うのですが、あるとき一人のお母さんが面接に来られました。キリスト教主義の幼稚園なのに、どうして豆まきを行うのですか、との質問です。豆まきは神社仏閣で行うもので、キリスト教が行うのはおかしいのではないですか。仏教の幼稚園がクリスマス会を行うのと同じですという訳です。
 そこで園長は聖書を取り出し、豆まきの行事はイエス様の教えを実践的に学ぶことではよろしいことです、とお話します。新約聖書のマタイによる福音書4章にはイエス・キリストが悪魔の誘惑を受けることが記されています。イエス・キリストはまだ人々に現れる前であり、荒野において修行の時をもっていました。40日間、断食して祈りのうちに過ごし、修行が終わったとき、イエス・キリストの前に誘惑する者、悪魔的な存在が登場します。40日間、断食して過ごしたとき空腹感はありませんが、これから社会に現れ、神様の御言葉の御用をするにあたり体力が必要です。悪魔は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という訳です。それに対して、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と旧約聖書の言葉を引用して答えるのでした。次に悪魔はイエス・キリストを高い建物の上に連れて行き、「ここから飛び降りなさい」というのです。「神様が天使を送り、下の石畳みに落ちる前に支えてくれる」という訳です。それに対して、「あなたの神である主を試してはならない」と、やはり旧約聖書の言葉を引用して答えるのでした。今度は、悪魔は非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して悪魔を拝むなら、これらのものはみな与える」というのです。それに対しては、「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ、聖書に書いてある」と言って悪魔の誘惑を退けるのであります。イエス・キリストの前に悪魔、サタンが現れて誘惑しているように記されていますが、これは、むしろイエス・キリストの内面的な戦いなのであります。食べること、権威、豊かさ等は常に人間が持つものであり、これらが他者排除になり、自分を中心にさせるのです。イエス・キリストは内面的な自分との戦いに勝ったということなのです。
 私達はこの世に生きる者として、悪なる存在と戦いつつ日々歩むものですが、一番の悪は自分の中にある「我がまま」であり、「いじわる」であり、「自己満足」であるのです。幼稚園における節分の豆まきは、子供たちが実践的に自分の「我がまま」と戦うことであることをお話しました。園長に、「キリスト教の幼稚園が豆まきなんかして」との思いで抗議しに来たお母さんですが、「良く分りました」と言われるのでした。
 このようにして、幼稚園ではイエス・キリストの「自分を愛するように、お友達を愛する」という教えを繰り返し示しています。毎週金曜日には全園児が合同礼拝をささげます。あるとき、お話が「赦し」でありました。赦し、言葉も難しいのですが、子供たちがどのように理解しているのか聞いてみました。「イエス様が、お友達を赦してあげなさい、と言っていますが、赦すってどういうことでしょう」と聞いたのです。すると、一人の園児が手を挙げて、「がまんしてあげることです」というのです。まさにその通りなのです。赦しとは、相手に対する自分の気持ちを我慢することなのです。お友達を愛するということは、我慢してあげることが、まず大切なことなのです。子ども達はお友達と過ごすうちにも、実践的にお友達を受け止めて行くことが培われて来るのです。
 「存在を知る」と言うことは、自分を知ることでありますが、他の存在を知ると言うことであります。他の存在と共に生きることが人間の歩みであることを知ると言うことなのです。

 私の人生の課題は「人様に喜んでいただく」ということについては、最初にお話しました。母が入院中に、見ず知らずの子ども達にお見舞いをいただいたこと、母はこのことに感動し、自分の子供も「人様に喜んでいただく」人になる、ということを願ったのです。それがどのように成長して、「人様に喜んでいただく」ようになるのか、もちろん母にしても分かりません。私自身も母の願い「人様に喜んでいただく」ようになることについて、母が私にかけた願いを受け止めるようになるのは、その後のことであり、キリスト教の牧師、園長になってからでした。人々と接しているうちにも、これが母の私に掛けた願いであったと思うようになったのです。中学生、高校生の頃から横浜の清水ヶ丘教会に出席するようになり、高校3年生で洗礼を受けました。その頃になると、自分の進路を考えるようになっていました。自分が考えるというより、自分の将来は牧師になることではないか、と示されていたのです。そのような思いを両親に話しました。日曜学校に常に励まして出席させた母ですが、「何も牧師さんにならなくても」といって渋るのです。高校を卒業して神学校に入りたかったのですが、それから5年間は社会で働くようになりました。その両親を説得してくれたのが、私の長姉でありました。「私がお父さん、お母さんと暮らすから、あんたは神学校に入りなさい」と励ましてくれたのです。そして両親を説得してくれました。それにより神学校に入り、牧師の道を歩み始めたのであります。23歳の時でした。
 両親の願いを重く受け止めつつ、牧師と園長の職務を続けてきたのです。親の願いは、政治家になるとか、教育者になるとか、いろいろな願いがあるでしょう。しかし、子どもは親の思うようにはなってくれないことが多いでしょう。刑務所の教誨師をしていますが、教誨師の研修会がありました。ダルクに所属する人のお話でした。ダルクは薬物依存症の人々を救済する組織です。お話に立った人は、父親が医者であり、自分の子供も医者にさせるための教育をしていたのです。しかし、親の願いにはどうしても従えず、薬物依存症になっていくのです。立ち直れなくなったときにダルクに出会います。そして、薬物依存から立ち直り、今は自分と同じような人たちを励まし、立ち直らせることを生きがいとしているとお話されたのでした。親は子供にどんな願いをかけるのか。場合によっては、子どもは反対の方角になってしまうこともあるのです。

ヘルマン・ヘッセの童話「アウグスッス」を紹介しましょう>
 ある町に一人の若い女が住んでいた。結婚してまもなく夫を失ってしまったが、彼女は子どもをみごもっていた。身よりのない彼女のために隣に住む老人が面倒を見てくれたので、彼女は子供が生まれ洗礼を授けるときに、隣の老人に代父となることをお願いする。洗礼式の終わったお祝いの席で、「洗礼のお祝いとして、小さなオルゴールがなっている間に、この子のために一番いいと思われることをひとつ考えてみなさい。そうしたらそれをかなえてあげよう」とその老人はいう。オルゴールがなり出したときに、母親は「みんながおまえを愛さずにはいられないように」と願う。その男の子は、誰からも愛される少年に育っていく。願いは叶えられたのである。やがて母親はなくなり、美しくりりしい青年となったアウグスツスは金持ちの未亡人と恋に陥るが、かれはやがて別の美しい娘とも恋をする。彼はその他にも次々に恋人を変え、彼の心もすさんでくる。スキャンダルにまきこまれたり、夫から訴えられたりして疲れ切ったアウグスツスは毒の入ったブドウ酒を飲んで自らの命を絶とうとする。そのときに、あの老人がまた現れる。「あなたのお母さんが願ったことはかなえられたけれど、それは君にとって害になってしまったようだね。もうひとつの願いを叶えてあげられるとしたらきみは何を望むかね。君はたぶんお金や宝は欲しがらないだろう。権力や女の愛もきみはもうたくさんだろう。考えてみたまえ。君の堕落した生活を再びより美しく、よりよくし、君を再び楽しくする不思議な力があると思ったら、それを願いたまえ。」「ぼくの役に立たなかった古い魔力を取り消してください。その代わり、ぼくが人びとを愛することができるようにしてください!」 そしてその結果、アウグスツスは彼を愛したすべての人から憎しみと侮蔑の言葉を投げつけられ、訴えられて獄につながれ、出獄したときには誰からも見捨てられていた。しかし、かれは世界をさすらい、何らかの形で人びとに役立ち、自分の愛を示すことのできる場所を探し続ける。
 愛される人になってほしい、とは現代でも私たちが持つ子どもへの願いでもあります。しかし、そのような受け身ではなく、積極的な生き方を願うことこそ大切なのです。「愛される」より「愛する人になる」ということです。私の場合、「人様に喜んでいただく」という受け身のように聞こえますが、「喜んでいただく」という能動的な生き方なのです。私は今でも母の願い「人様に喜んでいただく」生き方は未来形でもありますが、現在の生き方として示されているのです。
 ここでアッシジのフランシスの「平和の祈り」から示されましょう。

主よ、わたしを平和の道具とさせてください。
わたしに もたらさせてください……
憎しみのあるところに愛を、
罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、
誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを。
ああ、主よ、わたしに求めさせてください……
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活するからです。

『フランシスコの祈り』(女子パウロ会)より


「互いに愛し合いなさい」と教えられています。これまでに愛とは自分の気持ちを超えて他者を受け止めることである示されています。「互いに愛し合う」ということ、なんとなく気持ちが暖かくなるような言葉です。しかし、ではこの言葉を実践するとなると、どのように過ごしたら良いのでしょうか。イエス・キリストは私達が自分の思いを超えて、他の存在を愛することが出来るように十字架にお架りになったのです。
私達人間は自己満足により生きています。自己満足は悪いものではありません。しかし、自己満足が高まると他者を排除し、自分さえよければ良いということになるのです。その意味で、私達はいろいろな形で他者を排除しながら生きているのです。人間がみな、他者排除による自己満足に生きるとすれば、人類は滅びてしまうのです。イエス・キリストはその人間の自己満足を滅ぼすために十字架にお架りになったのです。イエス様が十字架にお架りになるのは、当時の指導者達の妬みによるものです。しかし、神様はこの十字架を人間の救いの場とされたのです。主イエス・キリストは十字架により死んで行きますが、その時、人間の奥深くにある自己満足、他者排除をも共に滅ぼされたのです。従って、私達は、十字架を見上げるごとに、イエス様が私の悪い姿を滅ぼしてくださったと信じるのです。これがキリスト教の信仰なのです。この十字架により、受け身の愛ではなく、能動的な愛、働く愛へと導かれるのです。


 以上、私の74年間の人生で教えられ、実践し、経験したことをお話させていただきました。今回の主題は「喜びの人生」ということでしたが、一人の存在として、今自分が生きていることが大切なことであると言うことです。私の人生の課題は「人様に喜んでいただく人になる」ということですが、そのために何をするというのではなく、このままの自分が、世の人々と共に生きること、それでよろしいのです。私の存在そのものが、人様に喜んでいただける、そのことを祈りつつ歩むことなのです。
 私の名前は「伸治」ということですが、私の兄は「光政」でした。父の名は「政次郎」であり、光政は政次郎の光となるようにつけられた名であると思います。それに対して、私は伸治(のぶはる)ですから、まあ何にしても伸びてくれればよい、との思いでつけられたと思うわけです。そこで詠んだ歌です。「のぶはると親は名付けてくれにしも、我が忠実なるは背丈ばかりか」と詠んだものです。何かひねくれて自分の名を捕らえているようですが、積極的に自分の名前を受け止めるようになりました。私という存在には「人様に喜んでいただく人になる」との親の願いがかけられているのですから、背丈ばかりではなく、愛の実践を伸ばし、共に生きることを伸ばしつつ歩むことでもあると示されているのであります。
 皆さんの大切な存在が、今後も祝福され、社会の中で人々の希望となっていることを受け止めつつ歩まれますようお祈りして、終わりたいと思います。

<お祈り>
聖なる神様。この世に生きる存在として、私は大切な者です。人々と共に生きる者へと導いてください。イエス様のお名前によりおささげ致します。アーメン。